2015年09月01日

寄附金で貧困問題は解決するのか?


(日本国内の現状)
現代の日本では、食品が豊富にある。しかし、その食品も様々な事情により、全ての国民に有効に届けられているのではないようだ。規格外、欠品対策のための余剰生産、消費期限の問題、材料ロスなど、多くの問題を孕んでいる。


一番排出量が多いのが食品製造業で、農林水産省から発表されている資料で知ることが出来る。そこで大量に廃棄される食品に対して、食品リサイクル法を施行し、食品廃棄物についてリサイクル目標が業種ごとに定め、食品資源の有効利用を促進させるべく制度が構築されている。


 食品廃棄物の発生量等について

 *農林水産省ウェブサイトより


 食品廃棄物等の発生量及び再生利用の内訳

 *農林水産省ウェブサイトより


業種毎にリサイクル目標が設定され、この中で飼料化(動物のえさ)の利用が一番多い様だが、食品の持つカロリーを有効利用するためには、今のところこの方法が一番有効なようだ。


日本国内において、食品が満ち溢れているように見えるが、しかし、その影には、生活苦のため、十分な食品を手に入れることが出来ない、人々も存在している。そもそも食品は、人々の生存するために製造されるものだ。食品の本来の姿として、リサイクルや有効利用する以前に、人々の口に届けらなければならない。これは正論だろう。


そこで一つの方法として「フードバンク」活動がある。この活動は、低所得者やホームレスのシェルター、児童福祉施設、母子緊急生活支援施設などに対し、配布する仕組みを行う団体である。日本に数十社あり、こちらから団体を確認することが出来る。


 各フードバンクの紹介

 *農林水産省ウェブサイトより


日本において生活困窮者に対するセーフティネットが充実しているとは言い難く、また寄附する行為自体も欧米諸国を比べ少ないと聞く。そこで貧困者対策の一つの方法として、フードバンクが推進されている。フードバンクとは、売り物にならない食品を食品業者から譲り受け、必要とする施設に無料で配るという活動を行うことである。


もちろん、食品の安全性は担保せねばならず、消費・賞味期限内のまだ食べられる食品しか受け取らず、期限が切れているもの、残りの期間が極端に短いものは提供されない。素晴らしい取り組みのようであるが、私なりに考えてみたい。



(活動の問題点として)
フードバンクの仕組みをより強固に確立したものとするためには、以下の要素をどうクリアするかにかかっている。


■食品を提供する企業

フードバンク活動の発展のためには、活動に関する認知度と品質管理や安定供給を始め、食品関連企業の協力・支援が不可欠である。活動の趣旨を理解してもらう企業への働き掛けや、品質保持の方法、転売の防止、提供数量など、企業側の意向に配慮した活動を展開することが重要である。


品質保持や転売されないこと等が、支援の条件として多く指摘されている。事故が発生した時や輸送コストをどちらが負担するのか、また、安定供給をどの様にして行うのかが課題となっている。相互の信頼関係において実施されている場合もあると聞くが、責任の所在を明らかにしておかないと、企業側にリスクが発生することになる。


安定した提供を行っていくためには、責任の所在や費用の分担について明確化した文書により合意できるが、一度事故は発生すると、団体のみならず企業イメージも失墜する恐れがあり、その後の活動が困難になりかねない。その対策として、賠償金の支払制度を設けるが、損害保険に加入すると費用負担が生ずることになる。


配布した商品で事故が発生し、企業イメージを損ねる結果にならないよう、責任の明確化と企業に対し、どのようにしてインセンティブを与えられるか、そこが課題となる。企業にとって食品ロスが全くないのは理想であるが、製造工程やサプライヤーとバイヤーの関係や市場の仕組みにおいて、ロスをゼロにすることは困難である。


勿論、企業としては、消費者に正規品を正規の値段で購入して貰うのが一番いいはずだ。いくら無償とは言え、非正規品(廃棄製品)が配布されれば、正規品が購入されなくなる。そこで企業は市場のバランスを保つため、あえて食品を廃棄している場合もある。企業側の諸事情を考えると、参加に後ろ向きなのも頷ける。



■活動組織の透明性と公平性

提供された食品を適切に分配する「フードバンク」だが、運営主体を立ち上げようと考えた場合には、@組織理念・目的の設定と共有、A準備委員会の設置、B既存フードバンク運営主体からのノウハウ取得を行うことが重要である。


同時にフードバンク活動を始めるため基本的には、事務所、食品を保管する場所、食品を運搬する車両等が必要となり、不定期に発生し数量が安定しない品目が多岐に渡る場合、食品を保管する必要性が出てくる。それらの設備には、当然維持管理コストもかかる。また、品質管理は重要課題で、支援を受けた食品によって事故が発生した場合、支援団体のみならず提供者にも被害が及ぶ可能性は否めない。


更に多岐に渡る品目を、いつ、何を、どれだけ、誰に配るのかに配慮しなければならない。食品の提供先に関する明確な基準や優先順位を儲け、その基準を公表し公平性を担保しなければならず、これが適正に実施出来ないと、より人件費や時間のかからないところが優先され、供給のミスマッチが起こるかもしれない。受益者のニーズを把握し、全員が納得出来る基準を示す必要性がある。



■受益者とのバランス

最後に、需給バランスの問題がある。受益者が供給者より支援を受け食品を受取る際、消費しきれない量や、よく知らない所で製造された食品、受益者の嗜好、食品アレルギーの有無、栄養のバランスなどの問題である。


受益者側と供給者側において、同じものを大量に貰っても、全てが一度に消費出来るわけでなく、栄養のバランスも考えなければならない。満腹感を得るためにだけ同じ栄養素や、カロリーの高いものばかり食べていては、受給者の健康に影響する。より文化的で人間的な生活を営むためには、やはり食品の持つ栄養バランスについても考慮したい。


あってはならないことであるが、受給者のニーズに合わない結果、配布された食品が廃棄されるとなると、食品ロスをなくすための活動の意味を無さなくなる。受益者側のニーズについては、出来る限り正確に把握し、お互いの認識の相違により新たな食品ロスが発生しないよう配慮する必要がある。


人の欲望の中で食欲は、人それ自体の生存に直結する問題である。だからこそ食に対する欲求は強く表れる。しかし、人は生物学的には動物だが、思考と理性を持っているので動物と違う。だから人は、食欲を満たすためだけに食べ物を食すのではない。


日本国憲法において、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。必要最低限度の生活とある中で、需給者が「適切な栄養を得ているか」「自尊心を保つことができるか」の問題点を指摘したい。生存するためのだけの支援活動に留まらず、健康で文化的な生活を営めるように支援されたい。量の確保も大切だが、同時に質も大切である。人は美味しい物を少しだけいただくことにより、幸福感を味わえるのだと思うが如何だろうか。



(活動の盲点)
何故この様なことを書くのかと言うと、実は最近私はフードバンクを立ち上げようかと考えたのだ。しかし、現状ではこれらの問題点を解決できないので見送ることにした。ある団体の案内では、食費の節約、廃棄コスト・環境負荷の低減、食品ロスの削減などが解決できるとある。しかし、ここでは書けないが、私なりに考えると多くの疑問符がついた。


運営自体も第三者の資金援助が必要となり、独立した活動であるが人々の寄付に頼る部分が多く、自己完結型にならない様だ。確かにフードバンクにより、救われている人々は確かに一定数いるだろう。活動そのものを否定している訳でもない。救うことが出来る命を救えるのなら、それに越したことはない。


もしや、日本の社会保障システムに欠陥があるのかもしれない。日本では社会保険料負担は相対的に低く、所得水準や経済状況から日本の寄附水準が低い理由を見出すことはできないにも関らず、寄附文化が根付いていない背景がある。


 諸外国における寄附の状況と税制の役割

 *東京都主税局ウェブサイトより


こちらのデータが示す様に、日本は社会保険料負担も寄附金額水準も低い。社会システムや寄附文化の違いがある。寄附文化を根付かせ、貧困者対策として活用すればいいと思われる。だが、そう言っても寄附が万全の対策では無い様だ。


マルサスが「人口論」の中で書いている。


金持ちから貧困者へ寄付→貧困者の稼ぎが増える→貧困者の購買力が増す→食料品の絶対量は簡単に増えていない→金持ちも食する→食を得るため金持ちが買い漁る→食料品価格が高騰する→貧困層が買い負ける→結局貧困のまま。


それぞれに食糧の購買力が上がれば、買い手の間で競争が起こる。その結果、食料品の価格が高騰するが、貨幣を多く持ち購買力のある金持ちは購入することが出来る。しかし、貧困者は貨幣を多く持たないため、結局犠牲となってしまう。


寄附金を原資にして活動を行うことは、日本国内の誰かが、その活動費用を負担するのであり、必要コストが第三者に転嫁されただけとしか思えない。ボランティアの部分でカバーしている部分もあるだろうが、費用負担がゼロとはいかない。


それならばマルサスが言うように、放置された耕作地で作物を作り、それを貧しい人に与えることや、自分の家で消費される食糧を減らし、それを貧しい人に与えられるなら社会のストックとなり、自分、家族、社会全体の全てに利益を与えられる。


個々の活動のケースでは全く感知されない程、小さな問題かもしれないが、私の考え方の違いもあり、自分自身が納得出来ないからやらないことにする。様々な問題点を解決できれば、フードバンクは素晴らしい活動になるだろう。しかし、プラットフォームばかりに着目せず、私なりに出来ることを考えたい。



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2015年08月24日

老後に備える

「老後に備える」その老後とは、一体いつを言うのか。



(老後の明確な基準はあるのか)

人間誰しも必ず老いて行く。体はみすぼらしくなり、体力は衰え、若い頃の様に言うことを聞かなくなる。だがそれも自然の摂理として、受け止めるしかない。誰一人として抵抗できない自然の摂理である。人は誰でも必ず老い、やがて死を迎える。


ただ疑問に思うのが、老後、老後と人は言うが、それを年齢という数字だけで表せるのだろうか。


老化のスピードは人それぞれにあり、個々に違う。50歳代で老人に見え、生気のない人がいれば、90歳代でも活発で若々しく、未だ成長しているのではないかと思えるほど、元気な人もいる。そういった風に、老化現象は個人差がある。だから、その時期がいつなのか第三者に決められるモノではない。いや決めて欲しくない。


「老後のプランは」「定年後に備えて」など、余計なお世話だと言いたくなる。その背景には、老人ビシネスで利益を得ようと、虎視眈々獲物を狙う業者の欲望が垣間見える。



(従順な労働者を生み出す教育)

戦後復興を目指すため、国は資本を一箇所に集中させるべく、従順に働く労働者を作りだし確保してきた。学校教育は、企業のもとで働く労働者を作るためのシステムであり、企業に勤めるのを前提にし、従順な労働者を育てるための方法である。


そして教えられた価値観のもと金太郎飴のように同じ考えを持つ人が育ち、多くの人々が没個性的になる。その教育を受けた人々は企業の中で働きながら、与えられた環境の中で個々に幸せを感じ、明日こそはと今より幸せな未来があると信じ、夢を描きながら働いていた。


しかし、いくら一生懸命に働いても、肉体が滅びる時期が近付くにつれ老化が始まる。老化により生産性が低下した労働者は、企業にとってお荷物でしかない。そこで企業側が設けた定年制度により強制的に第一線から退かされるようになる。


人々は、その定年制度を当然の如く受け入れた。そして、今までの功労に対する企業からの敬意として退職金を受け取り、保証されてもいない老後の幸せな生活を夢見る。


定年を迎えると労働者でなくなる。全く労働せず金融資産や不動産収入もなければ、一消費者でしかない。それでも労働しなくてもいい環境に満足し、夢にまで見た解放感と充実感がしばらく続く。毎日が日曜日である。会社に縛られることはなく、嫌な上司の叱責を受け、ダメな部下の管理や顧客クレームもない。趣味や娯楽に勤しみ、明日は何をしようかと気分が高揚する。


健康でありまだまだ元気であるのに、ある一定の年齢に達すると労働しなくてもよくなるなんて、こんな生き方で本当にいいものだろうか。


しかし今日では、どうやら定年後の人生は安泰でないようだ。右肩上がりの経済成長を続けるていた時代において、企業と個人はそれぞれの相互信頼のもと健全な労使関係が続いていた。終身雇用が続き、定年退職後に一定の金額を受取れると信じていた。互いの明るい未来が約束されたものであるかの如く振舞っていた。


しかし、どうだろう。今の社会はその相互信頼関係は崩れ、欧米の資本主義を是とする社会において幻想と化し、企業と個人の間において互いに牽制し合うようになる。企業は業績が悪くなると、冷酷にも人を解雇する。冷酷な企業の雇用体制によって労働者は企業に対する忠誠心は無くなり、人が育たなくなる。今の社会でこの問題が顕在化し、過去の約束や決め事が嘘のように崩壊した様に思える。



(休日の意味)

私は思うが、毎日が日曜日だと、生きていることのありがたみがなくなり、かえって苦痛になるのではないか。


昼間のスポーツジムは老人達の溜まり場となり、そこでの会話も、やれ登山だ、ゴルフのスコアだ、飲み会の段取りなど、趣味や娯楽の時間を消費するのに事欠かない。時間を持て余しているからだろうが、人間あんなにも、趣味や娯楽だけで時間を潰せるものかと感心する。私には一種の拷問にも似て、絶対に出来ない。


私の義父は典型的なサラリーマンで、65歳で定年を迎えた。最初のうちは趣味や娯楽、奉仕活動などを行い、生き生きとしていた。しかし、途中で様子がおかしくなり病院で受診すると、アルツハイマーと診断された。わずか定年から3年でアルツハイマーを患い、その後2年程で他界した。


現役時代は、ギャンブル、女、酒、娯楽の悠々三昧。今思えば、それも仕事があったからこそ成り立っていたのではないのか。人を木に例えるなら、人生を有意義に生きるための根と幹として仕事が存在し、枝葉は娯楽や趣味と考えたい。しっかりした仕事(根と幹)があってこそ趣味や娯楽(枝葉)があるのだ。


仕事(根と幹)だけで、娯楽の一つもない人生はつまらない。かといって、趣味や娯楽(枝葉)だけで生きていけない。仕事とは人生を生きる上において、根幹となるものに思える。義父の死を思うと、人々における仕事とは人生を充実させながら、人を一日でも元気で長生きさせることの出来る素晴らしい宝物でないのか。


迷惑だ、ストレスだと思っていたことでも、毎日時間を持て余す日々を過ごすうちに懐かしく思える時もある。嫌だ、嫌だと思っていた仕事でも、人生のスパイスになっていたのではないのだろうか。私はそう考える。



(俄かにお金儲けはできない)

最悪なのは、大切な退職金を運用して生活費の足しにしようという考え方や、退職後に起業しようというプラン。無責任なマネー誌や経済誌に当たり前のように書いてあるが、やめておいた方が身のためだ。


いきなりこれらを真に受けている人も多いが、とんでもない発想である。大金を扱うのに慣れていないからだ。いくら大金を扱っていたからといえ、会社の器の中でしか扱っていないなら尚更だ。要するに会社の器に守られていて、その範囲で扱っていた訳だから自身にリスクはない。失敗したからと言え不正を働いていないのであれば、降格や一時金への影響はあるかも知れないが、弁済にまで至ることは殆ど無い。


そのリスクをとってきたことのない人が、いきなり大金を扱うのは危険極まりない。ゴールドラッシュで儲けたのはスコップを売った人間で、株バブルで儲けたのは証券会社である。自身より利益を得るのは誰なのか考えればいい。そう考えると恐ろしくなる。



いろいろ考えると、定年を年齢と言われる数字で表し、誰もが必ずそれを履行しなければならないと思わせる世の中がおかしいのではないか。個々のライフスタイルや考えにより、柔軟に対応すればいい。


老後のプランについて、杓子定規な案内や提案など迷惑な話だ。一生現役、死ぬまで働く。働けるなら働けばいい。老いてなお一層働く。働くことに対する捉え方次第で、人生が愛おしく輝いて見えるのではないか。


仕事上のトラブルやミスなど取るに足らない。なぁに、心配はいらない。これを読んでいるあなたも、やがて死を迎える。そうなれば、苦楽の感覚すらなくなるのだ。



posted by ヨッシー at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年08月10日

私に墓はいらない


今の時期、お墓参りに行かれる方も多いですね。しかし、近年死者を弔う事情も社会情勢により大きく変化しています。



(信じることで全て成立する)

年々、少子高齢化の進行により、生前より永代供養を希望する中高年が増えているようです。墓や信仰を継承する子孫がおらず、お墓を立てても死者の供養をして貰うのが期待できない人のために、永代供養の道を選択すします。


先祖を敬う心は大切です。今の自分がこの世に生を受け生きていられるのも、我々の先祖がいたからです。先祖を敬う心を大切にするのを疑う余地はありません。しかし長年経つと、その気持ちも薄れてきます。特に全く出会ったことのない先祖の墓にお参りしても、今一つピンときません。


やがて子孫が途絶え親族関係が希薄になると、墓参りをする人すらいなくなります。そうなると墓は手入れされず、見るも無残な姿に変わって行きます。そこで困り果てた遠い親戚の者が、墓を取り壊したいと相談しますが、離檀家料や撤去後の整地など、高額な費用が発生する場合があり、なかなか思うようになりません。費用面で折り合いがつかず、放置されたままとなり、更にお墓の劣化が進み悪循環に陥ります。


ひとたび墓を建ててしまうと、維持管理や撤去が大変なようです。根本的な部分になりますが、そもそもお墓が必要なのでしょうか。確かに墓前で祖先を敬いますが、そこには死んだ人の骨が納骨されているだけで誰も居ません。存命者のための、信仰するシンボルに過ぎないのです。


仮に存命者の信仰心を満たすだけのシンボルだけの存在であるなら、こんなに手間のかかるお墓を立てる必要はない。後々の管理を考えると一層のこと、水葬や風葬にしてしまえばいいと思う気持ちも頷けます。


信仰心は、常に存命者自身の心中にあればいいのであって、いつ、どこで、どんな形で信仰しても構わないのではないか。何の本に書いてあったか記憶はないが、こんな教祖と信者の話が書いてあったと記憶しております。


信者A「神への信仰はタバコを吸いながらしてもいいのでしょうか」

教祖「そればだめだ。信仰は神聖なるもの。タバコを吸いながらなどもっての外だ」。

一方信者B「神への信仰はタバコを吸っている時に信仰したくなりました。タバコを吸っていても信仰していいのでしょうか」

教祖「信仰はいつ、どこで、どんな形でやっても構わない。思い立った時に信仰する心が大切だ」と。


この違いがわかるでしょうか。物事の捉え方で不純にもなり純粋にもなり得る。いずれにしても信じる心が大切な様です。


認識と信じるは違います。認識は現実的に在り、それを人は在ると意識し認識ます。そこに在るから認識出来るのです。一方信じるの「信」は、漢字で人の言葉と書きます。何かが在ると言っているのは人です。それを信じているのも人です。ここで言っているのは人の言葉であり、聞いた人自身がそこに在ると認識したものでありません。


在るかもしれない、無いかもしれない。在ると思い一所懸命見ようとするが、全く自分の目には映らない。在るのか無いのか、どちらか分からないから、人の言葉を信じるしかないのです。信じる。それはその言葉が嘘でないとし、決して疑わず、人を信頼する行為です。


宗教団体の信者が良く「信じなさい」と言う。これはこの世に在るモノではないということを自らが自覚し、存在しないのを露呈しているようなものです。そして、無いモノを在るように見せなければならないため、信仰にはその対象となるシンボルが必要になります。どの様なモノがあるかは、これは言うまでも無いでしょう。


極端な話、本人が心中で信じているなら、その対象となるシンボルなど無くてもいい。しかし、無いモノを在るように説明するのにお墓やお札などのシンボルが必要となる。そこでその信仰となる対象物を作り、さも在るかの如く振る舞い、まるで、それがそこに在るモノとして認識させるようにしています。


信仰する側も、そこに何も無いと分かっていますが、その現実を受けとめようとしません。真実は目に映らず、ただ目に映っているのは、信仰の対象となるシンボルだけ。しかしそこに何かがあると信じ、目に映るシンボルを認識することにより、現実に存在するモノだと誤解している人々がいます。



(お墓の管理者は減少している)

毎年私は、母親と一緒に祖父母の墓参りに行きます。しかし、今年はとうとう母親から「止めておこう」と言われました。どうやら足腰が弱くなってきており、墓参りに行くことが億劫になってきたようです。だから私も母に付き合い、今年から墓参りは取り止めて行かない。


祖父母からすると、祖父母の直系である私は孫です。そして私の子供は曾孫、曾孫の子供は玄孫と続く。実際のところ祖父母の墓に、私の子供達(曾孫)は参らない。まさか、お墓がどうなってもいいと思っている訳ではないが、それだけ親族関係が気薄になっているのだろう。私も別に子供達にお墓へ参って欲しいとは思いません。


名前や顔すら分からない。ましてや、出会ったことも無いそんな親族に対し、わざわざお墓参りをしたいと思わないだろう。いくら直系でも、関係が希薄になれば皆そうなります。身近にいる母親が、墓参りが出来なった姿を目の当たりにすると、同じ様なことが世間で起こっているのではないかと想像します。


一般的にお墓は親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅により無縁仏化するお墓も増えていると聞きます。また、墓地不足や費用面の問題と核家族化や少子化により、今後お墓を持っていても供養して貰える可能も少なくなります。


子孫が生まれ育った場所から遠く離れ、生家に住んでいた父母も亡くなり、後継ぎがいないためとうとう家が取り壊されるようになると疎遠になり、余計にお墓の管理ができなくなってしまう。


最近は、結婚しない人々も増えてきており子孫を残せないので、自分達が死んでもお墓参りをしてくれる人すらいない。こんな人々は無縁仏化するのは必至で、運よく子孫がいてもいずれ無縁仏化するのは目に見えています。子孫がいる人は、墓参り代行業者に依頼すればお墓の管理できますが、それなら先に書いたように、お墓はシンボルとしての存在でしかなく、それを自らが認めてしまうことになる。


信仰は心理構造によって制約される。そしてそれは、状態によってではなく対象に依存しています。こうなると、お墓の存在自体すら疑問となり得ます。存在自体がとても煩わしいモノとなり、一層のこと、お墓が無くてもいいのではないかと思えてしまう。



  社会実情データ図録より

  無題.jpg



(信仰の変化)

こうしたことを考えると、お墓を立てることが絶対で無くなり、永代供養や自然葬、散骨などで弔う方法が促進されるのも頷けます。どんなに綺麗ごとを言っても、所詮人は糞袋です。口から物を食べ消化し、やがて排泄物として排泄するだけです。この行為自体を捉えるなら、人は動物と変わりません。動物より考える力が優れているだけで、人の死は人々が思う程神聖で高貴でないのです。


ならば、供養の仕方は人それぞれに在っていい。宗教や他人の価値観により左右されるべきでなく、こちらから他人にお節介を焼くものでもない。


私の父はお陰様で存命ですが、私はいつも父にこう話しています。「お墓は立てない」「葬儀は家族のみで行う」「父の死を私の親族や父母及び私の知人に知らせない」「永代供養する」と。これが私のスタイルなので、誰にもとやかく言われたくない。父も納得しています。要するに、なるべく費用をかけない方法を選択したのです。


父親は人生の反面教師でしたが、今の私がこうして生きていられるのも両親のお陰です。当然、私は両親に感謝しています。


でもいくら綺麗ごと言っても死んだら人は終わりです。死んだ人に対し、豪華絢爛に葬儀を行っても無駄に過ぎません。私は立派な葬儀を、存命者達の見栄やプライドを満足させるものでしかないと考えています。死んだ人の死を受け止め、両親から自身が受けた行為に感謝し、心の中で生き続けていてくれればいいのではないでしょうか。


私は、感謝と信仰は違うモノだと思っています。ここに在ったモノ、在るモノにするのが感謝です。感謝する対象は、天や地の恵みや人々の親切などいくらでもあります。私達は、そこに在るモノだからこそ感謝出来るのです。ですから、目にも映らず無いモノに対して感謝できません。


感謝はするが、私には信仰心がありません。そこに無いモノだからです。信仰とは、信仰するうちにやがてそれが感謝へとすり替えられて行く行動なのではないか。信仰は、最初から無いモノを在ると人々に信じさせる世界へ誘い、それを信じた人々はやがて自己欺瞞の世界へ陥る。


フロイトは「幻想の未来」という作品の中で、宗教を痛烈に批判しており、宗教的な教えを信じるべき根拠が何処にあるかと問うています。


@私たちの祖先が信じてきたのだから、信じる価値があるというもの。

A先祖代々、それを信じるべき証明が与えられてきたというもの。

Bこうした教えを信じる根拠を問うことは、そもそも禁じられているとういもの。


宗教は先祖か信じてきたものであり、それを何ら疑う余地も無く無抵抗に信じる人がいます。科学や文明が発達していない過去において、先祖たちは無知でした。無知なる教えの礎となる聖典そのものも改竄されています。その無知なる教えを信じていいものだろうか。


聖典に書いてあるから信じる。聖典に書いてあるからと言って、証明になっていないにも関らず信じる。過去から伝えられてきたものであると言うだけで、無防備に信じない方がいいのではないだろうか。


また、宗教それ自体に疑念を抱くことすら許されません。もし疑念を抱こうものなら、「罰が当たる」「未生に影響する」「信じる者は救われる」などの言葉を用いながら、人の心を恐怖に陥れ操作しようとします。心の中で信じることが大切であり、そこに理性の入り込む余地はないとさえ言う。


ある宗教は、人が罪を犯しても神に犠牲を捧げたり贖罪したりすることにより、再び自由に罪を犯せるようになります。不道徳にも手を貸し、戦争を勃発させ、こうまでして人類を支配する宗教とは一体何なのだろうか。


無いモノを在るように振る舞う、信仰のシンボルとしてのお墓は無くてもいいとさえ思える。わざわざシンボルを作り供養しなくても、祖先への感謝の気持ちが常に人々の心の中にあり、その心を持ち続けることが大切ではないだろうか。




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2015年08月06日

努力が報われない世の中


努力が報われない世の中になったのでしょうか。管理職のポジションも減ってきています。「日刊SPA!」より引用いたします。



30代で係長、40代で課長に昇進。入社当時は、そんな出世コースを思い描いていたはずなのに、自分の役職が追いついていない現実。会社員人生に焦りを覚える人も少なくないだろう。これに対して、「40歳までに課長に昇進できなかった人は、それ以上のポストはほぼ無理」と断言するのは人事コンサルタントの城繁幸氏だ。


5年前、『7割は課長にさえなれません』という著書を出したのですが、その当時に比べて、現在の事態は深刻化しています。このままいけば、40代の8割以上が役職に就くことができず、ヒラのままで終わると断言できますね」

しかし、景気は上向きになりつつあるなか、なぜ多くの人が課長にすらなれないのか。

「昔から日本企業は年功序列が強く、大手企業は管理職が無駄に多い傾向にありました。たとえば、昔のソニーは正社員の4割が管理職でした。現在は管理職を半分降格させるという対策をとっていますが、こうした風潮は日本中で起こっています。つまり、管理職のポスト自体が急速に減っているため、以前のように誰もが役職に就けなくなった。課長というポストすらなくす企業もあるほどです」

第一生命経済研究所・主席エコノミストの永濱利廣氏も続ける。

「現在、アベノミクスなどの余波で賃上げ傾向にあると言われていますが、実は40代前半男性はその恩恵を受けていない。厚生労働省の昨年度の『賃金構造基本統計調査』で年代別の男性の賃金格差(調査1)を見てみると、その他の年代は年収がプラス傾向なのに、『4045歳男性』の年収だけ、前年比マイナス0.6%になっています。一方、役職者の平均年齢と年収の比較(調査2)を見るとプラスであるのです。一部の役職者は稼いでいます。つまり、これらの結果を見ると、4045歳の層のほとんどが、管理職になれていないということが推測できます」

<調査140代の給与が目減りしている事実

3034歳 賃金(賞与含まず)276万円 対前年増減比:0.4
3539歳 賃金(賞与含まず)316万円 対前年増減比:0.7
4044歳 賃金(賞与含まず)355万円 対前年増減比:−0.6
4549歳 賃金(賞与含まず)400万円 対前年増減比:0.7
5054歳 賃金(賞与含まず)422万円 対前年増減比:1.2

※厚生労働省発表の平成26年賃金構造基本統計調査における「性、年齢階級別賃金、対前年増減率及び年齢階級賃金格差」(一部)。管理職になりやすい4045歳層の賃金のみマイナスという結果に

<調査2>役職者の平均年齢は上がるばかり

・部長級 52.4歳 賃金(賞与含まず)657万円 対前年増減比:0.8% 役職・非役職間の賃金格差:3.16

・課長級 48.0歳 賃金(賞与含まず)522万円 対前年増減比:1.8% 役職・非役職間の賃金格差:2.51

・係長級 44.0歳 賃金(賞与含まず)392万円 対前年増減比:1.7% 役職・非役職間の賃金格差:1.88

・非役職者    賃金(賞与含まず)208万円 対前年増減比:1.0% 役職・非役職間の賃金格差:1として

※平成26年の「役職、性別賃金、対前年増減率及び役職・非役職間賃金格差」。非役職者は2024歳とする。役職者の平均年齢が上がっていることにも注目だが、やはり、役職者の給与自体は下がっているわけではない

引き続き調査2の管理職の平均年齢にも注目してみよう。

「係長で44歳、課長で48歳。そして、部長職の平均年齢にいたっては52.4歳。もちろんあくまで『平均』なので、昔の年功序列制度で役職に就いたまま、出世もできずにそのまま居座っている年配管理職たちが平均年齢を引き上げている可能性も高いのですが……。いずれにせよ、上の年代が詰まっている以上、40代になっても役職に就けない人が大量発生する事態は全然おかしくない。係長クラスまで上れたとしても、40代から課長クラスになる見込みは1割くらいなのではないでしょうか」

 役職自体の数が減っているうえ、上の世代がいまだポストを独占しているため、大企業社員の9割が課長になれないとも言える。本誌アンケートでも課長未満が9割近くを占めたほど。城氏はさらに厳しい現状を突きつける。

「もはや『大企業で出世』なんて考えは捨てたほうがいいかもしれない。さらに、『役職者=リスクをとって責任を背負う人』でもあり、昔でいう安泰で高収入の象徴ではありません。むしろ『管理職になりたがらない』人も増えているほどです。今後、ポジションを築きたいならその覚悟も必要だということも、覚えておいてください」 <取材・文/藤村はるな>

日刊SPA



(厳しくドライな社会になった)

経済発展していた過去の様に、現在ではそう簡単に役職者になれないと書いています。私が勤めていた当時は、まだ経済発展が見込め、一生懸命に働いていればそれなりの役職がつき、給料もそれに伴い少しずつではありますが確実に昇給していきました。また、その流れを望むことが明日への希望となり、家族を養うための原動力にもなっていました。


以前は、日々改善努力し滅私奉公していれば結果が伴いましたが、今ではそれも叶わぬ夢に変わりつつあります。物を作れば作る程売れ、新しいサービスも生まれました。が、それらは作られた物を買う人がいて、新しいサービスを受けようとする人々が大勢いたからです。物を作れば作るほど売れる訳ですから、そこで企業は更なら設備投資や機械化を進め、科学技術発達させ高効率化を図ります。


生産性が向上し大量生産出来る様になると、皆が安価で使い勝手のいい物を手に入れ、人々の暮らしは便利になり楽になって行きます。しかし技術革新が行われた結果、人々の仕事を奪い人々の収入が減り、かえって需要が減り物やサービスが売れなくなり、人々の生活が困窮する結果を招きます。


そして企業はもっと沢山利益を上げようと、更に生産性を上げようと努力しますが、人口の減少も影響し、物やサービスが溢れかえることになります。市場が飽和状態となり物を作っても売れず、サービスを提供しようとしても受ける人が少なくなっています。


企業は更なる発展をとフロンティアを求めますが、もうすでに開拓してしまったところばかりです。これでは過去の様に大きな経済成長は見込めません。それでも企業は利益を上げ生き残りを図ろうします。今までのシステムでは成長が見込めないため、とうとう企業は人件費削減に目を向け始めました。


正社員に対する退職勧告や希望退職を募り、更に派遣労働者やアルバイトなどの低賃金で雇用できる非正規雇用者の採用を加速させます。必要な時に、必要なだけ、必要な期間のみ雇用するスタイルです。企業の業績により左右される非常に不安定な雇用状態です。


それでも若者が少ない収入で働いてくれるうちはいいのですが、若者は正社員と同じくらいの働き(それ以上かも知れない)なのに、収入は正社員より少なく、生活も不安定なため矛盾を感じ、嫌になって辞めて行きます。


これでは経験により培われた才能や技術の伝承すらできません。今はいいかも知れませんが、将来的に物を作りたくても作れない、貴重な技術やノウハウの蓄積すら出来ず、優秀な人材を育てるため社員教育をしたくても叶わないなど、企業にとって大きなダメージを受ける可能性は否めません。極端な話をすると、日本の国力が低下し某国の植民地になる可能性も否めません。勿論、日本人としてそうなって欲しくはありません。



(管理職ポストの減少)

辛うじて雇用が守られた正社員の管理職達。ここでもっと努力すればいいのですが、社内営業に長け、長年身についた保守的な思考が邪魔をします。失敗を恐れる臆病者のため、新しい取り組みをやろうとせずマネジメントすら出来ません。ただ長く会社にいた(年功序列)ので管理者になっただけの、偉そうにふんぞり返っている人々。


その人々の雇用を確保するため、多くの若者が犠牲になります。今後、マネジメント出来ない高コスト体質の管理職はいらなくなります。いてもいなくても同じ結果なら尚更です。管理職のポストが減れば、自分もプレーヤーになるか、違う道に進むしか選択肢はありません。そうなれば収入源となるのは必至です。


起業も一つの選択肢です。しかし、起業するにも起業し事業を継続するのは容易ではありません。必死にもがき苦しみ、やっと人様に認められ生きて行けるのです。上手く事が運ばないと、自分と家族を養うことすらままなりません。


私は起業することそのものについて否定はしません。寧ろ肯定派です。起業するには、今までの自分を大きく変化させる意思と力、そしてタイミングや社会環境の援助が必要です。起業を支援するコンサルタントが存在しますが、起業を勧めるなら最後まで責任を持って貰いたいものです。それも無償で支援してやって欲しいと思います。


コンサルタントは、参加者からセミナーと称する費用を徴収し、とりあえず自分の収入を確保しています。自分にかかるコストは、しっかり確保しています。そして、支援する際はコンサルタント料として、依頼者から定額若しくは一定額を徴収します。


自分のノウハウと経験を公開するのは確かにいいと思います。しかし、依頼者の事業が軌道に乗り利益が確保できるまで面倒を見て欲しいです。それも、最初からコンサルタント料を徴収するのではなく、成功報酬型にしてです。


参加費用を徴収しセミナーを実施するくらいの方ですから、起業支援について自信がおありだとお見受けします。依頼者を「確実に起業させたい」「儲けさせたい」「社会に貢献して欲しい」と真剣に願うなら、結果が出てからしっかりとコンサルタント費用を徴収すればいいのです。そうすれば、支援する側もされる側も、起業に対し真剣に取り組めます。


コンサルタント自身が安全地帯にいると思えるような方法で支援しますと言われても、責任の所在が明らかでないため信用できません。起業に失敗した責任は起業した本人が背負うのです。起業に失敗して借金まみれになり、人生を棒に振る人々が世に増えることになれば、その責任の所在は何処にあるのでしょうか。起業を思い立った本人だけの責任でしょうか。


起業に成功の法則はありませんし、数式で表せません。不確定な要素に左右されます。コンサルタント自身は確かに起業して成功していますが、コンサルタント自身のノウハウや経験がそのまま使えるとは思えません。唯一見習うとすれば、自分の成功体験が第三者にも通用すると喧伝する、厚顔無恥なところでしょうか。


私は過去に起業セミナーや独立開業支援に参加しています。それらに感化され、よしやるぞと奮起しましたが、全て失敗しました。事業計画で数字を並べるのは簡単です。しかしそう簡単に事は運びません。全て私の責任です。セミナーの講師からフォローは無く、責任もとってくれませんでした。参加するのが無駄とまで言いませんが、バラ色の未来を夢見るのは止めた方がいいでしょう。


話が横道にそれました。


進むも地獄、退くのも地獄。どうにもならない状況まで追い込まれると、最後には自分の命を絶ってしまう人もいます。時代は大きく変化しました。過去の栄光や成功体験にすがりついていてはいけないのです。


定年退職した人々の話を耳にすると、過去の栄光や成功体験をいつまでも引きずった会話が目立ちます。肩書や勤めていた会社の自慢です。私から言わせれば、「それがどうしたの?」です。当時は経済も右肩上がりに成長し、同じ会社で真面目に働いていれば自分の収入も増えました。「我々の時代は」に始まり、「今の若者は・・・」や、「大企業に就職すればいい」など、本当に無責任なことを言っています。


当時は経済と会社の成長と共に人々の生活も潤いましたが、当時のことを若者に言っても無駄です。過去の経験則が通用しない時代なのです。時代遅れの自慢話を聞くくらいなら、多くの中小企業経営者と出会い、彼らの経験談を聞く方が余程ためになります。



日本の自殺者数の推移 自殺者数の推移 内閣府より

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主要国の自殺率長期推移 社会実情データ図録より

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相変わらず年間自殺者数は多いですね。多くの命が自殺によって失われています。OECD加盟国の中でも上位の自殺率です。貴重な人材が失われて行く世の中。これは日本にとって大きな損失です。


世間では、収入の多寡が影響しているとも言われています。しかし、近年の自殺者がこれだけ多いのは、本当に収入が影響しているのでしょうか。ウェブサイトでは、定説はないと書かれています。


もしかしたら、経済動向と自殺者に相関関係が無いのかも知れません。自殺者が増えている我が国日本。これで暮らし易い国、経済大国だと胸を張って言えるのでしょうか。



(収入と少子化の関係)

少子化が叫ばれていますが、子供が増えない原因の一つが収入の減少にあると言われています。年収200万円〜300万円では自分達の生活すらままなりません。私の子供もこのレンジにおります。


身近に存在している彼の暮らしぶりを目の当たりにしているので良く分かりますが、収入が手取り20万円では子育てなど出来るはずがありません。「共働きなら妻の収入が得られるからいいのではないか」と思われますが、妊娠し出産準備に入ると仕事を辞めなければならず、そこで収入が途絶えます。一度退職をしてしまえば、元に戻ることも現実として厳しくなります。


これでは少子化が解決できません。現代では、家族という最小のコミュニティ集団が破壊され、核家族化はもとより、一世帯あたりの人員が減ってきています。世帯数は増加しているのに、一世帯あたりの人員は減っている。生活コストが余計にかかる大変非効率な生活です。家族を解体してしまえば商品やサービスを提供するパイは増えます。しかしこれでは、エネルギーや資源の無駄遣いを助長する生き方です。


そう考えれば、大家族で生活するのは理にかなっています。生活コストが一世帯に集中し分散して暮らすより有効に使えます。以前は家族が同居するのが当たり前でしたから、おじいちゃんやおばあちゃんが子供の面倒をみてくれるので、安心して仕事に出られました。世帯収入に対して必要経費が少なく済む暮らしです。個人主義が蔓延した結果かもしれません。我々が選択したこの生き方は本当に正しいのでしょうか。



変化する世帯の姿 総務省統計局より

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(大企業で働くことだけが全てはない)

世間にはまだまだ学歴崇拝主義の幻想があります。これに感化され、何のために学ぶのか目的も無く進学しようとする人も中にはいます。折角大学を卒業して高学歴になっても、フリーターや人材派遣会社で働いている人も少なくありません。学歴を重視する進学が本当に必要不可欠なのでしょうか。


そして高学歴を持った他人々は、大企業に就職を希望します。会社に勤めるだけが選択肢でないのに、それでもしつこく大企業に採用して貰おうと努力します。他に生きる道はいくらでもあるのに、何故か他を選択するのは消極的です。そんな心を見透かしてか、企業もおいそれと採用せず、何社受けても不採用。こうなると自身の人間性まで否定された気持ちになります。


これが本当に自分のやりたいことなのでしょうか。


本当にやりたいことを見つけたいなら、大企業でなくても見つけられます。それも仕事をしながらにして。もし会社勤めをしたいなら、私は中小企業をお勧めします。


大企業を目指すのは何故でしょう。ブランド力、収入面、安定した雇用、将来性など、様々な判断基準により選択するのでしょう。しかし、一生雇用が安定し、未来永劫繁栄する会社はありません。あってもほんの一握りです。パナソニックやシャープなどの事例が物語ります。


こんなはずではなかったと後悔する前に、これからは選択肢を多く持つ必要があると思うのです。勿論、選択肢を多く持てるようにするために、自分のスキルを磨いておく必要はあります。私が中小企業をお勧する理由は、中小企業は大企業より身近に経営者に接することができるからです。これでより実践的な経営感覚が養えます。


中には反面教師も存在しますが、その気になってみれば沢山勉強になる面があります。中小企業ほど自分が直接社会に接する線や面が多く存在するのです。中小企業ですからブランド力はありません。その反面、雑用も含めやる仕事は多く、結果として自分力が高まります。生き甲斐や新たな道が見つけ易いです。


その場合、何処に視点を置くかも大切です。同じ目に映るものでも、視点や考え方によって見え方は違ってきます。要するに自分がどうありたいかです。私も独立する前は、中小企業で様々な業務を行っておりました。今はその時の経験が大変役立っています。


大企業ほど組織で仕事が細分化され、自分のやっている仕事が何に役立っているのか見え難くなります。


日本では横並び精神が蔓延し、人と同じであることを是とします。反面、人と同じであることは、その他大勢の仲間入りとなり、人と同じ暮らしになり易くなります。


横並びの中では大きな変化は期待できず、それでも「夢を叶えたい」と願います。大きく変化したいなら、自分を変化させなければならないのに、人目を気にしてそれもやりません。世間体を気にしていては一向に変わらないことが分かっているのだけれど、世間体を気にしてそれをやらない。自動車に例えるなら、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのと同じです。これでは前に進むはずがありません。



いずれにせよ、我々が住む日本を含め、世界の経済システムの限界が来ているように思えます。「努力すれば報われる」「努力すれば必ず結果は出る」「頑張れば見返りはある」等々、無責任な言葉が虚しく聞こえてくる今日この頃です。



posted by ヨッシー at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年07月27日

海外に行くだけがグローバル化か?


海外から観光客が増え、様々な国から訪問する外国人が日本の至る所で目にする様になった。円安の影響もあって日本旅行や買い物がリーズナブルになったのも一因だと言われている。これだけ海外の人が多く訪問する様になると、日本人のビジネスもグローバル化しないと生き残れないと、世間では当たり前の様に言われている。



とは言え、何も海外進出するだけがグローバル化では無いと言いたい。日本国内にいたって、外国人相手の仕事はいくらでも出来る。日本人同士のビジネスも沢山ある。ましてや、生活環境や治安、食事の質においては、現在においても日本はトップレベルである。



皆がグローバル化を目指すべきなのかどうかが、果たしてそれが真実(正しいのか?正しくないのか?ではない)なのか自分の中でよく考えてみた方がいい。



幸いにも日本国内において、大手企業が見向きもしない隙間的なビジネスがまだ多く残されている可能性は高く、小さな分野でオンリーワンを目指せばそれほど競争しなくても済む。何もカントリーリスクを冒してまで無理に海外でビジネスする必要はないと思っている。



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世界の一人当たりの名目GDP(USドル)2014 引用:世界のネタ帳



特にスモールビジネスに言えることだが、海外マーケットを相手にビジネスをしようと思えば、そこに住む国民の年間所得にされる。海外に多数の拠点や工場を持っている大手なら話は別だが、スモールビジネスはそこに住む人々の年収によって自分の得る収入も決まってしまう。



従って、高価な日本の商品を現地に持って行っても、購買力の無い人達には売れない。売れても期待する程の収入は得られないと思われる。本人が、生活の質やレベルを落としてもいいと言うなら話は別だが・・・。



大きな夢を抱くのは構わないが、海外進出に余計なコストを掛けるくらいなら、もう少し日本国内のビジネスに目を向けてもいいのではないか。自身の足元に商機が沢山あり、もしかしてそのチャンスを見逃しているだけなのかも知れない。



確かに海外でビジネスを行っていると言えば、いいイメージを抱く方が多いかもしれない。しかし、ここで肝心なのは、どれだけお金儲けが出来ているかである。



自分が稼ぎたいだけ稼ぐことが出来ればそれで成功だ。働くフィールドこそ違えど、最終的には結果が全てとなる。だったらどこでビジネスを行おうが同じことである。





posted by ヨッシー at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年07月21日

労働生産性の低下


起業は、自宅で気軽にできるビジネスから店舗オーナー、インストラクター、コンサルタント業など様々あるが、できれば自分がこれまでに培ってきたキャリアや経験を生かせる事業を選択するのが望ましい。



もちろん、全く畑違いの仕事にチャンレンジする精神は確かに大切であるが、先ずは自分の勤めていたい会社の業務や、それぞれの持つスキルに合わせた業種選択を行うのが賢明だ。



無論、従業員として働く選択肢もある。将来的に従業員として生きる道が閉ざされた訳ではない。しかし、非常に厳しい時代であることに間違いはなく、今後も改善される見込みはないと考えられる。



会社から従業員に支払われる賃金は高齢になると生産性が落ちる反面、企業としてその分付加のある賃金を支払うことになる。生産性が落ちるのにコストが上がるのは、企業の競争力低下を招くため、経営者側として出来れば避けたいところである。



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企業側が支払うコストは、従業員が得る収入の同額〜1.5倍必要だと言われている。保険料、福利厚生費、交通費、従業員に与えるスペース、机、通信機器、車両、パソコンなど、多岐に渡る諸費用発生するためだ。従業員に支払う給料以外に、企業として最低限この分の費用を稼がなくてならない。



売り上げの減少や利益率の低下が起こると企業経営に直結するため、必要経費すら稼げなければ給料アップに踏み切れないのは確かであり、今後、競争力の無い企業が生き残るためには、これからもリストラや子会社への出向、非正規雇用者の活用など、人員整理やコスト削減が加速されていくとも思われる。



一方、大きな会社組織という環境に置かれている従業員にとって、自分に支払われている総コストがなかなか見えてこない。そこで自分達に支払われているコストについて、こう考えてみてはどうだろうか。



例えば、粗利益率30%の会社があるとしよう。年収500万円の従業員は必要コストを含め2倍と考え、企業側として年間1000万円の総支払額が生じるとする。これに対する必要な売上金額は、約3333万円となりこれがペイライン。このラインを超えると企業の純利益となり、反対にこの金額を割り込むと企業にとって赤字となる。



これで自分は会社に対し、自分がどれだけ会社の利益に貢献しているのか分かる。一所懸命働いているつもりだろうが、自身の能力を冷静に判断する材料となる。参考までに大手企業の財務状況がネット上で公開されているので、従業員一人当たりの純利益金額も計算できる。計算してみると、それが以外に少ないことに驚くはずだ。



利益を最大化するため、可変資本である労働力に経営者がメスを入れたいと考えるのは経営者にとって必然となる訳だ。



ところで、最近の若者の起業意識は低くプライベートを優先していると世間で聞くが、日本経済の発展にとってマイナス要因になるかも知れない。しかしながら、見方を変えると我々にとってライバルが少なくなるので有難いことであるが・・・。




posted by ヨッシー at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年07月08日

現在(いま)を生きる


不思議な時間観念

時間とは不思議なモノだ。決して目で見ることはできないが、ただ無慈悲に刻々と過ぎて行く。そして時間は、人々が不幸か幸福かに関係なくお構いなしに過ぎて行く。考えれば考える程、本当に不思議なモノだ。



我々には、時間と言うモノを目で見て把握するため時計があるが、時間という観念を数値化しているだけであり、それは時間そのものではない。また我々は、この時間が永遠に続くだろうと勝手に思い込み、時として永遠を手に入れられたと誤解している。



しかし残念だが、我々人類に確実な未来はない。未来が確実にあると思い込ながら生きているに過ぎない。全ての人々にとって同じことが言え未来など存在しない。我々の人生において確実に訪れる「死」があるが、これも現在にあるモノだ。そんな「死」さえも正面から向き合わず、明日、明後日、その先々があるが如く我々人は振る舞う。



そして時間が常に沢山有るモノだと誤解し、悪戯に無駄な時間を過ごす。今ここにある「死」を全く受け入れようとせず、今ここで自身に起きるべくはずがないと信じ生きている。確かに死んだことが無いので、自身の「死」について考えることはできない。だから考えないようにしているに違いない。



「死」は無になるのだから無いモノになるそうだが、私はまだ死んでいないので良く分からない。だが死んだ人と連絡が取れなくなるので、無になることは無いモノになると考えた方が良さそうだ。とは言え、死んだ後どうなるのかを考えても、無いモノだから考えられないのも事実だ。ここで仮に、無になるとするなら死後も無いのであり、死後が無いのなら時間の観念も存在しないことになる。



ここで結論として時間について色々考えると、今は「死」の状態でなく生きている状態だから、観念として存在する我々の時間は現在(いま)しかないのである。




我々の持つ時間は現在(いま)しかない


人が認識する時間の流れは人から見た場合、「過去→現在→未来」になるとする。未来に向かい進む形である。人はこれらを認識し観念として時間が有るから、人には過去が有り未来が有ると信じている。しかしこれは人側から見た都合であり、時間にとって過去、現在、未来の流れは無く、現在(いま)しかない。



そうなると結局我々の持つ時間も、現在(いま)しか無いのではないか。我々の言う過去は、確かに自分が歩んできた軌跡であるが、そんなもの目に見えず、有るのは自身の中に有る記憶だけだ。その記憶を過去と言い、もし記憶を喪失すれば、少なくともその人自身の中において過去など無くなる。未来も同じで見えない。勿論、未来が本当に来るのか来ないのかすらよく分からない。未来が有ると人々は言うが、そこには未来が有り必ず来るのだと期待し、信じているから未来が有ると言っているだけではないか。



何度も言うが、我々には現在(いま)の時間しかないのだ。無いモノ(過去と未来)を有ると考えていても、無いモノは無いのだから、ここに有る現在(いま)を考え、生きるしか我々の選択肢は無いのである。



ここに有る現在(いま)を一生懸命生きた結果、我々が未来と認識していたものが現在となって現れ、素晴らしい記憶と言う過去になる。こう考えると現在(いま)を生きることしかできないようだ。



「明日からやろう」「もう少し時期を待ってから」「あれさえなければ、これさえ解決すれば」などと人は言う。これらの言葉は未来があると信じて発せられているが、我々には現在(いま)しかないのだ。未来は無いと思えるなら「明日やろうは、馬鹿野郎」の言葉も妙に納得できる。



そこで「現在(いま)やりたいことをやらなければいつやるのか?」と言われる言葉の説得力も増し、現在(いま)を一生懸命生き努力している者こそ、期待した好結果を得られる確率が高くなるのも頷ける。



我々は明日に繰り越す時間などなく現在(いま)しかない。現在(いま)に自分自身が納得し満足できないのは、今そこに有る時間を、有効に用いていないからではないだろうか。



とても素晴らしい言葉だ。

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          講談社発行YMKC 賭博破戒録カイジ1巻149Pより引用




posted by ヨッシー at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年06月22日

流行色ってなに?


流行とは、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態を表します。ここで私が抵抗を感じているのは、何故「今年の流行色はこの色」と季節毎に毎年発表されているのかです。



流行採用の動機としては、以下の動機があるそうです。以下ウィキペディアより引用開始



@自己の価値を高く見せようという動機

社会の中で自己の地位を高めることや、異性による注目や関心を獲得する。


A集団や社会に適応しようという動機

流行を採用することで、自分が適切な行動をとっているという安心感を得、また周囲にも自分が適切な行動を取りうることを証明できる。


B新奇なものを求める動機

自己をとりまく環境から情報を得ようとする欲求や、自分自身に対する刺激を求めようとする欲求。


C個性化と自己実現の動機

自分を他人から区別したいという欲求・感情のはけ口や、意志表示の手段とする。


D自己防衛の動機

様々な社会の束縛によるコンフリクトを解消し、自我を保護するため、抑圧された感情のはけ口とする。引用終了



要するに、大多数と同じ行動を起こすことで安心できる新しいモノ好きの人々が、なるべく目立ちたいと行動し、皆と同じモノを採用した結果、同様のモノが巷に溢れかえる現象を言うのでしょうか。



他人と区別したい、自分だけは違っていたいと思い行動したが、その意思表示が結局として没個性的になってしまう。人々と同じでいることの安心感と横並の精神がそうさせるのかも知れません。悲しい結果ですね。自身の個性を大切にし、流行を追わなければいいのにと思います。



流行色なんてものも、様々な国籍の専門家の人たちが集まって検討する「インターカラー(国際流行色委員会)」で、2年前から決定されているものです。そして、インターカラーで選定した再来年の流行色の方向を元に、具体的な流行を作り出すべく世界的に動きます。つまり人々によって作られた流行なのです。世の中なんてこんなものです。



作られた流行に大衆が踊らされ、作った側が利益を貪る。自分の価値観を持たないと、踊らされる側になります。それでもいいと思うなら構いません。



そもそも専門家の人々によって作られた流行色が、万人に似合うはずがありません。無理して流行に乗せられ自身に似合わない色を身につけるより、自己の価値観で自分に似合った色を身につける方が数段恰好いいと思います。



世の中には、踊る人と踊らせる人がいますが、自分はどちら側にいたいのでしょう。これに気づけば、よく流行に乗せられた人々が「どう、今年流行りの○○よ」と自慢する姿がとても哀れで滑稽に思えてきますね。同じ生きるのなら、踊らない人でいたいですね。




posted by ヨッシー at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年06月16日

2冊の本を読んで


アランの幸福論について、それぞれの著者が内容について解説しています。両著者は、「人の幸せとは自身の感情により支配され、心の在り方によって左右されるのだ」と言っています。



確かに、自身の持つ感情により、同じモノや同じ現象が違って見えるのは事実です。



天気に例えるなら、澄み切った青空でも受け止め方によって違って見えます。燦々と日差しが降り注ぎ「なんて素晴らしい日だ」と思う人もいれば、日焼けを気にする人にとっては、強烈な紫外線受けることにより「なんて紫外線の強い嫌な日だ」と思うでしょう。



また、雨が降れば「しっとりとして落ち着いた気持ちなる」と思う人もいれば、「洋服や靴が濡れて嫌だ」と思う人もいるでしょう。



でも、どちらも同じ天気です。同じ場所にいる人にとって太陽は同じ光を放ち、雨も同じ量を降らせています。客観的事実に何ら変化はありません。それでも幸福に感じる人と不幸に感じる人に分かれます。幸福とは、万人において「これが幸福だ!」と定義できるものではないのです。



つまり、幸福とは人々の心の在り方によって、形を変化させるものなのです。ここに気づけば、闇雲に自身と他人を見比べて一喜一憂することもありません。自身が幸福だと思えば、それで幸福なのです。



更に、金銭の多寡や所有するモノの内容や質で決まるものでもありません。しかし、経済学はそれらを尺度に幸福を追求します。



日々テレビコマーシャルでは次々と新商品を発売し、今まであったものの価値観はどこへやら。今までのモノは何だったのかと思える程、あっという間に旧商品を陳腐化させます。一方経済学は、未来を過去の経験と現在置かれている状況から判断し予測します。でも、一体どうやってそれが分かるのでしょうか。明日、経済予想を行っている学者自身の命があるのかさえ分かりもしないのに滑稽ですね。



確かに便利な世の中になりましたが、万人が幸福になっていません。これは、経済学や科学が万能でない証です。



そもそも幸福とは当事者だけが体感できるものあり、幸福とは自身のみぞ知り得ることができるものなのです。幸福は誰にも定義できず、幸福がそれぞれに違う形を持っているのは当たり前のことだったのです。この2冊の本を読んで、私自身にとって「幸福とは何か?」が見えてきました。



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2015年06月09日

ツキがある人と無い人


私たちは誰もが失敗し、間違いを犯したりします。私も昨年、新しい事業において大きな選択ミスを犯してしまいました。



しかし、ここでどんなに後悔しても、投資したお金が戻ってくる訳でありません。投資したモノすべては、サンクコストとして諦めるしかないのです。ここで大切なのは、次から同じ轍を踏まないことです。重要なのは、失敗の経験から原因や間違いを正確に捉え、今後に生かせるかどうかでしょう。



悪口を書いたり言ったり、他人を責めてしまうのは簡単です。この責任を他人に転嫁し正当化する行為は、自身の身を守るための虚栄心より起因しているのではないでしょうか。他人を責める気持ちこそ、他人に全てを委ね期待する気持の表れです。



また、努力していたのに誰にも認めて貰えず悲観的になる気持ちの表現は、他人に自己評価を委ねるしかない自身の絶対軸を持たない考え方です。これでは、失敗した経験を今後に生かせないでしょう。そして、ツキも永遠に訪れません。



これに対し、ツキを引き寄せ成功できる人は「自分が未熟だから失敗した」と考え、成長の糧にしようとします。間違えや失敗に対して「次からやらなければいい」と割り切り気持ちを切り替え、次に同じ失敗をしないようにと考えます。もちろん他人を責め貶めようとしません。ここが大切だと思います。



つまり、起きてしまった現実をどう受け止めるかという自身の心の問題であり、これが上手に処理できれば、どんなことが起こっても腹を立てず上機嫌でいられます。



世の中には、自身の思い通りにならないことは山ほどあります。それにいちいち腹を立て機嫌を損ねていたら、常に誰かに怒りをぶつけている毎日になるでしょう。そんな人を見て周りはどう思うでしょうか。少なくとも「器が大きい人だな」と思わないはずです。



度々悪口や誹謗中傷を聞かされていると、反対に気が滅入いるのではないでしょぅか。そして、それがあまりにも頻繁に続くと、人は距離を置き離れていこうとします。負の影響は付き合う人から受けます。ツキのない人は負の影響を持つ人々の作用を受け、更にツキがなくなります。ネガティヴな言葉を発している本人は、それに気付いていないのです。



ツキのある人はどうでしょう。ツキのある前向きな人々は、負の影響を受けツキを失うのを恐れるため、距離を置こうとします。負の影響は自身にとって好ましくないからです。そうしてネガティヴな人々と距離を置いた結果、ツキのある人はどんどん幸福になってゆきます。



このあたりのことについては、あの斎藤一人さんの著書でもご紹介されていますね。



今は、過去において自分自身で決定してきた結果です。他人に首根っこを掴まれて、半ば強制的に「ああしろ、こうしろ」と、言われ行動させられた訳でないはずです。最後は自分自身で決定してきたのに、その結果責任の全てを他人に押し付ける人は、他人への依存心が高過ぎるのでしょうか。



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