2014年01月22日

処世術箴言


毎日あくせく働き、過去の後悔に苛まれ、未来の理想に向き合い、今を楽しめない人々。我々が今を幸せと感じるのはいつなのでしょう?


最近読んだこの本について感じたことを書いてみます。



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人は誰のために努力するのだろう?



人から褒められたい、人から認められたい、という願いは人々が持つ欲望の一つです。


 

「あいつかよくやっているな」「あの人はすごい人だ」「とても素敵な人だ」、と思われることを常に目指し、それが自分の原動力となり、人々に認められることにより、頑張ることができるのでしょう。



しかし、他人の受け止め方により、自分が頑張っていても人に認めてもらえないこともあります。



例えば、自分の目標が達成でき、自分ではよくやったという思いで三人の方に結果を伝えるとします。



Aさんは、「よくやった、凄いね」と言います。Bさんは、「もう少しこうした方がよかったのでは?」と言います。Cさんからは、「う〜ん、これではいけないね」と三人三様の意見です。Aさんには認めて貰えましたが、Bさん、Cさんには認めてもらえなかったのです。



認めてもらえないと、嫌な気持ちになります。



そこでBさん,Cさんに認めてもらえるよう、再び努力します。やっとの思いで結果を残し、また同じ三人に報告します。結果、今度はBさんに認めて貰えましたが、Aさん、Cさんには認めて貰えなかったのです。



そして、どうしていいのか本人にもわからなくなってしまいます。いつまで経っても自分に納得できず、苦労や苦しみが増えるばかり。これは第三者の承認を求め、その結果に一喜一憂することにより自分を見失っているに他なりません。一体、誰のために自分は努力するのでしょう。



これでは、自分の人生が他人の評価を気にしてばかりの、他人のために生きる人生になってしまいます。そしていつの間にか世間では、他人と自分を比べるため、勝ち組と負け組の言葉が生まれました。





勝ち組と負け組の定義


そもそも、勝ち組と負け組とは何でしょうか?世間では年収、学歴、勤務先、生活レベルなどで、その基準を決めていますね。その中でも年収が最たるものです。誰が決めるのか知りませんが、勝ち組と負け組なんて比べる基準により変わります。



フォーブスの2013年度版世界長者番付によると、1位のカルロス・スリム日本円で6.79兆円、2位のビル・ゲイツは6.23兆円となっています。彼らに比べれば、我々は完全に負け組ですね。彼らの前で、年収1000万円はとても恥ずかしくなります。



かたや、年収1000万円に満たない人々にとって、1000万円の年収はとても魅力的に思え、年収の少ない人々にとっては、彼らは勝ち組みになります。(言っておきますが、年収1000万円はバラ色人生でありません。少し余裕のある生活ができる程度に考えておいた方がいいです。)



相対的な判断基準は、時代や社会情勢によって変化します。相対的基準で物事を判断すれば、ある日突然勝ち組だった人が負け組になり、その逆にもなります。常に終わりなき戦いを続けます。



競争が成長の原動力になることは否定しません。もちろん、お金のある方が自由な暮らしができます。しかし、夢見たモノを手に入れ、夢が実現出来ても、どこかで満足出来ない自分がいます。比べてばかりいるため、更に苦しみは増すばかり。金銭、資産、地位、名誉、物資などを基準に自分と人を比べていると、その結果のみに縛られてしまう無間地獄へと陥ります。






幸せの定義


幸せな自分でいるためには、他人と自分を比べるのをやめて、絶対的価値観の中で自分自身と闘うようにすればいいのです。前述したように人と比べてばかりいると、価値観を他人の承認や外的要因に求めてしまいがちになります。基準を自分自身の中の持つのです。



そうすることにより、他人の意見や外的要因は気にならなくなり、比べる基準は自分の中にあるものだけになります。自分と闘うのですから、自分の心に問いかけるため、自分の基準で判断できます。これほど確実で信頼できる方法はないでしょう。



その結果、思い描いていた夢やモノが手に入ればそれでよしとするのです。幸せは人から頂戴し、また、人に求めるものでもありません。自分の中にあるのです。



決して私は頑張るなとは言いません。努力している人に水を差すつもりもありません。頑張りたい人は頑張ればいいのです。自分が目指している方向へ向かえばいいのです。しかし金銭的な部分だけが基準であるならば、どんなに頑張ってもフォーブスにでてくる大富豪になれる確率は低いでしょう。もちろん私も無理です。



では、どこまで頑張るのか?どこを目標にするのか?その基準が曖昧だからこそ迷うのです。迷わないために、自分の中の基準を決めるのです。白黒、表裏、有無などの二元論で考えるのではなく、考え方を調和させた形で決めればいいのです。自分の内にあるものと対峙し
その結果として、他人に認められる形が理想だと思います。




この本の中にも書いてありますが、「あまり不幸でない」「嫌なことが我慢できる程度に生きている」悲しみと苦痛が少ない人生が、幸福だとも言えるのでしょう。そして、この本の中で運命という言葉が出てきますが、私は運命などないと思っています。



自分に起こる出来事は、原因と条件による結果であり、最初から決まっているものではないと考えているからです。そのため、運命という言葉だけで片付けてしまうのは好きではないのです。だが一つだけ運命と言えるものがありましたね。人が絶対に抗えない死こそ、人に与えられた運命だと言えるでしょう。




誰のモノでもない自分だけの人生です。幸せの青い鳥はどこにもいません。自分が気付かないだけで身近にいます。



自分探しをしても、自分はどこにもいません。いつも自分はここにいるからです。



人に意見を求めても、最後に決めるのは自分です。他人は責任をとってくれません。



幸せは「己」の中にある。



一番の理解者である自分に語りかけ、対話し決めたモノが自分の中にあり、それが充足した時、人は幸せに思えるのだと私は考えます。






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2013年12月21日

運命なんてありません



運命を信じない

我々の人生において、運命というものはあるのでしょうか?


運命とは、「人の意思や想いをこえて人に幸・不幸を与える力を意味する」とあります。


学業、仕事、出会い、結婚、病気、事故・・・。これら全ては、人々の中で良いと悪いに区別されています。


良い出来事は、仕事が順調で収入もアップした。良きパートナーに巡り合えた。健康で病気知らずでいる。その反面、悪い出来事は、仕事が上手くいかない。パートナーに巡り合えない。交通事故を起こした、などがありますね。


これらの出来事は全て運命で起こるのでしょうか?


私はそう思いません。


運命で人生の全てが決定されているのなら、何もしなくてもそうなるのです。どうせ同じであれば、座して動かず、行動をしなければいいだけです。努力も必要ありません。


しかし、運命があると言われる方は、行動も起こさず努力もしていなのでしょうか。そうではありませんね。自分に厳しくされている方も多いでしょう。


資格を取得し自分のスキルを高める。異性から関心をもたれる様に自分を磨く。収入がアップするように仕事の方法を変える。病気にかかり難い体づくりのため健康に配慮する・・・。


これらは何故行うのでしょう。運命で決まっているのであれば、全て必要ありませんね。怠惰な人生を送ればいいのです。


では何故人は努力し行動するのでしょう?


私が思うには、運命があると信用しながら行動し努力する人は、行動や努力によって運命が変わる?と考えているからです。運命は自分で変えることが出来る?


それなら、それは運命ではありませんね。


行動や努力で変わる運命なんて運命と言えません。自己矛盾を起こしているのではないでしょうか。



原因や条件で変わる

人生は、運命で予め定めれらているのではなく、原因や条件によって結果が変わるのです。


努力している人は、良い結果を求めるために、原因と条件を整えるのです。


例えば車で交通事故に遭うとします。


これは偶然でしょうか?


自分が外に出かけることが原因で、条件は家を出た時間、道順、スピード、交通量などが考えられます。その他に、自分の前日までの行動や、相手がいれば相手の行動も絡んできます。


複雑な原因と条件が重なり合い、その結果として交通事故が起こるのです。こんなもの分析して考えるのは大変ですから、目に見えない何かの力が働き、自分の身に起こったことを運命と言うのでしょう。


「運が悪かった」とよく言いますよね、この一言は大変便利な言葉です。


畑に蒔いた野菜の種が芽を出しすくすくと育ち、作物として収穫出来るのも同じです。


種(原因)、気候と手入れ(条件)、収穫(結果)となります。もちろん、先の定義で言えば人の意思や想いが介入しますから、運命ではありません。運命で農作物の生育に変化が起こるという人はいませんよね。


「このキャベツは運命だから大きく育たない」と言われたら、この人は大丈夫かな?と思ってしまいます。


人生何もしなければ、大きな変化は起こりません。言い方を変えれば、何もしないから、何も変化しない結果になるのです。ここが重要なポイントだと思います。


お金が欲しい、異性にもてたい、仕事のスキルを上げたいと漠然と考えてはいけないのです。畑に種を蒔かずして収穫が望めないと同じで、原因と条件が整っていないと結果は出ません。


先ず結果が期待できる原因をつくり、条件と整えないと・・・。


アダム・スミスが国富論で書いた見えざる手。これも原因と条件によるものだと考えます。



人生は全て運命で決まる!?

こんなフレーズで始まる、自己啓発セミナーがあったとします。


ありそうなタイトルですね。少し興味はありますが、これは本当でしょうか。


前述の考え方をすれば、私の中でこれはありえませんね。


しかし、「私がこう思うのも運命だ!」と言われると、前述の内容は全て否定されます。


証明することも否定することも不可能ですから、止むを得ません。


私が仕事で独立したのも運命でしょうか?


全ては人の中に存在する、個々が持つ思考に左右されるのでしょうね。


その思考も運命で決まっている!?


こうなるとキリがありませんので、今日はこの辺で・・・。





posted by ヨッシー at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2013年07月09日

職業の多様性



組織に属するリスク


会社に勤めていても給料は右肩下がりで、今後大きな収入の変化が望めない時代になっています。これからは組織に属すること自体、決して安心安全な働き方ではないようです。



かえって会社組織の中だけで通用するスキルしかないと危険かもしれませんね。会社に何か問題が起これば、人生が左右されます。そうなると個々が自衛手段として、それぞれに自分の収入を得る方法も必要となります。




自分自身のスキルを生かし、組織に属さない働き方。




私の周りにもそんな方々が、大勢いらしゃいます。




自宅での開業


例えば美容関連では、ネイルやまつ毛エクステがそうです。



彼らは自宅で開業し、無店舗経営で従業員も雇用しません。その分店舗経営に関するコストが発生しませんから、安価な施術料で済みます。費用は店舗価格の約3分の1です。出来映えも大変素晴らしい。



店舗経営は箱ものにお金がかかります。どうしても原価率が高くなりますから、高価格になるのは当然です。しかし、消費者は節約のため高額だと回数を減らそうとしますから、彼等はそこに着目したのです。



店舗1回分の料金で3回通うことができます。どちらかと言えば消耗品扱いですから、この差は大きい。



それがヒットし口コミで情報が広がり、今では一人が食べていくには十分な収入になっているそうです。



店舗であれ自宅であれ施術するのは人です。出来映え(品質)は人の手(技術力)に左右されます。高い技術力の方は、店舗意外にも大勢いらっしゃいます。知らないだけ、聞こえてこないだけなのです。



知らない聞こえてこないモノは、この世に存在しないも同然です。これは仕方ありません。情報収集は自分の利益に繋がるのです。




出張サービス


理容やペットトリマーもそうです。こちらは出張で行います。



人もペットも高齢化が進んでいます。高齢になると身体の自由がきかなくなってきます。公共の交通機関や自動車を用い移動できればいいのでしょうが、経済的、身体的問題などにより、それもままなりません。



そこで登場するのが、出張サービスです。店舗に来ていただけないのなら、こちらから出向いてサービスを提供するのです。移動負担もなく、楽に散髪やトリマーをしてもらえます。



ここで問題なのが人だけでなく、高齢になったペット達も飼い主にとって大きな負担になっている様です。



大型犬にその傾向が強く、店舗へ移動するにも抱きかかえ、トリマーを行うにも立っていることすら負担になるそうです。とても世話が大変です。お店だと他のお客様もいらっしゃいますから、お店の方に対しどうしても遠慮がちになりますね。



それが出張サービスなら誰に気兼ねすることなく、落ち着いてサービスを受けることが可能です。負担も軽減されます。




高い技術力


勿論、全て有資格者です。



店舗を持ちたくても金銭面での負担、スタッフの雇用、子育て、そして事業の継続性などを考えると、どうしてもお店で開業するのを躊躇います。様々な問題点を考えると、お店を出したくても出せないのです。



その様な方々ですから、しっかりとした技術力を持っておられます。それも高い技術力です。折角のスキルを眠らせておくのは勿体ないので、個人的に社会進出されるのです。



高齢化の時代に合った働き方。これらが時代のニーズにマッチしているのでしょう。




職業や働き方の多様性。



これからは個々が手に職を持ち、独立し自給自足型の働き方をする。



彼らの生き方に共感を覚えます。



素晴らしいですね。一人の消費者として、彼らにエールを送りたいと思います。




posted by ヨッシー at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2013年05月21日

想いは行動から



人が何かをしようとする時は、そのための行動を起こさなければならならないですね。




オムレツを作るなら卵を割り、エレベーターで目的の階へ行きたければ、上か下かボタンを押す。


旅行に行きたければ目的地を決め、コーヒーが飲みたければお湯を沸かします。



普段の何気ない当たり前の行動ですが、どれもはじめの一歩があります。



自分が思う結果になるための一歩を踏み出さないと、思う結果は実現しません。それらは小さなきっかけに過ぎなません。しかし、その小さなきっかけは絶対に必要です。



そのきっかけを起こすこともせず、自分の想いだけで夢が実現することは絶対にありません。



最初から諦めてしまえば尚更です。後はできない理由を探し自分を正当化し、責任転換のための愚痴へ延々と吐き続けるだけ。



これでは一向に改善されません。



皆と違っていていいので、はじめの一歩を踏み出しましょう。




私が先日フェイスブックの友人に宛てた言葉です。



愚人は、自分と人とを比べ、その差に一喜一憂する。

賢人は、自分と人とを比べず、自身の中に絶対的価値があり、それをそっと楽しむ。




もう一つ、私がお世話になっている英語の先生の言葉です。


この世界は想いが作って行く。想いを育てなければ、その想いは枯れて行く。 本当に長く想っていることは大きな樹となって実現する。




如何でしょうか?



想いを作るきっかけの種は蒔かれていますか?





posted by ヨッシー at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2013年03月23日

働き方



今の世の中、ノマドだのフリーランスだの働く方法の一つをカタカナで言い表し、推奨するような風潮です。



働く方法は様々です。



誰かに押しつけられ受動的に行動するより、自分のやりたいことが出来る人生は確かに有意気でしょう。



しかし、一頃フリーターが持てはやされた時期もありましたが、現在のポジションは如何でしょう?その様にならないことを祈ります。



ノートパソコンを広げ、特定のお店で長時間場所を占領し、仕事をする姿はカッコいいですか?一部の成功者の成功体験に幻想を抱いていませんか?



私にはあんな雑音の多い、不特定多数が出入りする場所で仕事をするなんて考えられませんね。



ノマドはあくまで働く手段です。決して目標ではなく、その手段で何を行い、どうやって社会に貢献するかです。手段の目的化は避けねばなりません。



オフィスを構えると固定費が発生すると言うのなら、別に外へ出て仕事をしなくても、自宅で静かにじっくりと仕事に取り組めばいいいのです。



私が独立開業した当初は、自宅兼事務所でした。自分と家族を養うならそれで十分でした。働く姿についてああだこうだと言う、無責任な世間に踊らされていてはいけません。



それならば、将来社会問題化した時に、やれ国が悪いとか社会が悪い等と決して言わない様にしましょう。



私も失敗の経験があり、独立されるに対し肯定的です。しかし独立開業は厳しいものです。いずれ独立すれば、サラリーマン時代の自分が会社の看板にどれだけ守られていたのかを知り得ることでしょう。



野球に例えれば、攻撃も守備も全て自分でやるようなものです。ヒットが打てなければ得点(収入)はなく、エラーをすれば失点(支出)します。それが全て自分に降りかかります。



最後にもう一度言っておきますけど、形ではありません。何をするかです。そして結果を出して、それを儲けに繋ぐことが出来るかです。




そして無事儲けが出たら、我が日本のため正しく納税しましょうね。



世界の法人税(法定実効税率)ランキング

*世界経済のネタ帳より




OECD加盟国の中で、日本は実行税率がトップです。税率がこう高いと、「なるべく払いたくないな」と、思う気持ちが芽生えるのも、分からないでもないですが・・・。







posted by ヨッシー at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2013年03月08日

母校統合から考える



我が母校の統合

2013年4月1日より、「息郷小学校」と「醒井小学校」が統合され新たに、「河南小学校」として生れ変ります。同時に校章や校歌も新しくなります。



これは児童数減少のため統合されたのです。今年度、醒ヶ井地区の新入学生は数名(確か5〜6名)だとか。この人数では統合されるのも頷けます。





写真は、醒井小学校校舎(4月1日からは河南小学校になります)


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我が母校の学び舎。



その思い出が無くなるとは、何とも淋しい限り。



我が母校も人口減少時代の趨勢に逆らえなかったか・・・。





米原市の人口

米原市の人口動態を見てみると、


米原私立小学校の児童数の減少と今後の推移


米原市人口と世帯の推移(月ごと)


米原市の人口推移と将来人口


*米原市公式ウェブサイトより





醒ヶ井地区に新興住宅地がないからでしょうか、年少人口が減少し、地元から人々が離れ地域による格差は拡大してきています。



米原市人口と世帯の推移(月ごと)の長期トレンドは、人口は減っているのに世帯数は増加していますね。家族構成もコンパクト化しているのです。



このデータから将来的には、かつて経験したことのない人口減少時代において、過去にとらわれない対策が必要だと思います。もう、人口増加を前提で設計された過去の制度や経験が通用しなくなってきています。



人口オーナスの時代に入り、ここでもすでに起こってしまった未来があり、この流れを止めるのは無理ですね。今後は抵抗せず、この流れを受け止め生き方を変化させて行くのです。





eコマースの普及

商店も高齢や人口減、その結果としての地域格差により、店舗販売に重点を置き、その店舗に消費者を誘導する方法にも限界がきています。



これだけ高齢者が増えているのですから、過去の方法にとらわれず、買い物も「eコマース」を活用したものに視点を移した方がいいでしょうね。



買い物難民も出さず、商店も対面販売だけでなく、日用品や特色のある商品をWeb上で販売する。生産者と消費者にとってメリットは大きいはずです。イベントで集客するのもいいですが、継続性の面で問題があります。反面「eコマース」の普及で、大型店舗を構えた所では厳しい経営環境になりそうです。




先日この話を父親にしてみました。



「70歳を超えたら選挙権を剥奪せよ」や「姥捨て山があればいい」という話を、私がついでにしたからでしょうか、気を悪くした様子で、



父曰く、「パソコン使えないのに、買い物出来るか!」「年寄りを虐めるな!」


と、一蹴されてしまいました(笑)


父は当年とって82歳。まだまだ元気です。




そうです、両親はパソコンが使えません。特に高齢者の場合私の両親の様に、パソコンが使えないという問題がありましたね。生産者側と消費者側をマッチングさせるためには、この辺りの問題を解決する必要があります。



簡単な操作で注文でき、商品販売だけに特化したプラットフォームがあればいいのです。



例えば、自治体が補助金を出し「お買いもの簡単注文システム」を導入し、居住地域の生産者から買い物が出来る様にする。



同時に補助金だけに頼るのではなく、初期設備投資費用はファンドを募集をして集める。



そして、出資者へのペイバックは生産者側の売上に応じて居住地域限定の商品券で支払う。こんなの如何でしょうか?どこかの地域で実施されていそうですね。



しかし、いくら前段の内容を両親に説明しても、パソコン嫌いなので聞く耳を持たず馬耳東風でした。残念・・・・。









posted by ヨッシー at 12:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2013年03月04日

収斂の時代



「豊かな地域」はどこが違うのか

人口動態や特定年齢の推移、人々の通勤通学動向の数字を把握することにより、地域経済において打つべき手が見えてくると、この本の中で書かれています。


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地域経済の活性化に人口動向は重要な要素となっています。



商店街の活性化や人々が住みやすい街づくりも、方法を誤まると全く効果は無く、更なる悪影響を及ぼす可能性もあります。全ては人口に左右されます。地域経済に喝を入れたいとお考えの方にとって参考になる本だと思います。


将来像として、社会資本やコミュニティを拡大する方向より、選択と集中を求められるのだと感じます。


そうなると地方で拡散する暮らを否定しませんが、収斂していく経済状況の中では非効率で、私は賢明な選択でないと思っています。



例えば、同じ自治体の中でも、住居が拡散しそれぞれに少数の住民が居住しているとします。そのための上下水道や道路の整備、防災対策は同じように必要になり、行政コストは増大します。そのコストの負担者は紛れもなく住民です。


負担が多いのは誰もが望むべく姿ではありません。住民側の感情として、負担は少なく、充実した行政サービスを求めたいでしょう。しかしそれは無理な話です。


その負担を減らしたいと思うなら、なるべく人々が同じ地域に住むのは如何でしょう。インフラ整備も集中できますし、人々を集約させれば老後の経済的、身体的、精神的負担も軽減されるのではないでしょうか。



そうなれば、行政コストや生活コストも下がり一石二鳥です。この本が紹介している、ある地方の住民の様に、住民自分達で道路の整備や清掃を行えば行政コストは下がるので、それが覚悟できているのであれば拡散も結構かと思いますが・・・。




エネルギー問題と経済

日本は高齢化により消費は衰え、IT化により生産性は向上し、益々雇用の場がなくなっていく状況です。


今後日本は、クリエイティブな仕事と生産性の低いサービス業と肉体労働しか残らないのでしょうか。雇用される人数が多い製造業が国内で衰退していけば、そうなるしかないのでしょう。



工学博士の小見野 晃氏のウェブサイトではエネルギー問題という角度から成長の限界を説いておられます。こちらを読めば、社会システムとライフスタイルを大転換するしかないのかと。いずれは、今の生活基盤が崩壊するのかと空恐ろしくなります。



どうやら、お金で解決できる問題ではなさそうです。



こちらを読めば残された時間は少なく、現在の原発停止状態が如何に愚かな選択であるかも分かります。前段に述べた選択と集中が必要だと感じるのも、この観点からです。



人は過去から、公衆衛生、上下水道の整備、食生活の改善により人口を増やし寿命を伸ばしてきました。残念ながら、エネルギー問題を解決出来ない限り、これ以上大きな成長を期待することは困難でしょう。


大量生産と大量消費のライフスタイルを、個々が本気で変化させなければならない時期にきている様です。





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2013年02月25日

先人の言葉



先人が残した言葉の数々が、人生の道しるべとなります。


昔の人だから劣っている、古典なんて古臭い、そんな思いは持たない方がいい。

自分達は、単に先人達より後に生まれただけです。

それこそ便利な道具に遊ばれ、自分で物事を考えない人々の方が劣っていると言えます。




エレノア・ルーズベルトの名言を3つ。




〇賢人は思想を語り、凡人は事象を語り、愚人は人について語る。


〇人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではない。その人の選択である。我々の選択とは、つまるところ、我々の責任なのだ。


〇あなたの心が正しいと思うことをしなさい。どっちにしたって批判されるのだから。




先人の言葉や哲学、古典から学ぶ。宗教の教えを請うよりも、より良い人生の道しるべとなります。


人生とは自分との戦い。


人は現実の中で生きながら理想を追い求め、その理想が実現された時に現実となります。そしてまた、現実の中で生きながら理想を追い求め・・・。


人生はこれの繰り返しです。


自分の目標が達成できていれば、それ良しとする。


そして、人と比べない生き方をする。


苦しくならないため、世間の声に惑わされないため、この方法を実践してみては如何でしょうか。


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2013年02月21日

年齢は重要なファクターか?



こんな会話のやり取り

人に年齢を尋ねる際、こんなやりとりありませんか。


☆「すみません、お歳は幾つですか?」

★「幾つに見えますか?」


素直に答えてくれればいいのに、ここでいらぬ気遣いが☆側に生じます。(何歳と答えればいいの?)


☆「そうですね〜、〇〇歳ですか?」

★「いや〜、もう少し歳をとっています(或いは、もう少し若いのですよ)」


そして☆側は、相手の反応で言葉を変えます。


☆「ほ〜、そうですか。お若く見えますね〜(逆なら、いけない!しまった!となり、適当にごまかす)」


ズバリ当たればいいのですが、これは疲れます。特に女性の場合は困ります。


今までの反応で多い傾向が、実年齢より若く見て貰えれば喜び、その逆だと落胆します。


若く見られることが素晴らしいことだと、本まで出版されています。


皆、何かに踊らされていませんか?




質問にハッキリ答える

こちらが聞いているのに、質問に質問で返されます。


私は会話の中で、これが一番苦手なやり取りです。素直に答えれば、いらぬ気遣いもせず簡単に済むのに。


相手に質問したのに質問で返された方は、「どうしよう」「幾つと言えばいいのか」と、逡巡しており、受けた質問に質問を返した方は、「一体幾つに見られるのかな?」と、期待している。そんな所でしょうか。


実年齢より若く見て貰えれば、質問に質問を返した相手は嬉しいみたいです。これが、年相応ならまだいいのですが、実年齢より上の歳を言おうものなら何ともバツが悪い。お互い嫌なムードに包まれます。



不毛なやり取りです。




年齢んなんてどうでもいい

年齢なんて、どうでもいいじゃないですか。


実年齢より見かけを若く見られるが素晴らしく、その逆に老けて見られることは、果たして好ましくないのでしょうか。


私は度々、実年齢より5歳〜10歳は若く見られます。


若く見られるからと言って、決して気持ちのいいものでもありません。


たかが年齢。ただ人が生きてきた年数です。メディアで長寿を祝うニュースがあっても、それがどうしたのでしょう。長生きしただけではないですか。少なくとも私にとって、どうでもいい話です。


人の寿命が伸び過ぎましたね。社会にとって好ましくない現象だと、私は受け止めます。


いずれにせよ、業務上や手続き上において必要な場合以外は、年齢を尋ねる行為は控えるのが、精神衛生上よろしいかと思うのです。


どうしても知りたければ、会話の中でさりげなく聞けばいいのです。






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2013年02月07日

死後の対応



家族の崩壊

社会生活を営む上において、一番小さな集団は家族です。


その家族も現代は、世帯人数も減少傾向にあり、祖父母と同居するスタイルは少なくなってきています。

総務省 統計局


私が子供の頃は、友達の家に遊びに行くと、病気がちで寝たきりに近いお年寄りがいました。現代の程、福祉充実しておりません。どうしていたかと言うと、そうです、家族が面倒をみていたのです。


それが今では、老人介護施設や病院に任せてしまいますね。経済的に余裕があれば尚更です。そうなると全て他人任せとなり、どんどん愛情は薄れていきます。その癖、他人任せにする割りに家族や親族は、ああしろ、こうしろと文句は言います。


介護には、肉体的、精神的な負担が生じます。けれどもそんなことはお構いなしで、お金だけで物事が全て解決でき、お金さへ払えば何を言っても許されるのだと信じています。困ったものです。



死後の対応

いくら甲斐甲斐しく介護をしても、必ず人は最後には死を迎えます。


そしてその後、死者は家族や親族に委ねられ、葬儀が行われます。そして葬儀が終わり、人は火葬され、亡骸は埋葬されます。埋葬するとなると、お墓が必要になります。お墓を建てれば、お墓参りをし、供物を捧げ、祈りを捧げます。と、同時に、掃除や手入れもしなくてはなりません。


しかし何十年も時が経ち、生者も世代交代していきます。そうなると、実親のお墓参りをしていた息子夫婦も歳をとり、体の自由もきかず、歩くことさえおぼつかなくなり、誰かに頼みたいが、その息子夫婦の子供達も独立して遠方(海外)に行っており、それさえままなりません。


家族という集団が拡散し、世話をする人々の数が少なくなると、お墓参りも疎かになります。そうなると、今後そのお墓を誰が管理するのでしょう?


便利屋さんにお願いしますか?いいえ、それでは死者に感謝の気持ちは伝わりません。勿論、彼らに敬う気持ちを求めるのは酷でしょう。全く見ず知らずの人に対し、どうして感謝の気持ちを持てるのでしょう。持てる方が不思議です。


お墓を綺麗にして貰う方だと、割り切った方がいいでしょうね。それでも家族、親族より引き継がれ、他人でもお墓の管理を依頼できるなら、まだ幸せです。家庭的、経済的な理由により、世話をする人々がいなくなれば、手入はされず、みすぼらしいお墓になって行きます。


では、どうすればいいのでしょう?



個々にお墓は必要か?

こうなると、「本当にお墓を建てるのが必要なのか?」と、考えざるを得ません。


何故「お墓を建てるのか?」を書くのかと言えば、先日私の父親とお墓の話題になり、私の身近に迫った問題でもあるからです。


私の母方の祖父母のお墓があります。毎年親族がそれぞれお墓参りします。しかし、そのお墓も、先に書いた様に、高齢化の問題により、今後管理する上で問題が生じてきそうなのです。


私が元気な間はいいのでしょうけど、いずれ死を迎えます。そうなると、どうしても将来的な不安は払拭できません。お墓参りは、その行為が親族に引き継がれ、そして継続して行う者がいなければならないからです。便利屋が成り立つ理由も分かりますね。


その様な気持ちを察してか、先日父親は自分が死んだ後について、こう言い出しました。



「私が死んだら直葬でいい。そして仏壇も墓も必要ないからな」「そして、骨は永代供養で構わん」と。


これは、お墓を管理する側の立場に立ち言ってくれたのだと思います。


ここで疑問が生じます。


「永代供養」とは?


お墓を建てなければどうするのか?



こんな方法があった

父親の言葉をきっかけに調べてみると、こんな方法があるのです。


永代供養ネット



「永代供養墓は、お墓(墓地・墓石)を購入するのと違い、永代供養料を一式支払えば、永代供養墓と永代にわたる供養の全てをお寺に任せることができます」 と、書いてあります。


まさか、と思うのが、「送骨納骨(永代納骨)」というメニュー。これは、ご先祖様の大切な遺骨を寺院に郵送することで、寺院が永代にわたりご供養していただける永代供養サービス。


ニーズを捉えた、ビスネスモデルです。他にも興味ある業有内容があります。「お坊さんジェイピー」や「お坊さんジェイピー戒名授与」。ご興味ある方は、ご自分で調べてください。


これも時代の趨勢でしょうか。父親の言う通り、ここの方法でお願いしてみようかと。


先に書いた心配もなくなり、少なくとも、僧侶に読経していただけるのですから、お墓参りを他人に任せるより、ずっといいでしょう。


磯野家の波平さんが聞いたなら、「けしからん!」「バッカモーン!」と、叱られそうですね。



決して形ではない

私はこれでいいと思います。これではいけないと思われる方は、立派な葬儀を行い、豪華なお墓を建ててください。


それよりも、お金をかけて立派な葬儀や豪勢なお墓を建てることが、私にとっては疑問です。そこには、親族の見栄やプライドがあるのではないでしょうか。


言い換えれば、自己満足かもしれませんね。


私は見栄とプライドという服を脱ぎ捨てれば、きっと楽になれると思うのですが、如何でしょう。


神や仏を絶対視し、平等主義や民主主義といった近代イデオロギーに姿を変えた価値観に支配されたままでいいのでしょうか。真っ当な価値判断が求めれらます。


時代は大きく変化し、古くからの風習や仕来りも風化していきます。それでも、先祖を敬う気持ちと感謝の心は、いつの時代においても人々の心の中にあるのです。人間が作り出した形式や価値観だけ計り知ることは出来ないのだと考えます。





文面が、セールスレター調になってしまいました。


これは私自身の個人的な考えです。


あしからず。







posted by ヨッシー at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる