2012年08月28日

老害だ!


お叱りを受けるのを承知で、老害について書きます。

また乱文をお許しください。

医療費の総額が増えたとメディアは騒いでます。


医療費の動向調査


総医療費において70歳以上が占める比率が44.9%ですか。こりゃ大変ですね。若い世代の負担が大きくなります。

以前にも書きましたけど、薬漬けと医療と高齢者の延命治療はもう止めたほういいですね。遅かれ早かれどうせ死ぬのですから・・・。

私の身体がもし癌に侵されても、放射線治療や抗癌剤の投与は受けないつもりでいます。

例えば、原発の放射線で騒いでいるのに、癌になれば放射線治療を受ける。危険と言われる地域に足を運ばず、或いは同地域の食品も買わず、それだけ放射線を恐れている人が仮に癌になった途端、放射線治療を行う。

体に影響を及ぼす可能性があるものを治療と言う名目であれば受け入れるなんて、どこか矛盾していませんか?抗癌剤だってそうです。あんな毒物を体内に入れるなんて、とてもできない話です。

自然に任せればいいのです。

それ以前に、病気にならない体をつくる予防医学に力を入れて欲しいですね。

実は私高血圧でして、上が180mmHG、下が100〜110mmHGです。病院に行けば当然高血圧と診断され、降圧剤を処方されました。普段はこれを飲んでおりますので、数値は安定していますが、いつかは薬に頼らず、血圧を下げられないかと思っているのです。

担当医にも自分の思いを伝え、「いつか運動療法などで薬を止めたい」「国は予防医学にもっと重点を置くべきでしょう」なんてこと話したら、担当医も全く同感と仰ってました。

この日は話ばかりになり、肝心の診察はなかったです(笑)

なるべく自分の中で処理し、出来るだけ世間に迷惑を掛けない。こんな考えを皆が持ってたとすれば、ここまで医療費の総額も多くならないでしょうに。高性能の検査機器と薬で病を対峙する、アロパシー医学はもう限界だと思います。


高齢化により経済活動をしていない人々も増えてきています。

毎日趣味に講じる元気なお年寄りがね。

人間社会の中で、高齢になり能力も衰え、年齢と言う尺度で定年を決め強制的に生産活動の一員から排除され、死を待つために余生を過ごす。社会保障費の増加は、人生の終焉を向かえるまで、人が生存している時間が長過ぎるのも一因でしょう。

平日のスポーツジムは老人天国です。時間を持て余した老人達が、運動で汗を流しています。勿論、仕事をリタイアし悠々自適の年金生活者です。会費も年金から支払われています。

その一方、若者は将来に希望をもてないまま、安い給料で働かされています。スポーツジムに行く経済的余裕がない人もいます。

お年寄りは「今日は〇〇へ行ってきた」「明日は〇〇を食べに行く」余裕綽々です。全ての方がそうだとは言えませんけど、少なくともスポーツジムに行ける方は経済的余裕があるのです。


これって、おかしくないですか?


現役時代は確かに一生懸命に滅私奉公し、組織の一員として働いてきたのでしょうが、一線を退いた途端、当たり前のように権利を行使しています。

なんだか見ていて心穏やかでいられないのです。心の中で働けばいいのにと思います。

定年退職したら働くのを止めると決め込まず、どんどん社会のために働きましょうよ!趣味ばかりで1日を過ごすのは私は嫌です。趣味は忙しい時間の中で暇を見つけ、時々やることで楽しめる訳であり、それが毎日続けば苦痛です。

まぁ長生きすることでしか自分の自我欲求を満たせないのでしょうか?そもそも長生きは素晴らしいことなのでしょうか?

馬齢を重ねてただ長く生きてきた人や、病気がちでも長寿であれば世間では、「おじいちゃん長生きだね〜」「おばあちゃん、もうそんな歳になったの。凄いね〜」と褒め称える。なんの芸も無いのに、ただ長生きしているだけなのに、長寿が持て囃される。

ましてや他人です。それ本心から言っているの?


人は200年も300年も生きることはできません。


私が思うには、長生きしているのは、自分から死ねないからではないですか。


世の中延命治療はあっても、安楽死を選択することはできません。自分の人生を自分で決めることができないのです。どんなに迷惑をかけても、どんなに社会のお荷物でも、どんなに面倒を見る家族が苦しくても、本人から死を選択することができないのです。自殺という選択肢もありますが、体の自由が利かなくなればそれもできませんし、また方法によっては世間の迷惑になります。


私の義理の父も定年退職後に仕事から離れ、数年は元気だったのですが、とうとうアルツハイマー型痴呆になってしまいました。

現役時代はバリバリ仕事をこなし、それこそ定年までの人生を全て会社に捧げてきました。それがどうでしょう。仕事を離れたことにより集中するものが無くなると、人はこうも変わるのかと思います。元気な頃を知っているだけに見るのも辛いものです。

もっと大変なのは、面倒みる家族です。本人は体の自由はきくので動き回ることができますが、これが始末に悪い。ここでは書けない行動を行うこともしばしば。家族が介護疲れに陥るのも頷けます。

公的老人ホームに入ればいいのにと思うでしょう?入居条件がありそう易々と入居できないのですよ。有料老人ホームだと経済的負担も大きいですから、そう簡単なものではないのです。


私は冗談で、「ある年齢に達すると、体のどこかに安楽死ボタンがあり、それを押せば死ねるようにすればいいのにね」と話します。

勿論ボタンを押した後は、身内や世間様にお世話になる訳ですから、身内や世間様に対しての迷惑が必要最低限になる様、ボタンを押すタイミングは身辺整理をしてからです。

自分で自分の死をコントロールできる。これがあってもいいんじゃないでしょう?

お荷物になる前に死ぬのです。


えっ!自分の親に同じことが言えるのかって?


ええ、言ってますよ。

それに両親も高齢ですから、苦しいこの世からできるだけ早く去りたいようです。残された者になるべく迷惑を掛けずにと願いながら。自分から命を絶つことができませんから、生きているのです。

両親が死んだ後のことも話しています。

葬儀は簡素に直葬です。戒名も戒名作成ソフトで作ります。墓地は生前に購入してあります。

立派なお葬式は生存者の見栄であり、どんなに立派でも両親には計るよしもないですから、私は「それでいいね」と承諾してもらっています。

それよりも、

立派な葬儀を行うより、存命中に親孝行をすればいいのです。

ささやかなことでいいからね。

死後どんなに立派なことをしても手遅れです。


だってそうでしょう。存命中なら、「ありがとう」「すまないね」などの声も聞けますし、親も実感でき記憶として残ります。子供だって喜ぶ姿を見れば満足でしょう。死んでから後悔するより、生前に親孝行しておきましょう。どんなに親孝行していても、親の死後には後悔の念は残るのですから・・・。



もうひとつ思うことがあります。


それは人一人の人生が何百年も続かなくてよかったということ。


人生が何百年も続いたら拷問ですよ。

寿命を与えてくれた創造者に感謝です。


人は一生懸命に生きてきて、ちっぽけな家屋敷と家族、そして過去のものとなる生きてきた軌跡残す。世で得たもの全て自分で勝ち得たと錯誤し、全て身から離さなければならないことに気付き、慌ててその愚かさを知るのです。死ぬ時は一人きりです。


人生に意味が無いのは良く分かります。人間の都合で勝手に意味付けをしているだけなのです。


50歳も過ぎると、年老いたときのことを考えるようになります。私は今から計画を立てています。

安楽死ボタンがない以上、自分から死ねません。私の中に自殺という選択肢もありません。しかし、いつまで生きられるかも分かりません。それは明日やってくるかもしれないのです。

だから「今日という日を精一杯生きろ」と言われるのです。人間には今しかないのです。その今も今ではなく、今という時も流れて今でなくなりますがね。

なるべく世間様のお荷物にならず、自立した老人になれる様に、若いうちから計画を立て準備しておきましょう。


自分の準備不足で義務を果たさず、世間に対して権利ばかり主張することは愚かな行為です。


例えば、こんな高齢者の生き方は如何でしょう?

自分の責任と義務は果たし、権利は遠慮がちに行使する。趣味ではなく仕事で社会と繋がりをもち貢献する。そして働いた分だけの年金は返上する。いやなるべく貰わずに、元気なうちは自立した生活を過ごす。

そんな生き方ができれば理想ですね。







posted by ヨッシー at 16:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 生きる
この記事へのコメント
同感!!リハビリ現場見ていますから、自立できない身の回りの事もデキないで暴れているだけのメタボオヤジ、メタボジジイの情けなさ。他人にまとわりついて付きまとい他力本願で面倒見てもらいたがる自立できない老人。困ったものです。
Posted by たま at 2012年08月29日 20:18
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57780056
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック