2017年05月24日

日本人は働きすぎ!?

日本人は働きすぎなのでしょうか。いやいや違いますよ。反対に、働かなくなっています。


データブック国際労働比較2016 一人当たり平均年間総実労働時間


労働時間は短くなっていますが、「労働生産性が低いのは、日本人の働き方が非効率だから」というのは全くの誤解です。


現状のまま、いくらシステムを入れてもダメ。アニマル浜口のように「気合いだ〜」は、もちろんダメ。


国は労働時間の短縮や残業時間の見直をせまり、おまけに豆腐の値段にまで口を出す始末。でもそれって違うんじゃないの?

 


(成長が止まった日本)

日本の労働生産性が低いのは、算出付加価値が低いから。すなわち、成長が止まったからです。


労働生産性は、産出付加価値÷労働投入量(労働時間)で算出されます。


かつての日本は、物作りの国として他国から重宝がられ、作れば作るほどモノが売れました。作る国がなかったからですね。労働投入量に対し、算出付加価値が高かったからです。だから儲かりました。


でも今は違いますよ。日本のお家芸であるモノ作りを、他国が奪ってしまいました。


それでもかつて成功したモデルにすがり、モノ作りに固執しています。


そうなると、今では他国との価格競争に陥ります。それでも競争力を維持するため、労働投入量にメスを入れます。算出付加価値が低い中で利益を確保するために、人件費カット、人員整理、長時間労働を強います。


それでも、働く人はの所得は上がりません。算出付加価値が低いままだから、ますます疲弊するだけです。


高度な知識労働による付加価値のない、単なる物作りは、極限までコモディティ化が進んでおり、それでは利益が出ない状況になっています。つまり、物理的な原材料を加工して製品やサービスにするという行為それ自体では、利益なんて出やしないのです。



(生活コストの高い日本人)

さらに日本は生活水準が高く、それを維持するためには、ある程度お金必要です。単に生きているだけで、一人当たりにかかるコストが高いのです。当然、同じモノやサービスを生み出すための原価は高くなります。


中国やインドの単純労働者が、利益を生み出す「資産」であるのに対し、日本の単純労働者は、赤字を垂れ流す「負債」となります。日本国内でモノを生産しても競争に負けます。


そして単純労働に関して言えば、中国人だろうが、インド人だろうが、日本人だろうが、それほど大きな価値生産性の違いはありません。もちろん、前世紀の日本人は、単純労働といえども、そのモラルの高さ、真面目さ、勤勉さは、世界的にも突出していました。しかし、真面目に働くことで信用を積み重ねるメリットは、しだいに世界中で理解されてきており、中国、ベトナム、インドがいい例です。


日本が高度経済成長期にあったころ、日本人の多くは、モラルの低い中国、ベトナム、インドの労働者は使い物にならないと考えていました。しかし、現実は違いますね。高いモラルで働けば豊かになれると理解した発展途上国の労働者のモラルは、みるみる向上し、使い物になるどころか、先進国の労働者を脅かすほどの良質な労働力になっていったのです。


供給が過剰で価値が低くなり、人の欲しがるものを提供できず、そして人を幸せにするような労働を提供できなくなった今。かつて日本人が持っていた優位性は、完全に無くなりました。


こうして、いまや、単純労働者の生み出す価値は、世界中どこでもさほど変わらなくなったにも関わらず、単純労働者の消費する生活コストは、大きな格差が生じています。


発展途上国の単純労働者の生活インフラは、クローバル経済の恩恵により、以前に比べれば幾分豊かになったものの、日本のような過剰な贅沢からは、依然としてほど遠いものであるからです。



(過去の成功体験にすがる人々)

そんな時代においてロートル連中は、過去に成功したビジネスモデルしがみつき、旧来の方法に固執します。それは真面目にコツコツ働きさえすれば、いつか生活は楽になり輝かしい未来が築けると説く幻想を教示する「マジメ教」です。そんなロートル連中が今の若者達の上司であり、さらには経営に携わっているから悲劇です。


時代は少しずつ大きく変化しています。


そんな人のもとで、いくらコツコツと真面目に働いても生活は改善されず、むしろ悪化しているようにさえ思えます。彼等も「努力さえしていればいつかは報われる」という事が、「今は幻想であるのではないか」と薄々感づいているはずです。


そこで、もう昔のようにならないと感じているから、「オンリーワンでいよう」「競争ばかりではダメ」など、半ば諦めにも似た台詞が、世間で幅を利かすようになったのかも知れません。


現在の日本は、特別な国では無くなってしまいました。単に労働者の生活コストが高いだけの、コモディティ化された商品しか生み出せない国です。


そこには、算出付加価値を高める方向に目を向けられていない。楽に早く生み出そうとする気持ちもない。


努力しても、向かう方向を間違えていては、絶対に報われないのに。


「簡単に楽に」は、労働生産性を向上させる手段です。「簡単に楽に」を考えないといけない。


「簡単に楽に儲かるうまい話などない」と思われるでしょう。しかし、実際にあります。自分の耳に入らないだけです。本当はあるのに、自分が見たことも聞いたこともない世界は、その人にとって無いに等しいものなのです。だから、無いものだと判断するしかない。



(学校の教師だけでは物足りない教育)

ビジネスの正否は、


・人が欲しがるモノ


・しかもまだあまり供給されていないモノ


・低コストで先に提供できるモノ


・既得権益の上で行うモノ



需給バランスと生産性の組み合わせであり、これで決まります。だから上記に当てはまらないコモディティ化したものは、いくらコツコツ努力しても大きな収益が見込めません。


今でも学校では、「真面目にコツコツ」「努力さえしていれば報われる」と教えているのでしょうか。確かに、資格や免許を取得するためなら通用するでしょう。しかし、ビジネス上において努力の仕方や生きていく術は教えてくれませんよね。


いえ、教える事ができないと言う方が正しいでしょう。理由は簡単です。学校以外の世界や原理を知らないからです。


教員免許を取得した教師は、大学を卒業してすぐに教壇に立ち授業を行います。ビジネスの経験はゼロに近いのにも関わらずです。学校の先生になるための方法なら、教える事ができるでしょうが、これではビジネス上で生きていく術は教えられません。


人は、経験していない物事を教えることは出来ないからです。上辺だけなら可能かもしれませんが、血となり肉となるような教えはできません。


だから私はいつも思うのです。


学校の授業で週に一コマくらいは、中小企業経営者の話を聞いてもいいのではと。


そして、親にも責任があります。いつまでも「学校の勉強をキチンとしろ!」とばかり言っていないで、将来、自分で食べていけるスキルや情報を教えられる師匠にならないといけません。


魚を与えるのではなく、魚を釣る方法を教える。そうしないと、自分の子供が格差社会の底辺で喘ぎながら生きることになります。親としてそんな子供の姿など、見たくはないですよね。



(最後に)

世の中には、有利な立場と、不利な立場が厳然として存在しています。それを親が子供にキチンと教える。それが出来ないと格差は広がるだけです。またそうやって、格差は継承され固定していくのです。


世の中には、有利な立場と不利な立場が厳然として存在します。子供達には厳しい現実でしょう。でもそれが今私達が生きている社会であることは、紛れもない事実なのです。


posted by ヨッシー at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/179845128
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック