2015年01月28日

食の安全は誰が担保するのか


食の安全は誰が担保するのでしょう。製造者でしょうか、販売者でしょうか。大手外食チェーン店の異物混入事件で騒がれていますが、こうなるどちらも信用できなくなります。



ここで、安物ばかりを買う購買層が引き起こした影響は否めませんね。



食の安全と価格はトレードオフの関係にあります。品質を優先しようとすれば価格は高くなります。逆に価格を優先すれば品質はそれなりのものとなります。一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係はどこにでもあることです。



品質と価格を両立させるのは、相反するのもので難しい問題であります。



安いモノばかり買う人もいます。その反面、品質重視で高いモノでも買う人もいます。何を購入するかは、個々のライフスタイルや経済状況、時間、利便性を考え対応を変化させ最適化します。



しかし、売り手がいくらいいモノだとアピールしても、その人の判断基準の中で価格が優先されれば、いくら高品質なモノでも買ってもらえません。その反対に、品質優先の人は安くても低品質のモノは敬遠します。



だからと言って安物ばかり買うな、品質ばかり優先するなと言うのは簡単ですが、その人が何を犠牲にするかによって買うモノを決めているのです。



安いお店もあれば高いお店もあります。それを自分の尺度で決め、条件にあったその時にモノを手に入れるのです。



とは言え、食品は自分の身体の中に入るモノです。消費者があまりに低価格ばかりを追求した結果、粗悪なモノが市場に蔓延る結果になったのも事実です。



食事は自分で確かめた材料を手に入れ、手間を惜しまず自分で作るのが一番安全は方法です。しかし、時間をお金で買わなければならない忙しい現代人にとって、これをやれと言うのは少々酷な話ですね。



いずれにせよ個々が起こす消費行動によって市場も変化します。我々の社会にとって必要なモノなのか、それを買うことにより社会にどのような影響を及ぼすのか、そこまで考えが及べば、自ずと消費行動も変わるのかと思うのです。



大局的観点で物事を見る目を持つ。自分で実行できる範囲でいいのです。今日から実践してみませんか。




posted by ヨッシー at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年01月27日

私が独立した動機


仕事をしていると嫌な思いをしたり、一緒に仕事をする人達と意見が合わず、すれ違いになることも多いですね。ご多分に漏れず私もそうでした。

恐らく私は、組織で生きられる人間で無かったのでしょう。そんな私が独立したのは、5つの動機があります。


@うるさい経営者との衝突

オーナー経営者は、カマドの灰まで自分のものです。気持ちはよく分かるのですが、日々「あーでもない」「こーでもない」と報告を求められ、更に会議の席でも同じことを質問してきます。

人を信用しない気持ちの裏返しだと思いますが、いい加減にして欲しいものです。自由裁量がなく、やりたい仕事が出来ないジレンマが常にありましたね。

少しは人のこと信用して、任せておけばいいのに心配なのでしょう。それなら自分で全部やればいいのにと思ってばかりいて、これでは精神衛生上よくない。会社とお別れしてスッキリしました。



Aダメな部下の管理

遅刻や無断欠席は当たり前。部下は大小様々なミスを繰り返します。その対応に追われるあまり、やりたい仕事が制約されます。

チームで行動するのですから、私の責任だと言われるのが関の山でしょう。組織にいるのだから、自身に覚えの無い責任が他者から降りかかるのは当然かも知れません。

しかし、これが頻繁に続くと正直参ります。挙げ句の果てに「会社辞めます」とくれば、「いい加減にしろ!」と、怒鳴りたくもなります。

外部要因からくる、理不尽な思いをしたくなかったからです。

ここは、私の管理能力不足としておきましょう。



B将来収入が予測できてしまう

最後にいた会社は年俸制でした。金額は全て経営者の判断で決定されています。どんなに一生懸命働き、結果を出しても劇的に変化しませんでした。これでは、将来の生活像が予測できてしまいます。

木暮太一さんが言うところの、給料は必要経費方式で、会社からは生活に必要なお金しか渡されないのです。当然、収入に基づいた生活設計になります。

何をしようにも、経営者の判断により従業員の価値が決定されてしまいます。そして、余剰分は経営者(資本家)に搾取され、会社は儲かっているのに従業員は働けど働けど楽にならない構図になります。

自身以外の第三者に生殺与奪権を握られていることが、恐ろしくなったからです。



C同じ場所へ同じ時間に集まる違和感

毎日決められた場所へ決められた時間に通う。都市部での通勤は満員電車に揺られ、地方なら自動車の渋滞に巻き込まれながら毎日会社に通う。

「そんなの当たり前だろう!」「常識ではないか!」と、思ったあなたは、脳が硬直していますよ。

ネット環境が発達し、次々に便利で安価なアプリやソフトが開発されている現代。会社にいなくても仕事が出来る環境が整備されています。そんな時代に、会社に通うことが果たして必要なのでしょうか?

独立したのは、一つの場に拘束されない生き方がしたかったからです。

常識を疑いましょう。



D時間が無駄だと感じた

前述した内容と重複するかも知れませんが、自身の身の回りに働くためのツールと環境が整っていれば、時間が有効に使えます。

私が独立した初年度は、自宅で法人登記し開業しました。これで通勤時間はゼロです。結果として、時間の有効活用とストレスフリーを実現出来ました。

ただデメリットもあります。いつでも好きな時に仕事に取りかかれますから、気になると、夜でもすぐに仕事をしてしまうのです。また、日常生活がいつも身近にありますから、仕事とプライベートのメリハリをつけるのに苦労しました。

それでもメリットの方が大きかったですね。



職種にもよりますが、これらを実現するのは十分可能です。

独立すれば、あまりにも自由です。お客様に対し、やることやり結果さえ出していれば、極端な話ですが毎日遊んでいても誰にも叱られません。収入も努力次第で増えます。自身の決めた生き方と違うと思えば仕事も選べます。


変わりたいけど変われない。変えたいけど変わらない。自身の勤める会社の方針や他人の考えを変えるのは、かなりの困難を伴います。


それならばいっそのこと、自身の環境を変えてみては如何でしょうか。


自身から環境を変化させたなら、問題点や原因の追及も自問自答すれば済みます。選択したのは自身。決定したのも自身です。誰に文句を言えましょうか。


それとも他人に選択や決定を委ねるのですか?私はご免ですね。


時には失敗もあるでしょう。でもいいじゃないですか。愚かな自身に「バカヤロー!」と、言えばいい。叱責する相手は自身であり、責任の所在確認を求めるのも自身です。


他人に責任転嫁をしなければいいだけです。


最後に「独立はいいことばかりです」と、言いたいところですが、時には大きな苦労や失敗もします。


私の会社経営は現在進行形です。これが出来るのも、素晴らしい人々との出会いとお力添えがあってこそです。少しだけ運もあったのかなと思います。


posted by ヨッシー at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年06月27日

ネットワークビジネスは私の性格に合わない



久し振りにネットワークビジネスのお誘いをいただいた。若い頃に嫌な思い出があったので、もちろん、きっぱりとお断りした。そんなことする余裕もなく、自分の会社経営で精一杯だ。


商材は損保のようで、今の時代は意外な所にもMLMが存在するのに驚いた。


この販売方法は、口コミで商品の良さを広めるのだが、販売する側が商品に対する知識やルールを熟知していないところがいただけない。


これは、先日我が家で実際に体験した話。


申込したのはオートシップのある商品だったが、販売員からいつでも商品の購入は止められるといわれたので気軽な気持ちで購入した。オートシップなのに途中で購入を止められ、途中解約も可能なら気持ちは楽だ。


数ヵ月後予想通り、送られてくる量も多く、なかなか消費できないので解約を求めた。しかし、途中解約はできなかった。


実はこの会社のオートシップという仕組みは、契約期間中は(1年間)途中解約できないのだ。


商品が毎月強制的に送られてくるこの仕組み自体は仕方ないが、販売員からこの説明がなかったのがいただけない。


止めたいのに止められず、必要のない商品が毎月強制的に送られてくるのは大きなストレスだ。


いい加減な説明で、無理やり商品を販売しようとした結果がこれだ。いや、ひょっとして販売システムを理解していなかったのか?


あまりにも理不尽だったので、商品を販売する本社に相談した。しかし、本社側は個人事業主ですからこちらでは関知いたしませんの一点張り。確かに仰ることは分かるが、販売員達がどんな販売方法で商品を販売しているのかチェックするシステムがあった方がいいと思う。


確かにいい商品かもしれないが、販売方法や販売者によって商品や企業イメージは左右される。〇〇社の商品だったが、その杜撰な管理体制によって会社のイメージは悪くなり、少なくとも私達は購入しなくなった。


いい加減にして欲しいものだ。それにインターネット全盛の時代に、何故未だに口コミで販売するのか?個人個人が発注すれば、物流効率は悪くなり、大勢いる販売員の手数料も含まれているため商品価格が高額になる。


ネットで販売すればこの問題は解決するのだが、この業界は合理化しない。本当にいい商品であるなら、合理化すればいい。そうすれば、いい商品がより安く消費者に提供できる。


それに口コミは伝言だ。今回の様に、どこかで間違って伝えた情報が一人歩きする場合もある。


勧誘する際もそうだ。「あなたのためだから」「あなたの身体のことを考えたからこそ」「一緒に幸せになりましょうよ」と、美辞麗句を並べてくれるが、そこには自分自身の利益が見え隠れしており、人を思いやる気持ちは希薄だ。


今回の私達の体験のように、一部かもしれないが自分の欲望の赴くまま好き勝手なことを話し、相手を自分の利益を得るための道具にしか思っていない人もいる。


顔を合わせる度に、商品の説明やセミナーと称する説明会に誘われるのもうんざりだ。


嫌なら嫌でそんな人々の誘いをきっぱりと断る勇気を持とう。これはお互いのためだ。断ったくらいで壊れる程度の人間関係なら壊してしまえばいい。借金の依頼を断って無くした友人関係と同じで、所詮その程度の人間関係だったのである。


面倒な話を持ち込む、時間泥棒の相手をしている暇はない。


楽をして儲けられる方法などない。楽して儲けたいと思う人は注意が必要だ。


情報商材販売ビジネスも、人々の欲望につけこむ手口だ。人のビジネスをとやかく言いたくはないが、決して少なくない苦情件数がこのビジネスの問題を物語っている。


国民生活センター マルチ取引相談件数




posted by ヨッシー at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年05月07日

田舎暮らし



人にとって自然豊かな場所での暮らしは健康にいいのかもしれませんが、田舎暮らしに私は賛成できません。それは、人々が分散することによる維持コスト増大と非効率な投資になるからです。


事実、私の実家でも不便な地域なので過疎化が進んでいます。何をするにも不便です。人口が少ないと環境がいい、自然がいっぱいで暮らしやすいと言いますが、そうでもありません。


冬季は除雪作業に追われますし、買い物に行くにも自動車が必要になり、その買い物も都市部のように洗練された商品に巡り合える機会は少なく、品数も多くありません。設備の整った医療機関もなく、病院に行くにも一苦労です。


正直言って不便です。


降雪のない都市部なら頻繁な除雪の必要はありません。また、公共の交通機関が発達していますから車を持たなくても生活できます。医療機関も充実しています。人口が少ないと、産業や公共サービスの量と質に差が出ます。


そして、とうとう日本も人口減少時代に突入しました。日本は将来的に生活の効率化を目指すならば、居住地域が分散する暮らしは避けた方がいいと思うのです。居住地域が分散すれば、上水下水、電気整備、道路保全、河川整備などのコスト、医療行為の遅れ、税負担の増大、自然災害の恐れなど、多くの問題の発生が考えられ、災害復旧の面でも人口が集約していた方が、より早く復旧できます。


買い物難民や病院難民の金銭的負担まで、税金で賄うことになりかねません。地域分散すれば公務員の負担も増え、行政コストがアップしてしまいます。公共事業には予算が必要です。国や地方の財政は予算が無尽蔵にあるわけでなく、優先順位を決め予算が組まれています。


国の収入と支出の内訳は? 

滋賀県平成26年度当初予算見積要求額の概要


環境がいいと言うだけで、無責任な田舎暮らしを進める必要はありません。そもそも環境のいい暮らしとは何でしょうか?自然が多く、空気や水が綺麗で、温かい人々が住む地域のことを言うのでしょうか?


しかし、田舎には面倒な近所付き合いや、昔の風習に従わなければならない不自由があります。先に書いたデメリットがあるもの事実です。綺麗事ばかりでなく、安易な田舎暮らしを推奨することで、住民や行政コストが増えるのは間違いないのです。


人は集団で暮らす方が、エネルギー効率も良くなります。過疎地の暮らしを守らなくてはならないというのも分かりますが、費用対効果の面から考えるとそうも言っていられません。集約型の暮らしを進める時期に来ていると私は思うのです。


税収が不足しているのですから、過疎地で将来性のない場所の資本投資は控えられます。人口が減るのですから、いずれそうせざるを得ない状況になるでしょう。それでも田舎暮らしをしたいと思われる方は、自給自足で自分の住環境は自分で守る暮らしをしていただきたいものです。人々が分散した結果、個々の税負担が増える暮らしなど、私は遠慮したいですね。




posted by ヨッシー at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年04月16日

得ばかりの人は徳がない



世間にこんな方はいませんか?


「あなたのためを思っているのよ」「あなただけにそっと教えるのよ」「あなたを幸せにしたいの」「あなたにも一緒に頑張って欲しいのよ」など。


本人の幸せの前にあなたの幸せがあり、自分は二の次だとのたまう。馬鹿いっちゃいけない。そんなこと言われると反対に気持ちが悪い。自分の利益が欲しいという気持ちが見え隠れしているではないか?


いくら美辞麗句を並べても、そんな人に限って、自分が、我が、己が、私が一番可愛く、お金儲けのためガツガツしていることも多い。決して優しい言葉を額面通りに受け止めてはならず、心の中では自分の「得」しか考えておらず、そこに「徳」の文字は存在しない。他人をお金儲けの道具にしか考えていない。


確かに自分が一番可愛いと思う気持ちは誰にでもある。しかし、それが前面に出過ぎると自分の手に負えないものとなり、心の中が表面に現れ、結果的に怪しい人になるのかも知れない。


そんな人々の本当の気持ちを知る方法がある。それは第一印象だ。


怪しいと感じたら、なるべくその人に近づくのを止めた方がいい。人間も動物であり野生の勘がある。この人は?と思ったら、それは自分の心が気を付けろと言っているのだと思うことだ。


そう思う相手からは、他人を利用してやるという気持ちが全身から滲みだしている。怪しい気配は一朝一夕に形成されるのもではなく、金儲けだけが目的になると金を稼ぐための方法や手段も乱暴になり、その人が今まで培ってきたものが出てしまうのである。


大きくなり過ぎた組織の中では、どうしても組織内格差が生じ、少数のアウトローは存在する。彼等は自分のポジションをキープするため、金儲けのため無茶をすることもある。大げさで、法律に抵触するセールストークは代表的な例で、聞いているこちらの方が心配になる。


もちろん例外もあるだろうが、仕事をする上において第一印象は重要な要素である。ドラッカーの有名な言葉に「会社は社会の公器である」という一節がある。会社が存在する目的と手段を履き違えてはいけない。


無論、自分自身が幸せになる目的もあるだろうが、そもそもそんな仕事ぶりでは、お客様に対して失礼である。


最後に一つだけ言えるのは、誰しも自分自身を偽ることはできないのは事実だ。これは自分自身への戒めとして常に心掛けたいものである。


posted by ヨッシー at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年04月05日

会社は誰のもの?



会社勤めをしていた頃よく仲間内で、仕事の愚痴をこぼしていたことがある。私もその一人であり、自分達に非は無く、逆に一生懸命会社のために奉仕しているのに報われないのは会社(他人)のせいだと思っていた。


この仲間内では被害者意識が強く愚痴も多い。恨み、妬み、僻みを常に心の中に持ち、悪口で人を貶め、他人の失敗を喜ぶような最低の集団であった。


特に会社に対する不満は大きく、そこにはなんの生産性や建設的意見もない。あの頃のまま私が年齢を重ねていたとすれば、また違った暗い未来になっていたことは容易に想像できる。


当時会社は自分達のものだと考えており、自分もそうであった。しかし、会社は決して従業員のものではない。それは大きな誤解である。


株式会社は株式を発行して投資家から資金を調達し、株主から委任を受けた経営者が事業を行い、利益を株主に配当するものである。


株式会社は株式を発行して資金を募ることを目的で設計された制度であるから、当然株主のものである。中小企業の経営者のように、出資者が経営者自身であることも多く、これが俗に言うオーナー経営者である。


世間では「オーナー経営者は、かまどの灰まで自分のものだと思っている」と、言われるのもよく理解できる。


そこで「会社は誰のもの?」と、質問を聞くことがある。だが制度の趣旨を理解すれば、この質問自体が意味をなさない。株式会社は株主のものであり、複数の株主が持つ株を一人が全て買い取れば済む問題でもない。


また、従業員とは一般に会社との間で雇用契約を締結している者をいい、社員ではない。株主にとって従業員とは、利益を得るために用いる変動資本である。それ故、従業員自身は経営層にとっていつでも交換可能な資本であることを自覚しておくべきだ。その自覚がないため、前述のように愚痴や不満が出るのかもしれない。



では、今後どう生きるのか?二つの選択肢があると考える。


一つ目は、株式会社のルールを知り人の下で働くことを選択し、黙ってその環境に耐え、そこで活路を見出す。


二つ目は、嫌な会社から飛び出し自分から起業行動を起こし、違う環境に飛び込む。


会社で副業が認められていれば、その中間もあり得るがここでは書かない。


それぞれにリスクは伴い、前者は生殺与奪権を第三者に掌握される。後者は今よりもっと悪くなる可能性がある。



いずれにせよ自分の考え方次第である。愚痴を言う前にやりたいことがあるなら行動すればいい。だだし成功の保証は何もない。しかし、成功の保証がないからと言って行動もせず、やりたいことが実現できる虫のいい話は100%ない。要は、やってみなければ誰にも分からないのである。


ちなみに私が独立した理由は、意見の合わない経営者とダメな部下と一緒に仕事をするのに疲れたからである。


人格の形成された他人は自分の考えや方法を簡単に変えようせず、また、変えようとするには大変苦労する。そしてようやく変わったと思っても、また元に戻ってしまう場合も多い。


変化を求めたいのなら、自分から行動し環境を変化させるのが一番てっとり早い方法である。



posted by ヨッシー at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年03月18日

行列のできるお店


私にも行列のできるお店に並んで食事や買い物の経験があるが、がっかりすることの方が多かった。



例えば、大阪のお店でいつも行列のできている◯ッ◯ータ◯ンや〇ッ〇ー。あれって美味しいですか?いくらプレミアと言われても、私は並んでまで買う必要はなく、いつも行列のできるお店になっているが、時間の無駄だと思っている。



飲食店でも行列のできるお店がある。これも全てが美味しいとは限らない。席数が少ない、手際が悪く注文が捌けていない、サクラの存在など、違う要因があるかもしれない。それでも並んで食べる。そして、流石に美味しいと並んでまで食べた自分に納得している。



それは、本当にそう思っているのだろうか?そう思わせている原因は、自分の価値や基準がないからではないだろうか?きっとそういう人達は、一日◯◯食限定、メディアで紹介されたメニュー、△△さんもお勧め、あの幻の食材がなど、よくあるフレーズに弱いのだろう。



いつも他人と同じ行動と価値観に合わせているだけ。そして、同じであることに居心地の良さを覚え安心する。食事や買い物のため、時間と労力の無駄を考えず並び、ただひたすら待つ。そんな時間があるのなら、他に何かできるのに、自分が並んでいる間のコストは考えていない。



反対に店側とって、客を並ばせることができれば成功となる。並ぶことに何の疑問も抱かない人達を、お店の僕にすることができたのだからである。



メディアに紹介されていない、行列のできていない、美味しいお店は沢山あるのに、そこには見向きもせず自分で開拓しようともしない。



そもそも人それぞれに趣向や嗜好の違いがあり、他人の味覚ほどあてにならないものはない。だから他人に美味しいと勧められたものが、自分にも美味しいのかと言うと、そうでもないことの方が多い。そして、その反対もある。



美味いものランキングの類も、疑ってかかった方が無難だろう。何故なら、ランキングの元になるデータの公表をしていないからだ。何人がこう言った、何の人の意見など、これらを素直に信じられない。質問の内容で望む結果へ誘導でき、恣意的な操作が可能だからだ。



バラエティ番組の中で、ある特定のお店や商品を取り上げているが、あれも番組を装った宣伝ではないのかと思う?メディアで紹介される料理は、必ず美味しいとタレントは言う。しかし、行ってみると普通の味。皆さんにも、そんな経験はないだろうか?



美味しい、不味いは、他人から決められるものではなく、自分で決めるものだ。大多数の意見や考えに惑わされてはいけない。



この商品は何故もてはやされるのか?今年は何故これが流行しているのか?ブームに流されている人々のその先で、誰が一番喜んでいるのか考えてから行動する方がいいと思うのだが、如何だろうか。


posted by ヨッシー at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年02月22日

これから起業する彼へ



これは私の持論だが、起業したいのなら、実績のない年長者の意見に耳を傾けるべきではない。聞いても適当に流しておけばいい。


先日起業願望のある方と話した時に思ったことである。


進むべき道に迷った際に意見を求めるなら、実績を出している人にしよう。実績のない年長者の意見に注意した方がいい。中にはいたずらに、馬齢を重ねた人もいる。


自分が相談する相手を間違えれば、意欲を削がれるだけだ。


彼らの中には正社員という立場があり、毎月定期的に給料を手に入れてきた人もいる。会社や店舗経営者にとっては、毎月定期的に給料が手に入るのが当たり前でないため、羨ましい限りではあるが・・・。


その代わりに、彼らは周りの人間関係のだけが気になり、自己保身のため自分の社内での立場を守るのが目的となり、頭を下げトラブルや揉め事から避けようとする傾向にある。


また、日々そのような環境に浸ると、組織の中だけで通用する理屈や業務内容を実行するだけで満足するため、リスクを取りチャレンジする必要もなくなる。もちろん経験することも少ない。社内の常識は世間の非常識である場合も多い。


彼等は自分の生殺与奪権利を会社側に掌握されており、非常にリスキーな選択なのに一つの会社に留まることだけが安定だと考えている。会社がいつまでも安泰である保障はどこにもなく、近年の企業の雇用状況をみれば明らかであるのに、過去の考え方のままでいる。


心の中にいつまでも肩書を持つ自分がいて、過去の成功体験や時代背景を語り、若者に説教じみた講釈を述べる。肩書をはずせば何もない、組織に迎合してきただけの人なのに偉そうにしている。フィットネスクラブに通う、定年退職した人の話を聞き尚更そう思える。


人は過去に生きるのでない。今を生きるのだ。過去の自慢話を持ち出したって、なんの解決にもならない。右肩上がりに成長してきた日本経済の中、会社のため滅私奉公しコツコツと働き貯蓄するだけで、資産が築けた時代に生きた人々の自慢話を聞くのは苦痛である。


1970年〜1980年代、郵便貯金の単なる10年定期預金の金利が、実に8%〜12%もあった。銀行の1年定期預金や日本国債も、金利5%超えなんて当たり前の時代である。


何も考えずに資産が増え続け、高齢化社会でなく、給料から引かれる年金もすごく安く、日本全体が成長していたため、給料も右肩上がり。現在、1億円以上の資産をもつ高齢者が多いのはそのためだ。


今は条件が全く違う。国内定期預金(5年物)の金利の高いところでも0.5%程度。こんなにも違う。スズメの涙ほどの金利である。現代を生きる若者にとって、羨ましい時代であった。そんな時代を生きてきた人達に相談できるか。


「勉強して資格を取り、コツコツと一生懸命働けば、きっといつかは幸せになれるよ」と、言われるのが関の山だろう。もし起業したいのなら、こうした人達の価値観や意見に耳を傾けるのは、意欲をそがれるだけで百害あって一利なしだ。


ただし、同じ会社でずっと働き続けてきた、忍耐力は見習うべきだと思が・・・。




かつて私が勤めていた頃の会社に、「我々はこうあるべきだ、こうしなければいけない」と、もっともらしい意見を述べていた上司がいた。


その上司と酒を飲みに行っても仕事の話ばかりで、少しも面白くない。私としては砕けた話をしたいのだが、全てにおいて無反応。また、すぐに仕事の話に戻る。


よく聞かされた話が、「我々は会社に労働力を提供し、その対価として賃金を得るのだ!」と言い、時には、「我々が会社のために何が出来るのか考えろ!」とも言った。その頃は若く、経験も知識もなかったので、「そんなものかな?」「この会社で頑張ろう!」などと、軽く考えていた。


しかし、その考えはお金儲けをする上において大変危険なものであった。まさしく、資本家と労働力者の関係の中で搾取されていることに何の疑問を持たず、人の下につくことに何ら抵抗を覚えない人の考えであった。


自分の時間を切り売りした結果の誇りか?プライドか?諦めと妥協か?


長時間拘束され、慢性的疲労とストレスを抱えた不健康な体と引き換えに、少しばかりの月給を受取り毎日働く。仕事の負荷は日々高まるのに、一向に生活は良くならない。


その環境に置かれた自分を、何の疑いも無く肯定する上司。今思えば異常だった。いや、会社にいる身としてなら、当然だったのだろう。


もし、あの時の考や、あの時の環境に置かれたまま時が過ぎていたとしたら、今の私はどんな人生を送っていたのだろうか?考えただけで「ゾッ」とする。


決められた会社組織の中だけで、やり甲斐を求めたいのなら話は別だが、そんな人達の考え方や思考が、起業したいと願うあなたにとって利益になるだろうか?むしろ、ブレーキになりはしないだろうか?もし起業したいのなら、こうした人達の価値観や意見に耳を傾けるのはやめにしよう。全く次元が違うし、百害あって一利なしだ。


意見や経験を聞きたいなら、実績のある人に聞いた方が身のためだと私は思う。


だが、経営者にとっても明日の保証など全く何もない。経営に失敗すれば、無職になるのはもちろん、無一文になる場合もある。それだけならまだマシで、借金を抱えていれば社会不適合者の烙印を押され、社会的制裁も待ち受けている。それが恐ろしいと考えるのなら、起業はやめることだ。


それでも起業したいと思うなら、とにかく実績を残し自分より稼いでいる人の話しを聞き、そこからヒントを得ることだ。Playerを経験しManagerになった人は強い。


年長者から経験がないからダメと言われるかも知れない。そもそも最初から経験なんて誰もできない。その気になれば、これから経験なんていくらでもできる。失敗し経験を重ねればいいだけだ。


最後に気を付けたいのが、最初からマス相手の起業セミナーや資格ビジネスに手を出さないこと。もしかして、参加費や教材を買わせるための戦略かもしれない。そんなものより、身近なオーナー社長の話を個別に聞いた方がためになる。


真実は個別に話す時に現れる。万能理論は存在しないが、自分を進むべき道の標となる可能性は高い。その人脈を作れるかどうかは、あなたのやる気と行動次第だ。


先日話をした起業希望の彼に、この言葉を捧げたい。



posted by ヨッシー at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年02月10日

躾のなっていない子供



躾のなっていない子供ほど始末に負えないものはない。


彼等は傍若無人に行動し、好き勝手なことをほざき、挙句の果て自分の思い通りにならないと、大声で泣き叫ぶ。自分の欲望を感情的手段で大人に訴える。


その騒々しい生き物は当然一人では行動できず、外出先では大抵保護者同伴である。保護者の責任として、彼等の言動に注意していなければならない。


しかし、その躾の行き届かない彼等の行動に対し、保護者も周りの迷惑も気にせず何も言わず知らん顔しているのは何故だ?まるで彼等の保護者であることを否定するかのような振る舞いで、自分の子供でないのかとも思える。


食事の際に遭遇すれば最悪である。


こちらとしては、静かに食事を楽しみたいのだが、その騒々しい声は私のパーソナルスペースに入り込んでくる。そこには他人への気遣いや遠慮などは全くなく、半ば暴力的に侵入してくる。


余りにも度が過ぎると、親になんとかしろよと言いたくもなる。でも注意する訳でもなく、全く知らん顔。


貴方に保護責任のある子供だろ?何故叱らない?何故周りに配慮できない?


何もしないのは、保護者として責任能力のなさを露呈しているに等しい。


私は子供だから仕方ない、子供は騒がしいものだと考えられない。躾の悪い他人様の子供を、そう思うことなんて絶対無理だ。


確かに子は宝であり国の財産であるのは認める。次世代を担う子供達を大人が守るのは当然である。しかし、ルールやマナーに違反する行為を許していい訳ではない。


彼らは、本能の赴くままに生きている。大人が矯正しなければいけない。


子供を公衆の面前に連れてくるのなら、キチンと躾してから連れて来て欲しい。躾のなっていない子供は動物にも劣る。


残念ながら、昨日そんな最悪の状況に遭ってしまった。


子供達は自分の自宅にいるが如く、テーブルの周りを動き回りとても騒がしく、大声で話している。食事している他の人達も大変迷惑そう。そんな人達にお構いなしに行動はエスカレートしていく。いずれ親が注意するだろうという我々の期待も虚しく、肝心の親は知らん顔。


それを見て私は、「また注意出来ない保護者がここにもいたか」「他人に気配りできなのか?」「この親にしてこの子あり」だなと思ってしまう。


自分の子供すら叱れない親に育てられた子供達は、これからどう育つのか心配になる。


これはたまらないと、私は静かにするように子供達に注意する。


効果あって子供達は静かになったが、相変わらず親は知らん顔。まるで注意されたことすらなかった様な振る舞い。何故そんな態度でいられるの?恥ずかしくないのか?


本当に可愛いのなら親が叱れ!我が子が全うに育つように、駄目なものは駄目と教えろ!公共心を叩き込め!何も言わず放任するのが愛情ではないのだ。


物事の善し悪しや、分別を教えるのが大人達の務めである。


仮に放ったらかしで、騒がしくする自分の子供を叱れない親がいたなら、代わりに他の大人が注意してあげなければならない。子供達のためでもある。


そんな私にも子供の頃はあった。もちろん、騒がしく動き、いたずらすることもあった。だがそんな時、遠慮なく他人から怒声が飛んできた。それは、とても怖かった。そして、叱られることにより、いけないことだと学び心に刻んだ。


子供の教育のためにも、近所にいる怖い大人達の存在は必要だった。大人の世界は厳しく決して甘くはないと躾られた。


自分の子を叱れない親はその子と同様に、自分自身も親から躾けられていなかったのだろうか?そう考えたくもなる。叱るのはルールやマナーなどを教え、他人を思いやる心を育てるために必要なもの。


これは、食事する店だけでなく、公共の場所でもよく遭遇する。


一部の人達だけかも知れず、中にはしっかりした親もいらっしゃるのは分かっている。しかし、残念な光景を目にすることの方が多い。


今、躾しないでいつする。年齢を重ね、思考や思想が固まった人間を矯正することは困難だ。こうすべきだ、そうあるべきだ、ああしなければならない、と言っても反感を買うだけである。


人は自分の思考や思想に意見されると反発したくなる生き物だ。他人に何が分かるのかと攻撃したくなる。自分に投影して考えてみると分かる。人の性格を簡単に変えることは困難だろう。


モラルやマナーは法律で縛れない部分において、社会生活を円滑に進めるためにあると思うのだが、それすら理解しない人達に何を言っても無駄である。


どうしても躾のなっていない子供達の姿を見たくないのなら、こちらから避けるしかない。


私はそのため、なるべく躾のなっていない子供達がいそうにない店へ行くようにしている。


確かに自分の子供は可愛いだろう。どんなに騒がしくしていも気にならないだろう。しかし、そう思えるのは貴方とその親族だけ。周りの他人様にとって、邪魔者でしかない。注意できない親の貴方自身も、同じ目線で見られているのだと分かって欲しい。


雷親父は何処へ行った?分け隔てなく社会のルールやモラルを、子供達に教えてくれる大人が少なくなったのか?それとも、行き過ぎた個人主義がそうさせるのだろうか?


他人に迷惑を掛けない、他人の気持ちを思いやる心が欠如しているとしか思えない。自分勝手な振る舞いの多さ。そんな人達は決して他国人の民度について言及してはいけない。


少なくとも私の目で見る限り、日本人でも駄目な人は駄目なのである。日本人だから〇〇で、外国人だから〇〇であるなどと言う、ステレオタイプな考え方は通用しない。


余りに腹が立つので思わず書いてしまいました。では、この辺で。






posted by ヨッシー at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2014年02月03日

情報発信のリスク

 


情報発信の危険性

SNSが発達して便利な社会になりました。誰もが簡単に自分の思いや、会社の宣伝、伝えたい情報を簡単に発信することができます。しかし、簡単であるため落とし穴もあります。


先月も車でのスピート違反の動画を見た人が警察に通報し、動画をアップした本人と友人が逮捕されました。ラーメン屋で起きた事件も、未だに拡散された写真が残っています。


会社や組織の信用棄損や犯罪行為をアップすると、挙句の果て、警察や学校、所属組織に通報され、社会的制裁を受けてから初めて事の重大さに気付くことになります。今、社会に少なからぬ影響がでています。


SNSの特性を良く理解し、どのような影響を与える可能性があるのか。リスクを考える癖を身につける必要がありますね。


情報は世界中の人々に見られています。数多くの人を前に発信しても問題ないのか、少し立ち止まり、リスクを考えてからアップしたいものです。


過去において同じような行為でも、仲間内や限られた組織内において共有されるローカルな情報でした。仲間内だけでふざけ合い、笑い合い楽しみました。


動画の主人公の気持ちは分かります。私も若かりし頃、友人とスピード競争しましたから。でもそれは仲間内だけの秘密でした。親にも勿論内緒です。それでも十分満足でした。


昔と今の状況は大きく変わっています。現代のSNSは、とても簡単に瞬く間に広く世界中の人々で情報を共有できます。自分を認めて欲しい人達にとっては好都合です。


その反面、理解者でない人達の目にも曝されています。本人は軽い気持ちでも、悪戯で済まされない可能性が高いのです。悪戯を助長するつもりはありませんが、もし悪戯を楽しみたいのなら、仲間内だけで留めておきましょう。なるべく人に迷惑を掛けずにね。


しかし、リスクばかり考えると、当たり障りのないことばかりでつまらない。自己承認欲求が満たされなくなる可能性もあります。自分の価値観を認めて欲しい人にとっては行動が委縮し、苦痛になり、不満が蓄積されるかもしれません。



便利過ぎる時代だからこそ注意する

誰しも明るい面ばかりではなく、暗い部分や毒づく面もあります。ごく個人的なものであれば、そんなもの広く発信しなければいいのです。仲間内で会った時に話せばいい。


どうしても我慢できないのなら、匿名で情報発信する手段もありますが、仮面を被ったままで自己紹介しているようで嫌です。適当な答えしか返ってこない危険性もある。


こうなると何を発信していいのか悩みます。時事ネタ、食事、情報シェアの発信ばかりでは恥ずかしい。プライベートを見せるのは愚か者。旅行に行ったのは他人にはどうでもいいこと。他人の子供の成長など全く関心ない。かと言って、守るべきルールがあり、自分達が属する業界について掘り下げて書く訳にもいかない。


人生で、毎日幸せで充実し、格好良く、他人が聞いていて心地よい出来事ばかりが毎日起こるはずもなく、現実はもっと厳しく、辛く、醜く、薄汚れ、吐き気を催すほど卑劣で俗悪なものだと思っています。その中において、時には楽しく嬉しい出来事が起きるのです。


我々は、偽善と欺瞞に満ちた世の中で生きています。私もそうです。


色々考えると今書いているこのブログも、とてもつまらないものに思えて仕方がありません。


会社の代表として発信している以上、そのフィルターで見られています。


これでは息苦しくなるだけです。


どうやら潮時が来たようです。


少なくとも、発信する頻度は少なくなると思います。本当に書きたい内容は、備忘録として残しておくことにします。


それ以前にこのブログ、あまり読まれていませんけどね(笑)



posted by ヨッシー at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる