2012年05月30日

宗教と私2

前回の続きです。

何故だか不思議と場所や時間の観念は無く、言われるがまま、礼服に着替えてバスに乗ったのですが、バスの中は私と同じ服を着た人達が大勢います。

暗くてよく見えなかったのですが、明るくなったので辺りを見渡すと「何?この集団は?」「ヤバイところへ来てしまったぞ」と、そこには後悔する自分がいて、更に気が滅入ります。

しかし、もうまな板の上の鯉です。

今更、帰るなんて労使の関係で下位である立場の私では絶対逆らえません。

心の中は、「嫌だ」の文字で溢れそうです。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・」の無限連鎖が続きます。心の中はずっと、ネガティブシンキングで、この時に、何をやっても上手くいかなかったでしょう。


仕方なく、「無料で旅行に行けるからいい」と自分を慰めます。


目的地に到着しバスから降り、まるで何かにとり憑かれたように皆がぞろぞろと歩き出します。そこは立派な寺院でした。

ここでの講義は2日間に渡り50人が受けます。

何故1回あたり50人なのでしょう?

それは簡単な理由です。会場スペースの都合があるからです。

会場にはその他、同行者(全て信者だった)もおりますので、どうでしょうか?

う〜ん、150人以上はいたでしょうね。(記憶は曖昧です)

こちらで、二日間に渡る嫌な有難い講義が始まります。

受付を済ませ奥へと入ります。座敷には人数分の座布団が敷いてあり、膝や腰の具合の悪い方は、椅子に座れます。

私は当時40歳だったので、まだまだ体力もあり、身体のどこにも不調はありませんから、座布団に座りました。

しかし、未だに「嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・」心の無限連鎖は続きます。

そして、そんな気持ちとは裏腹に、いよいよ講義の始まりです。

この宗派の僧侶でしょうか、威厳高く講師の先生が登場します。


先ずはお決まりの自己紹介からです。


講師:「私は○○です(もうすっかり名前は忘れました)。本日はこの迷惑な   有難い教えを皆さんにご教示いたしますので、しっかり聞いて下さい」


講師:「よくぞお越しくださいました。」

    「しかし今日の連中の顔は、なんだか冴えないな」


自分は心の中で「放っておけ」なんて思いつつ、講義は始まります。


最初は仏教の由来や伝来、仏陀の教えや真理、言葉の意味や所以など、説話としては大変興味深く、そう退屈になることはありません。


例えば、「死」と言う文字はどういった由来から出来かについてこう説明されます。


「死は一人で迎えるもので、誰一人として一緒に連れて行くことは出来ない一人旅と同じだ」「『一人』『タ』『ビ』だから『死』となるのです」


「忌中」とあるのは、問題は自分自身の心中にあるのだと説きます。ほら、ここに書いてあるでしょう。『己』の『心』の『中』にあると」


私は心中で、「お〜、ナルホド」「上手く言うな〜」と感心します。

喪に服し忌み慎んでいる期間は、己の心中にある。今に満足するための、心の在り方の問題に使えそうです。


1日目はこの様な講義が延々と続きます。

それにしても、感心しますね〜。よくあれだけ流暢に説明できるのかと。営業であれば、素晴らしいプレゼン能力です。あれだけの内容を流暢に話せるのですから、余程場数を踏んでいるのでしょう。

「この講義は一体、今までに何回行われていたのだろうか」と、つまらないことも考えておりました。

しかし長時間の正座は辛い「椅子の方が楽だったのに」と、社長を恨みます。

午後4時半〜5時頃だったでしょうか?1日目の講義も終わり、その施設内で食事を頂くことになりました。

メニューは確かちらし寿司とお吸い物だったでしょうか?

「おっ!俺の好きなちらし寿司や」「それにしても量が少ないな〜」と思いつつ、見ず知らずの人々がテーブルを囲み、重苦しい空気の中で黙々と、ちらし寿司を頂きます。


突然「おかわり自由ですよ」と賄い(信者)の声。


只でさえ重苦しい空気で早くこの場から逃れたい気持ちでいっぱいなのに、厚かましくおかわりなんてできません。そりゃぁ正直お腹が空いていますから、欲しいと思っておりましたよ。でも恥ずかしくて言えません。


僧侶曰く、今夜は酒もタバコも一切禁止です。


どうやら俗世間で汚れたものを摂ってはいけないそうです。これで1日目のカリキュラムは無事終了。


二日間の講義なので勿論宿泊です。


その夜の宿泊先は、近所(歩く程の距離)にある名も知らぬ木賃宿という言葉がぴったりの旅館。これは何時代にタイムスリップしたのだろう。旅館には湯婆婆でもいそうな雰囲気です。

しかし文句ばかり言っていられません。湿っぽいせんべい布団に身を委ね、肉体、精神共に参っていますので、とにかく寝ます。


お風呂ですか?


木賃宿にはそんなものはありませんよ。

デリヘルを呼ぶことも出来ないですよ(笑)


本当に寝るだけの宿です。今思うとその宿も教団が斡旋し、宿からリベートが入ってるのかも?入っていようものなら、素晴らしいマネジメント力ですね。


そして2日目の朝を迎えます。若干臭いのするせんべい布団なので、熟睡はできませんでした。

二人は素早く朝食を済ませ、再び昨日講義のあった会場へ向かいます。

昨日の続きで講義を受けた後、午後からいよいよ儀式が始まります。


えっ!何の儀式ですかって?


それは、素晴らしいあの世へ行くことが出来るための儀式です。素晴らしいあの世ですよ。是非、見てみたいですね〜


僧侶から詳しい儀式の説明を受け、儀式が始まります

50人もいますから、儀式に時間がかかります。そりゃ僧侶もヘトヘト。

信者の担当が、遅いから早く行動するようにと言いますが、そりゃそっちの都合でしょ。私は「受けたくないのに」と心の中で毒づきます。

そして私の順番がきて、儀式も無事に終了。(すみませんが、詳しいことを書くと、どちらの宗教法人か特定できますので省略します。)

そして儀式を受けた後、結果の検証をします。(○○が見えるや○○できるなどです。こちらも上記と同じ意味で省略します。)

検証も終わり会場の部屋へ戻ります。


「これで、特別な存在になった」「お前らも仏になった」(終始偉そう)と、言われます。


2日間のカリキュラムも終了し、これで帰れます。やっと帰れると思うと気持ちもそわそわし、「嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・」の無限連鎖の声も聞こえてこなくなりました。

そんな感情に浸っている中、同行者全員が何やら分厚い祝儀袋を持って前座にやってきます。それも今回講義を受けた50人の同行者全員がです。

会場は、ざわざわしています。

そう、中には今回の講義料が入っています。あっ!宗教法人ですからお布施ですね。


事前に社長に費用のことは聞いておりますので、中身の金額は分かっておりました。あの頃、私のお給料は手取りで25万円弱だったのですが、それより10万円程多い35万円です。

そこで計算してみました。


50人×35万円=1,750万円。


これは凄い!


この講義は週2回あり1カ月間で8回開催され、それが1年間続くと・・・


計算して見てください。


恐ろしい収入です。


1年でこんなになるのです。


そりゃぁ、絢爛豪華な施設も建出来る訳です。講義のお布施だけでこの金額ですから、そこに毎月の会費やイベントの収入もありますから、とんでもない金額になりますね〜。


いや〜、宗教法人は素晴らしい!


馬鹿馬鹿しくて、真面目に仕事なんかしていられませんよ。


当時の私は、別世界で羨ましいなという気持ちでいっぱい。


金額という視点で書きましたが、当事者にとっては、金銭的価値だけが全てでは無いのです。

いや、それ以上の価値があると思い、その価値を評価する基準としてお金がある。価値を認めているから簡単にこの金額が出せるのでしょうね。

しかし、お金で解決するのは何故なのでしょう。

例えば、戒名です。信士・信女、居士・大姉、院号、院殿号と右に行くほどランクが上がり、料金体系も違いますよね。

位が高いものになると数百万円必要です。

何故ですか?これには納得できませんね。

納得できないので、私は両親に伝えてあります。

死んだ後にどうするかは相談し、答えをだしております。


両親に戒名は授けていただきません。


どうしてもなら、ネットにあるフリーソフトで作りそれを父に授けます(父は望みませんが)。葬儀も、簡素に行います。業者に大金を支払い、豪華な葬儀を行うことは、私達にとっては無用のものです。

私たちは、残された者の自己満足と、世間体を取り繕うだけのものだと判断しているからです。





そもそも、お金はこの地球上だけで通用するものであり、日本では日本円があります。それは「日本銀行券」と印刷されている通り、日銀は紙で出来た「券」を発行しています。

そう、只の紙切れです。

お金は、交換の手段、価値の尺度、価値の保存でしたよね。

地球上の人間はこの紙切に大きな価値を認めます。

正しくは、この紙切れが持つ情報能力にですか。

人はこのお金という価値観の中で、価値や人を判断します。


「おっ!いい車に乗ってるね。それいくら?」


「このバッグ、高かったのよ。50万円したの」


「この指輪1,000万円もしたのよ!」


「この時計、宝石入りだから2,000万円だぜ」


「お金持ちだね、一体いくら稼いでいるの?」


これが尺度です。

資本経済では、高価(買う時にお金が沢山必要となるモノ)で、高収入(お金を沢山集める能力に長けた人)を優秀だと判断します。

しかし、あの世(あるかどうか知りません)を、この価値の尺度で判断できるのでしょうか?

紙ですよ紙。(神ではありません)

地球の外へ出れば、お金なんて何の価値もないですよね。


例え話を一つ。


地球外生命体(宇宙人)が地球に舞い降り、ある人が襲われ、そこで襲われた人が命乞いをするとします。


地球人:「頼むから、命だけは助けてください」


宇宙人:「わかった!命は助けてやる。だが、何か命に代わるものを出せ!」


地球人:「お金を出します。ほら、全財産100億円です」


宇宙人:「何だこれは?」


地球人:「お金です」


     「これだけあれば好きなことできますよ」


     「お姉ちゃんとも、好き放題・・・」


宇宙人:「それはお前らにとって、命より価値のあるものなのか?」


地球人:「はい、そうです」


     「これのために盗みもします、人も殺めます」


     「これは、それほど価値のあるものなのです」


宇宙人:「しかし、それは紙だな」


地球人:「はい、紙であることに間違いありません」


宇宙人:「そんな紙に何の価値もない」


     「他に無いなら命をいただくぞ!」


地球人:「・・・」


なんてね。


そのような視点からお金というものを見れば、滑稽でしょう?


しかし、私も生活する上において、お金を稼ぐしかないのです。現在、モノを交換する手段として、お金は大変便利ですから。


何が言いたいのかに戻ります。


そんなお金に左右され支配される宗教は、本当に信じるに値するものなのでしょうか?


宇宙人の例えで説明しましたが、あの世でこれが通用するのかです。ひょっとして我々は、宗教に現世利益を求めているのかもしれません。

それに本当に人を救いたいのなら、マザー・テレサが代表する様に、お金がない人にも布教活動ができます。

救われたい人側にお金がなければ、その人自身の持っているモノを提供するのはいかがでしょう?


「私は、マッサージが上手いです。だからマッサージを一生懸命します」


「私は、歌が上手です。美しい歌声を聞いてください」


「私は、絵が得意です。この絵をプレゼントします」


こんなことができれば、平和でしょう。


豪華な寺院や毎月の勧誘ノルマ、明瞭な会計報告もないお布施や会費の集金など、全てにおいてお金が絡まります。

これは教えを頂戴してから、気付いたことですが、お金を出せない人は、死んだ後不幸になるのでしょうか?

そんなことを疑問に感じながら、ぼんやりと「凄いな〜」「1袋だけでいいから欲しい」と邪念を抱きつつ、お布施の束を見つめます。


と、様々なこと考えながら、帰路につきます。


続きは宗教と私3へ・・・





posted by ヨッシー at 12:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 生きる
この記事へのコメント

結構波乱ですね(笑)次が気になります。
楽しみに待ってます。
これからも、いろいろ教えてくださいね。
Posted by としくん at 2012年05月30日 17:08
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