2016年06月10日

私が女性専用サロン(petit Bonheur)を作った理由

小社を創業して10年目に入りましたが、創業時は信用面と金銭面で苦労しました。不動産一つ借りるにも、資金面は勿論ですが、信用は全く無く、借りるのにも一苦労します。名も知れない会社ですから、信用が無いのは当たり前です。それは仕方が無いとあきらめ、最初は自宅の一室からスタートしました。資金面の問題もありましたから、小さく始めたのです(今でも小さいですが。)


最後の頼りは、コツコツと蓄えた176万円だけです。無論、資本金、会社登記資金、運転資金を全てこれで賄う訳です。今考えると、当時の私は度胸があったのでしょう。失敗することなど、眼中になかったから良かったのかも知れません。


独立開業は、資金面で苦労します。無責任なコンサルタント簡単に独立開業を勧めますが、そう簡単なものではありません。「営業→売上→支払→利益」と、ここで書いてしまえば簡単ですが、皆これに苦労するのです。


長くなるのでこれ以上書きませんが、資金面の苦労を経験しているからこそ、自分で箱モノを作りたかったのです。


ここで「開業したいけど資金面で不安がある」「毎日営業ができない」「教室を持っているが、自宅でするのに抵抗がある」「技術はあるが宣伝活動が苦手」「開業の感触を掴みたい」など、前向きな人生を送りたいと願う、手に職を持つ女性たちを応援するのです。


何故女性なのか?それは、区別したからです。要するに「あるものと他のものとの違いを認め、用途・用法に従い物事を分け、女性でなければできない、女性ならではの違いがあるのだと認識したからです。」働く女性たちが持つスキルは、素晴らしいものがあります。私の周りにいらっしゃる、ご活躍中の女性達を目の当たりにすると、正直そう思います。尊敬に値します。


差別は、ある基準に基づいて、差をつけて区別することです。偏見や先入観をもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすることです。差別には、その人が持つ価値観が加えられます。しかし、区別だと思っていた発言が「差別」だと相手に不快感を与えてしまう場合もあります。難しい判断になりますが、要するに、個々が持つ価値観で上下関係を分けるのではなく、対等関係で分けることが大切なのです。


男尊女卑のことを書きましたが、まだまだ世の中は決して男女平等と言えません。男性政治家の女性政治家に対する乱暴な発言があったように、今でも心底差別する気持が根付いています。常日頃から、人を差別する気持ちがなければ、あの様な乱暴な発言はできませんよね。


最後に。


サロンをお使いいただく効果として、


@出店しながら近隣の需要を知ることができ、出店前に事業予測ができる。
A個別の課金制度により、開業時に必要な初期投資費用負担のリスクを軽減できる。 
B多目的に使えるため、コミュニティの場となり、広いお客様層にアプローチできる。


などが考えられます。


たまには宣伝もいいかなと。まだまだ空きはございます。利用条件はございますが、ご希望の方はお気軽にご相くださいませ。


posted by ヨッシー at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2016年03月16日

人々の繋がりがあってこそ人は生きられる

どんなにいい商品を作っても、どんなに素晴らしいサービスが提供できたとしても、それを受け入れてくださる人々がいなければ成り立ちません。



確かにいい商品を発明し、素晴らしいサービスを提供した人は賞賛に値します。しかし、人々の需要がなければ、所詮、自己満足の世界に過ぎません。



それを購入する人々がいてこそです。人は決して、一人では生きては行けませんからね。



ある方が、「生活の糧を得るために仕事をするのだ」と言っていましたが、果たしてそうでしょうか。私は少し違うなと思います。



生活の糧を得るのは勿論必要でしょう。しかし、その前に商品やサービスを購入した後、購入した人々に何をもたらせるのかと言う視点が欠けているように思えます。



その様な方は、商品が壁になり、人をお金儲けの道具として扱っているのではないでしょうか。



自分だけでなく、相手にも何らかのメリットがないと事業は長続きしません。このことは、日々忘れずにいたいものです。


posted by ヨッシー at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年12月01日

引き寄せの法則は存在するの!?


引き寄せの法則は存在するのだろうか!?



「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」より引用


宇宙のすべて(『見えない世界』と『物質世界』のすべて)に作用する「宇宙の法則」がある。この絶対的な「法則」を理解しないでいるのは、ルールがわからないゲームに参加しているようなもので、どうしていまのような目にあうのかわからないために、たいていはゲームから下りたくなるだろうとエイブラハムは言っている。


「宇宙の法則」は3つある。第一は「引き寄せの法則」、第二は「意図的な創造の方法論」、第三は「許容し可能にする術」である。


第一の「引き寄せの法則」とは、「それ自身に似たものを引き寄せる」ということ。あなたの「思考」や「感情」にはつねに「引き寄せの法則」が働いて磁石のように似たものが引き寄せられ、実際の「経験」となっている。朝、気分よく目覚めるとその日は一日楽しく、嫌な気分でいるとその日はいろいろな面でろくなことがない。


何か楽しいことを考えると法則によって同じように楽しい思考が沸き起こり、不快なことを考えると次々と不快な考えがふくらんでしまう。それが、「引き寄せの法則」である。あなた自身がそれらのすべてを引き寄せているのであり、例外はいっさいない。自分が考えていることと、実際に経験することの対応関係をみてみれば、身の回りでこの法則が働いていることは、すぐに理解できるだろう。


重要であるのは、あなたが望むか望まないかにかかわらず、考えていることが実現するという点である。関心を向け続ければ、望むと望まざるとにかかわらず、それは経験として現れる。「こんな経験はしたくない」と思ったとしても、その経験は確実に引き寄せられてくる。


あなたが欲しいものに焦点を定めていればそれは引き寄せられてくるが、欠落に注目していれば、遠ざけられる。意図的な創造を促すための練習をしてみよう。


@紙を用意して、一番上に自分が欲しいものを書く。

Aその下に「欲しい理由」と記入し、思いつくことをすべて書き込む。(あなたの欲求が強化される)

B次に紙を裏返して、「欲しいものが手に入ると信じる理由」を書き込む。(欲しいものが手に入るという信念が強化される)Cあとはそれを欲求実現まで期待し続ければ希望は叶う。



文章では「引き寄せの法則」とあります。「何か楽しいことを考えると法則によって同じように楽しい思考が沸き起こり、不快なことを考えると次々と不快な考えがふくらんでしまう。それが「引き寄せの法則」である。」と書かれています。


私にとってこの文章は、疑問に思うことが多すぎます。命題を「法則」と呼んでしまうと、人というのは、ついついその命題の妥当性を絶対視し過信しすぎる傾向があるため、深く信じ込まない方がいいです。そもそも考えただけで願いがかなう訳も無く、これは自分の条件に合う物を取捨選択しているだけに過ぎないのです。


例えば、ポルシェに乗りたいと考えていると、街で走る車がポルシェばかり目にとまり、自宅が欲しいと思えば、住宅関係のことが気になる。これは、自分が必要とする物に考えを集中しているからに他なりません。脳は一度に1つの物事しか処理できず、自身の思い込みの枠組みに合う事例や出来事を発見し強調する性質があります。


人は見たい物しか見えず、目に映っている物でも同時に2つ以上認識できません。騙し絵がまさしくそうですね。

「老婆と娘」

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自分の望むべきものを決めた時、普段気にもとめなかった物事がこれで見えてくるようになり、意識がそこ集中するので「引き寄せた」と誤解しているだけです。そもそも。紙に書いて考えただけで願望が実現することはありません。



実現したい物事に対し意識を集中し、自分にとって必要な物と不必要な物に分ける作業は確かに行わなければなりませんが、一番重要である「具体的に行動する」これが欠けています。


以前私も「やりたくない事」と「やりたい事」を紙に書きました。そしてそれを毎日読み強く願いました。しかし、一向に願いはかないませんでした(願う力が弱かったのかも知れません)。実際やってみましたが、書くだけで願いが叶うことなど期待できません。


例えば、美味しい物を食べたいと望めば、そのお店に行くでしょう。海外旅行に行きたいと望めば、先ず何処へ行くか決めるでしょう。私は紙に書いた後、会社を辞め独立する行動を起こしました。様々な苦労は伴いますが、結果としてそれが功を奏した訳です。


願望を洗い出したら次は行動する。いつも自分が身近で行っていることを考えれば、期待し続けるだけで望みが叶えられことなどあり得ないのが分かります。そして、願望を実現するには、多くの時間と労力が必要であり、何事も楽に短期間で実現しないのです。



trial and error 」を繰り返すことで、自分の望むべき理想に近づく。要するに「自分で決める」「行動する」「随時修正する」「再び行動する」「自分を信じる」このPDCAサイクルを回すことだと思います。これなら既に事業活動における生産管理や品質管理などの管理業務で行なわれています。



もしかしてこれを「宇宙の法則」と言っているだけではないのでしょうか?そもそも宇宙の法則って何でしょう?どこの宇宙ですか?オムニバースですか?はたまたコスモスか?それとも天文学的なものなのか?宇宙の法則の定義は良く分かりませんが、行動を伴わない願望の実現などあり得ません。何を定義しているのか分からないまま、宇宙と聞いて何ら疑問を持たず、頷いてしまうのは危険です。



この類の本を読むなとは言いませんが、読んだらさっさと行動した方がましです。行動して結果が伴えば、その世界の存在に確信が持てるようになり、確信が持てるから行動できるようにもなる。さもないと思考の袋小路に入り、知識だけが豊富で勇気のない何も出来ない人になってしまいます。



posted by ヨッシー at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年11月21日

社会的援助活動は、自己欺瞞の世界なのか?己を欺きながら生きる、なんとも薄汚い自分。


困っている人を助けるのは、人として当然のことであるが、全ての人に対して平等に支援するとなると話は別になる。全ての人に援助するのは難しい。というより出来ないだろう。



例えば、社会的援助を行う方法として、募金活動や自然保護活動、難民支援や子供への生活援助など沢山ある。これらは金銭に限らず、労働力の提供も含まれるが、どれをとっても当事者は勿論、携わる人々にとっても重要な活動となる。しかし、これらの全ての活動を、平等に援助することは不可能である。



どうしても、援助する側においてどこかで本人の意思が介入してしまうため、そこで取捨選択の意思が働いてしまうからだ。更に、個々の持つ経済力や労働力は有限だという面も見過ごせない。であるから、「世界中の人々に・・・」「日本中の子供達に・・・」「恵まれない人に・・・」のスローガンは、現実的に考えと言葉だけが上滑りしており、私にはとても虚しく聞こえてしまう。



援助を必要とする人々は、普通の人であることは誰だって承知している。 皆が幸せになる権利はあるし、見捨てることは出来ないのも分かっている。問題は、援助を必要としている人々や団体全てに、まんべんなく平等に支援することなど、とうてい無理だと援助している側も分かりきっているところだ。



援助をした人の寄附や人的な活動で何人救われようと、それは全員に行き渡らない。支援には限界があるため、援助は一部の効果を発揮するが万全ではない。ましてやこれが短期間の支援となると、あっという間に終わってしまう。



これでは、問題は一向に解決できない。たとえ、それで何人かを助けられたとしても、残りの人々はどうなるのだろうか。人に人の命は選別出来ない。しかし、どこかで選別の意思が働いている、そんな自己欺瞞と偽善的予感が濃厚過ぎるのだ。



疑問だらけに思える。



一部の者を助け出して、残された人々から恨まれるなら、一部の者を助け出すための予算を、全員に均等に配ったほうがいいのか。

それとも、一部の者だけを助けて、残りは見殺しにするのか。

果たして、人の命を選別する権利が人にあるのか。

選ばれなかった人は、どうするのか。

選ばれなかった人は、次のチャンスまで待つのか。待てるのか。

どのような基準で選ばれたのかさえ分からない人に、自己責任と言えるのか。 

援助する側は、自分の生活を犠牲にしてまで人々に援助が出来るのか。

援助されたお金が、必要のない物のために消えていないのか。

いっそのこと、何もしないで無関心でいるのか。

全てを分かり切った上で、それでも援助を続けるのか。




どれも正しいとは思えず、考えれば考えるほど自分の無力さを自覚してしまい、果てしない空虚感に苛まれる。



それでも何らかの支援を行いたいと考える自分がいる。自分の良心や本心に反しているのを知りながら・・・。それを自分に対して無理に正当化している自分と知りつつ、己を欺きながら・・・。



最近、どうしたらいいのかさえ分からない。



本当の答えなど、どこにもありはしない。多くの悲しみや不幸が存在し、かくも罪深きこの世について困り果てている。



posted by ヨッシー at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年10月29日

今より収入を増やす簡単な方法


私は過去に大変お金に困った時、どうすればお金が稼げるか真剣に悩んだ。これといったスキルや資格もなく、「どうすれば収入を増やすことができるか」で頭の中がいっぱいだった。そこで私がとった方法は、「睡眠時間を削り休日に働くこと」だった。



働くといっても純然たる労働であり、生計を維持するためだけに行う労働である。その際に選んだ仕事内容は、チルド食品製造工場のラベル付けと施設警備員だった。会社に勤めながら働くため身体はつらいが、当然に収入は増える。



自分の時間を最大限労働力にあてるのだ。



タイトルを、「今より収入を増やす簡単な方法」と書いたので期待を裏切ったと思うが、これが収入を増やす一番手っ取り早い方法である。



労働力を提供する副業を会社に勤めながら行う訳だ。勿論、副業禁止の会社もあるだろうが、普通に暮らしていて収入が足りないなら、会社としても大いに認めるべきだと思う。むしろ、会社経営者として十分な賃金が払えないなら、それ自体を問題にすべきだろう。



要するに、睡眠時間を削り休日にも働く行為は、自分の持つ時間の切り売りをするということだ。労働力を提供するしかできなかった私は、こうする他手段がなかった。



一山あててやろうと意気揚々と取り組んだビジネスも上手くいかず、水辺に浮かぶ泡沫の如く消え去った。消臭剤に始まり、化粧品、浄水器、インターネットテレビ、ネットワークビジネスなど、ことごとく失敗した。この時に投資したなけなしのお金は全て無駄に終わった。やがて仕事の失敗が生活まで脅かす様になり、挙句の果てには借金まで抱える始末。



借金返済のため、時間の切り売りをする労働環境から脱出することが余計に出来なくなってしまった。睡眠時間は少なく身体は常に疲れている。休日も趣味やレジャーを楽しむ時間もなくなり、精神的ストレスも溜まる。債務整理を行ったためクレジットカードすら持てず、社会的は信用もゼロ。おまけに借金があるのに転職し、家族にも多大な迷惑をかけた大馬鹿野郎である。



それでも時間の切り売りである副業で収入を得ながら、5年間で借金を返済した。



親からも、「身から出た錆だ」と言われたのはごもっともで、反省すべき点は大いにある。楽してお金儲けはできないのを実体験の上で十分に学んだ。先ず手始めに、今以上に収入を得たい、起業する際に必要な資金が欲しいと思うなら、時間の切り売りをしてお金を稼ぐのが近道だ。



posted by ヨッシー at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年10月06日

やらずに後悔するより実行して後悔しよう


幼い頃の私は、あまり社交的でなかった。人前に出るのは恥ずかしくて、弱虫で泣き虫でした。学校の勉強も嫌いで、全くできなかった。高校に入るとテストの点数も欠点ギリギリで、時には追試を受けることもあった。



やがて卒業を迎える時期となり、友人たちは進学や就職相談を先生から受けていたが、私は受けなかった。大学進学も視野になかった。学業の成績が悪かったのもあるが、経済的余裕のない家庭において親に学費を出してもらってまで、三流大学で勉強という名の大義名分を得て、そこで無駄な時間を過ごしても、その時間が何に役立つのか分からなかった。



就職も先生に勧められた会社で真面目に勤めて働くことが、何故必要なのか、どうしてそんなに魅力的なのか理解できなかった。今思えば、所詮、先生もサラリーマンである。会社勤めを勧めるのは、自分達は被雇用者の立場でしか考えることができなかったからた。



勿論、私には家業があったから、会社勤めをするに思いが至らなかったのだろうが、幼少の頃から父親に後継者になるべく教育されてきたのも影響していたのだと思う。家業といってもちっぽけなもので、吹けば飛ぶような事業である。



中学性の頃から、夏休みになるとなんの疑いもなく家業を手伝い、アルバイト料を貰っていた。汗水流して得たお金は大変貴重で、このお金で好きな物が変えるのだと、興奮していた記憶がある。その頃から、自分でお金を稼ぐ行為の素晴らしさを経験した。




しかし、高校を卒業してから約10年間家業に従事していたが、突如として辞めたくなった。原因は、天候に左右される業務のため、収入が不安定で会社勤めの人が羨ましく見えたからだ。毎日決まった場所へ行き決められた仕事をして、毎月決まった給料が振り込まれることが、私にとって大変魅力的に思えた。



そんな浅墓な考えと、会社勤めの方からお誘いを受けたのもあり、家業を辞めたくて仕方なくなる。こうなると、とても不安定な家業に将来性は見えず、色褪せたものに思えてしまう。そこで思い切って父親に辞めると切り出すが、当然父親は反対する。



このままでは埒が明かず、辞めたくてしかたないからここは実力行使で、半ば家出同然の形で喧嘩して家を飛び出した。どうやら父親もそこまで私がやるとは思っていなかったようで、しぶしぶではあるが、やっと同意を得ることができた。




だが、そうまでして新しく勤めた会社も、結局10年間で辞めてしまった。他の会社の業務が魅力的に思えたのもあるが、女性問題で大失態をやらかしたのが原因で、会社にいるのが苦痛になったのもある。



それからが堕落した転職人生が始まる。何処へ行っても長続きせず、合計9回ほど転職を繰り返した。他人から「長続きしない人だ」と揶揄され、信用もなくなった。今となっては、その頃経験が生かされている訳だが、当時は何ら目標を持たず流されるままに生きていた自分がいた。



本当に「ダメなやつ」だった。



そんな私が当時考えていたことは、「もっと、いい仕事はないのか」「いい仕事さえあれば楽になれる」ということばかりだった。


ところで、「いい仕事」とは何なのだろうか。給料が高額で休日は多く、業務内容は楽で人間関係に悩むことのない、カッコいい仕事を言うのだろうか。確かに人それぞれにいろいろな価値基準はある。しかし、そんなモノはなく幻想でしかない。要するにその言葉の中には、楽をして儲けたい気持ちが表れているのだ。


そしてよく耳にするのが、「いい仕事にさえ付ければ」「お金さえあれば」「自分は変わりたい」「いつもやりたいと思っているのだ」というセリフ。やりたいなら、今やればいいのに、自分勝手な理由を付けて先送りし一向にやろうとしない。まさしく、転職を繰り返していたあの頃の私がそうだった。




そして数少ない機会を失い、歳をとりやがて老いて死を迎える。人は現在(いま)を生きることしかできない。現在(いま)を無駄にして、死ぬ間際にどんなに後悔しても遅いのである。



  
       

       

            *まとめチャンネルより


posted by ヨッシー at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年10月02日

当たり前だけど考える


哲学者は当たり前だと思うことに深く悩み問い続ける。この本の著者である中島義道氏も同様で、「人は死ぬ」という当たり前のことを問い続け、「どうせ死んでしまう」ことを直視している。


本書は、「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのでしょうか」のタイトルとおり、自殺についての話から始まる。



「なぜ自殺してはいけないのか?」。その答えは唖然とするほどない。



人が自殺しない理由として二つの理由があり、一つ目は、親兄弟、配偶者、友人、知人が悲しむからであり、二つ目は、自分が死ぬ時に苦痛を伴うかもしれないとう恐怖があるからだ。


穿った見方をすれば、この二つの問題が解決されさえすれば、人は自殺ができることになる。


今を生きている人々に対し、「あなたは、なぜ自殺しないで今日も生きているのか?」の問いかけに、まともに答えられる人がいるのだろうか。



そんなことはない、「生きていれば楽しいこともある」「努力すれば報われる」「死んでどうする」などと、まともでない答えで説得されても、全ては虚しく嘘くさく聞こえてくる。人生は理不尽であり、いいことばかりでなく、多くの不幸も待ち受けている。それは原理的にいかなる解決方法も持ち得ないのだ。



美辞麗句を並べ立てた講義や、向上心の高い人々による言葉のような誤魔化しは全く通用しない。どんな不幸にあえぎながら生き抜いても、その後の人生に待ち受けているのは「死」だけだ。ならば、なぜ今死んで悪いのだろうか。自殺を考えている人がいたら、どうして死ぬなと言えるのだろうか。果たして、この本当の問いに向き合い正しい答えを持ち合せているのだろうか。



今生きている我々は、明日死ぬかもしれない。これは、死刑判決を受けた死刑囚となんら変わらないと書かれている。「著者は、死刑囚は確実に死ぬことが決まっているが、我々はそうではない」理論もまやかしだと断言している。



死刑囚は数年のうちに殺される(なかなか殺されない人も中にはいるが)。我々も数十年のうちに殺される。死を迎える形は、病気、怪我、不慮の事故、あるいは寿命をまっとうし息絶えるなど様々あり、違いは処刑までの不定期の長さだけであると。



誰でも真顔でこう問われたら、言葉を失ってしまうだろう。



著者の本を何冊か読んだが、読み続けると中毒になる可能性がある。世間に毒を吐きちらすとも取られかねない内容に、拒絶反応を示す人も少なくないだろう。だが、内容当たり前のことだからと深く考えず、思考停止してしまうことに危険を感じなければならない。



当たり前だからこそ、そこで考える勇気が必要となる。人は「死」について考えないようにしているだけで、真に向き合っていない。必ずや来る「死」に関して向き合い、人生の全てが無価値、偽り、仮象だと前向きに捉え、積極的に生きる態度(積極的・能動的ニヒリズム)を教えてくれる一冊だった。



蛇足だが、トーベ・ヤンソンの小説の登場人物であるジャコウネズミは、いつもセリフが「無駄じゃ無駄じゃ」だった。彼がいつも読んでいる本は『すべてがむだである事について』であった。



今思えば、彼は消極的に生きる消極的・受動的ニヒリズムの態度だったようだ。彼のように生きるのも一つの生き方であるが、私には真似できない。



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2015年09月29日

人生に刺激は必要だ


私は、現状を維持するのがどうも苦手なようです。


人生波風を立てず、平凡な状態で過ごすのも一つの生き方でしょうが、私にはどうも退屈でいけません。


熱しやすく冷めやすい、新しい物好きの性格が災いし、時には失敗することもあり、過去においても幾度か痛い目に遭っております。


それでも懲りずに何か新しいことをやろうとするのは、恐らく私の脳内快感物質が不足しているからでしょう。それと同時に、このままではいけないという自分がいるからかもしれません。


どうせ同じ人生なら、思いっきり刺激的に生きてみるのもいいでしょう。今までの人生を思い起こせば、沢山の失敗がありました。しかし、その失敗があったからこそ、人生に深みが出るのだと思っています。


現状維持もいいですが、いずれ死を迎える時に後悔だけはしたくないのです。


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性懲りもなく、こんなものを建てています。


未完成のためぼかしを入れてあります。完成した暁にはご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。




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2015年09月03日

善と偽善の違い


(考える勇気をもて)

*「自分で考える勇気より」引用

カントが生きた18世紀は、啓蒙運動の世紀だった。啓蒙運動とは、日本語で「蒙を啓く」と表現されているとおり、物事を見極めること無く宗教や習俗に従うままの人間のあり方(蒙)に対して、光をもたらすことです。そして、ものごとを明るみで見定めることによって、人間を迷走から解き放ち、人間社会を理の通ったものにしようとする思想運動です。


彼は1784年に書いた論文「啓蒙とはなにか」で、啓蒙運動のモットーは「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」だと記しています。「悟性」とうい見慣れない用語が出てきますが、これは人間ひとり一人が持っている「理解する能力」を意味します。私たちが何かを理解するには「考える」ことが必要ですから、このモットーはひろく「自分で考える勇気をもて」と言い変えることができるでしょう。


カントがみなさんに「自分で考える勇気をもて」と呼びかけたとしましょう。みなさんはこの言葉をどう受け止めるでしょうか。はいはい、自分で考えればいいのでしょ、かんたんなことです。こんな簡単なことに「勇気」とか、大げさじゃないですか。そう思うでしょうか。


(ベーコンのイドラ論)

まず、自分で考えるのは、簡単なことでしょうか。この問題を考えるには、カントが生まれるまえより、およそ100年前に亡くなった哲学者、フランシス・ベーコンの有名なイドラ論を参照することが有効でしょう。彼は、学問や技術に大きな革新をもたらそうと企てましたが、そうした革新の出発点を確保するために、私たちの精神が抱いてしまっている先入観(イドラ)を拭い去ることが必要だと考えました。


精神が先入観でゆがんでしまっているとき、わたしたちはものごとを正しく理解できないからです。ベーコンは四種類のイドラがあることを指摘します。


第一に「種族のイドラ」で、これは人間のくせのようなものです。実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、衝撃的なできごとや自分の思いに引きずられたりして、人間は多くのものごとを見落としてしまいがちです。


第二に「洞窟のイドラ」で、これは個人がそれぞれもっている傾向に由来するものです。個人がなにかに関心をもち、なにを愛好するかは、ひとそれぞれですが、そうした傾向によって私たちの視野が狭められてしまいます。


第三に「市場のイドラ」で、これは人間たちが交わす言葉が適切に定義されていないことに由来するものです。ベーコンは、これをもっともやっかいなものだとしています。私たち人間が言葉なしには考えられないことを踏まえるなら、不適正な言葉の使用が私たちの思考に生む弊害の大きさが予想できるでしょう。


第四に「劇場のイドラ」で、これは「学説のイドラ」とも言いかえられます。劇場で上演される演劇にまとまりがあるように、哲学上の学説を上手にまとめてしまうと、ときに人を欺く議論が生み出されてしまいます。


ベーコンの指摘するイドラは、私たちの知性に影響を与え、それを支配しています。それを拭い去らなければ、新しい学問は出発できません。しかし、私たちがなにかを考え始めるとき、人間や自分のくせを理解して、それをあらかじめ矯正することなどできるでしょうか。新たに言葉の定義から問い直すことなどできるでしょうか。


世間で有力な学説に寄りかかることなく深く考えられるでしょうか。まとめて言えば、先入観なしで私たちは考えられるのでしょうか。いや、それがいくらかもできなければ、〈自分で〉考えることはできません。だからこそ、自分で考えることは容易ではないのです。*引用終り


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(自分で考える難しさ)

自分で考えるのは勇気が必要であり容易ではないと言っています。世間において、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」など、人々は考えることをせず、何ら疑うこともせず言われるがまま従い、安易に権力や権威に跪きます。自分で考えようともせず没個性的になり、他人に従うことで楽な生き方をしてしまう。


人は歳を重ね、やがて大人になり外見は立派に見える。しかし、世論に惑わされ自分の考えをもたない人々が、果たして立派な大人と言えるのだろうか。


認識論において、「人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという」これが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、「人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた」こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。


平たく言えば、発想法を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることをいう。発想法を変えると、物事の見方が180度変わってしまうような場合さえあるのだ。


人生における経験は仮説の繰り返しだ。仮説を繰り返すことにより、真実に近づくと思えるかもしれないが、目に映るもの全てが真実かどうかは分からない。私たちの考えは、先のベーコンによる「四つのイドラ論」に支配されているからだ。


時間、空間、因果関係などのように、経験に先立ついくつかの前提が必ず備わっているというものだ。こうした前提がなければ何物をも知りえない。しかし、それがあるために、あるがままの世界を認識することはない。私達は知り得る世界は〈先入観〉という眼鏡を通して見たものにすぎず、ただ、私たちにとってのモノとして世界を知るのみだ。


カントは「物自体」と「我々にとっての物」を区別し、目に映る物が対象物の真の姿に似ている保証など微塵もないという。カントは自分で考えることができるのに、人ひとりにつきまとう先入観による考えの未熟さを指摘している。


四つのイドラ全と向き合い、そこから自分を開放し考えるのだという。世間には多くの情報がある。まるで洪水のように押し寄せてくる。その世間の常識や一般論、インターネットやメディアから流される多くの情報、無責任な人々からの伝聞などを用いれば、自分の考えを持たない人にとって楽に過ごせる。


だが、それは「知識」といわれているものであり、知識は考えでない。知識は考えるための要素に過ぎず、考える上で大切なのは、自分を四つのイドラから解放し、先入観という眼鏡をかけず、経験というフィルターを通して考えないことである。さもないと、それらに支配され、真実がどこにあるのかさえ分からなくなってしまう。



(善と悪の判断)

「善く生きる」といわれるのは、大変に立派で行為である。困っている人や友人を助けるはよいことかもしれない。人を欺き利己主義に陥るのは悪になるのかもしれない。人が日々生きる上において、善悪の判断に関っている部分は大きい。


ここで疑問となるのが、「善を行え、悪を行うな」という、我々が小さい頃から教えられたこの言葉だ。私たちは、「道徳的な善悪に普遍性があるのだろうか」。あるいは、「道徳的な善が普遍的なら、どうして悪いことをする人がいるのだろうか」という問いに巻き込まれる。


道徳とは、人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範であり、個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。


しかし、どうして嘘をついてはいけないのか、悪いことをしてはなぜいけないのか。人は悪いモノは悪いというが、それは何ら答えになっていない。この問いに、明確に答えられる人は少ないと思う。


ここでカントは、一番善いことを「最上善」と呼んだ。これは、いつでもそれとして望ましく、他の何ごとかのかのために望ましいものでないこそが究極の「善い」ことだとしている。それは誠実であり、嘘をつかないこと、困っている人を助けることであり、総じて道徳的に行為することである。


困っている人を助けるのは、それ自体が「善い」のであり、助けられた人から感謝され、自己満足を満たすべくものでもない。道徳的に行為するのが「善い」のである。


そしてこの本の中で、「善いこと」と「偽善」について言及している。例えば、ボランティア活動それ自体の見た目は「善」と捉えられるが、それは本当に「善」なのだろうか。ボランティアは、各自の意思に基づき自己犠牲を伴いながら、他人の幸福実現のための行いである。しかし、ここで、「善」と「偽善」の分かれ目となるのが、これを行うことで「有名になれる」「就職活動に有利になる」「会社や個人のコマーシャルになる」など、どのような意思に基づいて行為が行われるかである。


人の行動や結果ではなく、その人がなぜその行為を行うのか、その行為自体を引き起こした本人の意思のあり方が問題になる。無制限に「善い」ものがあるとしたら、それは「善い意思」だけであり、「善い意思」は悪い意思に変えるものがなにもない。それは「善意」ではなく、それ自体が「善い」ものとして扱われるから悪いものに変わらない。


「何もしない、やらないより、やる方がいい」と活動自体を肯定する人がいるが、それは「善い」意思があればこそであって、そこに「善い」意思がなければ、「善」ではないということになる。これでやっと偽善の意味が理解できた。


企業個人を問わず、多くの社会貢献やボランティア活動があるが、活動を行う人は意思を自分自身に問うてもらいたい。そこにもし、会社や個人の利益や広報活動並びに自己実現の意思があるとするなら、それは「善い」ことではない。私だってそうだ。会社で環境貢献や寄附活動を行っているが、よく考えるとこれらも「善い」ことでなく、世間体を取り繕い、自己の欲望の実現の手段に過ぎなかったようだ。


世間で行われている貧困者の救済、アマゾンの熱帯雨林の保護、街のゴミ拾いなど、様々なボランティア活動があるが、全てにおいて意思のあり方が問われるのだ。もし仮に、それらが偽善的活動だとすれば甚だ迷惑な話で、善意の押し売りとなる。人が行う活動が、経験と先入観によって左右され、最後にはその人が持つ欲求を満たす道具に成り下がってしまうからだ。


始末に悪いのは、それは活動している本人にしか分からないことである。だが、「善い」「偽善」は自問自答し確認することができる。唯一欺けない存在は、自分自身だからである。ボランティア活動を行うなら、世間から認められたい、他人によく思われたいなどと考えていないか、それ自体が「善い」ものであるのか、自分の意思に問いかけてから実施した方がよさそうである。



蛇足ですが、先日行われた安全保障関連法案に反対する市民団体が行ったデモの参加人数は、12万人と報道されています。でも、ここで考える人は、本当だろうかと疑います。報道にも書いてありますが、「主催者側が12万人参加したと発表」とあります。


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一体、真実はどこにあるのでしょうか。




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2015年09月01日

寄附金で貧困問題は解決するのか?


(日本国内の現状)
現代の日本では、食品が豊富にある。しかし、その食品も様々な事情により、全ての国民に有効に届けられているのではないようだ。規格外、欠品対策のための余剰生産、消費期限の問題、材料ロスなど、多くの問題を孕んでいる。


一番排出量が多いのが食品製造業で、農林水産省から発表されている資料で知ることが出来る。そこで大量に廃棄される食品に対して、食品リサイクル法を施行し、食品廃棄物についてリサイクル目標が業種ごとに定め、食品資源の有効利用を促進させるべく制度が構築されている。


 食品廃棄物の発生量等について

 *農林水産省ウェブサイトより


 食品廃棄物等の発生量及び再生利用の内訳

 *農林水産省ウェブサイトより


業種毎にリサイクル目標が設定され、この中で飼料化(動物のえさ)の利用が一番多い様だが、食品の持つカロリーを有効利用するためには、今のところこの方法が一番有効なようだ。


日本国内において、食品が満ち溢れているように見えるが、しかし、その影には、生活苦のため、十分な食品を手に入れることが出来ない、人々も存在している。そもそも食品は、人々の生存するために製造されるものだ。食品の本来の姿として、リサイクルや有効利用する以前に、人々の口に届けらなければならない。これは正論だろう。


そこで一つの方法として「フードバンク」活動がある。この活動は、低所得者やホームレスのシェルター、児童福祉施設、母子緊急生活支援施設などに対し、配布する仕組みを行う団体である。日本に数十社あり、こちらから団体を確認することが出来る。


 各フードバンクの紹介

 *農林水産省ウェブサイトより


日本において生活困窮者に対するセーフティネットが充実しているとは言い難く、また寄附する行為自体も欧米諸国を比べ少ないと聞く。そこで貧困者対策の一つの方法として、フードバンクが推進されている。フードバンクとは、売り物にならない食品を食品業者から譲り受け、必要とする施設に無料で配るという活動を行うことである。


もちろん、食品の安全性は担保せねばならず、消費・賞味期限内のまだ食べられる食品しか受け取らず、期限が切れているもの、残りの期間が極端に短いものは提供されない。素晴らしい取り組みのようであるが、私なりに考えてみたい。



(活動の問題点として)
フードバンクの仕組みをより強固に確立したものとするためには、以下の要素をどうクリアするかにかかっている。


■食品を提供する企業

フードバンク活動の発展のためには、活動に関する認知度と品質管理や安定供給を始め、食品関連企業の協力・支援が不可欠である。活動の趣旨を理解してもらう企業への働き掛けや、品質保持の方法、転売の防止、提供数量など、企業側の意向に配慮した活動を展開することが重要である。


品質保持や転売されないこと等が、支援の条件として多く指摘されている。事故が発生した時や輸送コストをどちらが負担するのか、また、安定供給をどの様にして行うのかが課題となっている。相互の信頼関係において実施されている場合もあると聞くが、責任の所在を明らかにしておかないと、企業側にリスクが発生することになる。


安定した提供を行っていくためには、責任の所在や費用の分担について明確化した文書により合意できるが、一度事故は発生すると、団体のみならず企業イメージも失墜する恐れがあり、その後の活動が困難になりかねない。その対策として、賠償金の支払制度を設けるが、損害保険に加入すると費用負担が生ずることになる。


配布した商品で事故が発生し、企業イメージを損ねる結果にならないよう、責任の明確化と企業に対し、どのようにしてインセンティブを与えられるか、そこが課題となる。企業にとって食品ロスが全くないのは理想であるが、製造工程やサプライヤーとバイヤーの関係や市場の仕組みにおいて、ロスをゼロにすることは困難である。


勿論、企業としては、消費者に正規品を正規の値段で購入して貰うのが一番いいはずだ。いくら無償とは言え、非正規品(廃棄製品)が配布されれば、正規品が購入されなくなる。そこで企業は市場のバランスを保つため、あえて食品を廃棄している場合もある。企業側の諸事情を考えると、参加に後ろ向きなのも頷ける。



■活動組織の透明性と公平性

提供された食品を適切に分配する「フードバンク」だが、運営主体を立ち上げようと考えた場合には、@組織理念・目的の設定と共有、A準備委員会の設置、B既存フードバンク運営主体からのノウハウ取得を行うことが重要である。


同時にフードバンク活動を始めるため基本的には、事務所、食品を保管する場所、食品を運搬する車両等が必要となり、不定期に発生し数量が安定しない品目が多岐に渡る場合、食品を保管する必要性が出てくる。それらの設備には、当然維持管理コストもかかる。また、品質管理は重要課題で、支援を受けた食品によって事故が発生した場合、支援団体のみならず提供者にも被害が及ぶ可能性は否めない。


更に多岐に渡る品目を、いつ、何を、どれだけ、誰に配るのかに配慮しなければならない。食品の提供先に関する明確な基準や優先順位を儲け、その基準を公表し公平性を担保しなければならず、これが適正に実施出来ないと、より人件費や時間のかからないところが優先され、供給のミスマッチが起こるかもしれない。受益者のニーズを把握し、全員が納得出来る基準を示す必要性がある。



■受益者とのバランス

最後に、需給バランスの問題がある。受益者が供給者より支援を受け食品を受取る際、消費しきれない量や、よく知らない所で製造された食品、受益者の嗜好、食品アレルギーの有無、栄養のバランスなどの問題である。


受益者側と供給者側において、同じものを大量に貰っても、全てが一度に消費出来るわけでなく、栄養のバランスも考えなければならない。満腹感を得るためにだけ同じ栄養素や、カロリーの高いものばかり食べていては、受給者の健康に影響する。より文化的で人間的な生活を営むためには、やはり食品の持つ栄養バランスについても考慮したい。


あってはならないことであるが、受給者のニーズに合わない結果、配布された食品が廃棄されるとなると、食品ロスをなくすための活動の意味を無さなくなる。受益者側のニーズについては、出来る限り正確に把握し、お互いの認識の相違により新たな食品ロスが発生しないよう配慮する必要がある。


人の欲望の中で食欲は、人それ自体の生存に直結する問題である。だからこそ食に対する欲求は強く表れる。しかし、人は生物学的には動物だが、思考と理性を持っているので動物と違う。だから人は、食欲を満たすためだけに食べ物を食すのではない。


日本国憲法において、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。必要最低限度の生活とある中で、需給者が「適切な栄養を得ているか」「自尊心を保つことができるか」の問題点を指摘したい。生存するためのだけの支援活動に留まらず、健康で文化的な生活を営めるように支援されたい。量の確保も大切だが、同時に質も大切である。人は美味しい物を少しだけいただくことにより、幸福感を味わえるのだと思うが如何だろうか。



(活動の盲点)
何故この様なことを書くのかと言うと、実は最近私はフードバンクを立ち上げようかと考えたのだ。しかし、現状ではこれらの問題点を解決できないので見送ることにした。ある団体の案内では、食費の節約、廃棄コスト・環境負荷の低減、食品ロスの削減などが解決できるとある。しかし、ここでは書けないが、私なりに考えると多くの疑問符がついた。


運営自体も第三者の資金援助が必要となり、独立した活動であるが人々の寄付に頼る部分が多く、自己完結型にならない様だ。確かにフードバンクにより、救われている人々は確かに一定数いるだろう。活動そのものを否定している訳でもない。救うことが出来る命を救えるのなら、それに越したことはない。


もしや、日本の社会保障システムに欠陥があるのかもしれない。日本では社会保険料負担は相対的に低く、所得水準や経済状況から日本の寄附水準が低い理由を見出すことはできないにも関らず、寄附文化が根付いていない背景がある。


 諸外国における寄附の状況と税制の役割

 *東京都主税局ウェブサイトより


こちらのデータが示す様に、日本は社会保険料負担も寄附金額水準も低い。社会システムや寄附文化の違いがある。寄附文化を根付かせ、貧困者対策として活用すればいいと思われる。だが、そう言っても寄附が万全の対策では無い様だ。


マルサスが「人口論」の中で書いている。


金持ちから貧困者へ寄付→貧困者の稼ぎが増える→貧困者の購買力が増す→食料品の絶対量は簡単に増えていない→金持ちも食する→食を得るため金持ちが買い漁る→食料品価格が高騰する→貧困層が買い負ける→結局貧困のまま。


それぞれに食糧の購買力が上がれば、買い手の間で競争が起こる。その結果、食料品の価格が高騰するが、貨幣を多く持ち購買力のある金持ちは購入することが出来る。しかし、貧困者は貨幣を多く持たないため、結局犠牲となってしまう。


寄附金を原資にして活動を行うことは、日本国内の誰かが、その活動費用を負担するのであり、必要コストが第三者に転嫁されただけとしか思えない。ボランティアの部分でカバーしている部分もあるだろうが、費用負担がゼロとはいかない。


それならばマルサスが言うように、放置された耕作地で作物を作り、それを貧しい人に与えることや、自分の家で消費される食糧を減らし、それを貧しい人に与えられるなら社会のストックとなり、自分、家族、社会全体の全てに利益を与えられる。


個々の活動のケースでは全く感知されない程、小さな問題かもしれないが、私の考え方の違いもあり、自分自身が納得出来ないからやらないことにする。様々な問題点を解決できれば、フードバンクは素晴らしい活動になるだろう。しかし、プラットフォームばかりに着目せず、私なりに出来ることを考えたい。



posted by ヨッシー at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる