2015年11月21日

社会的援助活動は、自己欺瞞の世界なのか?己を欺きながら生きる、なんとも薄汚い自分。


困っている人を助けるのは、人として当然のことであるが、全ての人に対して平等に支援するとなると話は別になる。全ての人に援助するのは難しい。というより出来ないだろう。



例えば、社会的援助を行う方法として、募金活動や自然保護活動、難民支援や子供への生活援助など沢山ある。これらは金銭に限らず、労働力の提供も含まれるが、どれをとっても当事者は勿論、携わる人々にとっても重要な活動となる。しかし、これらの全ての活動を、平等に援助することは不可能である。



どうしても、援助する側においてどこかで本人の意思が介入してしまうため、そこで取捨選択の意思が働いてしまうからだ。更に、個々の持つ経済力や労働力は有限だという面も見過ごせない。であるから、「世界中の人々に・・・」「日本中の子供達に・・・」「恵まれない人に・・・」のスローガンは、現実的に考えと言葉だけが上滑りしており、私にはとても虚しく聞こえてしまう。



援助を必要とする人々は、普通の人であることは誰だって承知している。 皆が幸せになる権利はあるし、見捨てることは出来ないのも分かっている。問題は、援助を必要としている人々や団体全てに、まんべんなく平等に支援することなど、とうてい無理だと援助している側も分かりきっているところだ。



援助をした人の寄附や人的な活動で何人救われようと、それは全員に行き渡らない。支援には限界があるため、援助は一部の効果を発揮するが万全ではない。ましてやこれが短期間の支援となると、あっという間に終わってしまう。



これでは、問題は一向に解決できない。たとえ、それで何人かを助けられたとしても、残りの人々はどうなるのだろうか。人に人の命は選別出来ない。しかし、どこかで選別の意思が働いている、そんな自己欺瞞と偽善的予感が濃厚過ぎるのだ。



疑問だらけに思える。



一部の者を助け出して、残された人々から恨まれるなら、一部の者を助け出すための予算を、全員に均等に配ったほうがいいのか。

それとも、一部の者だけを助けて、残りは見殺しにするのか。

果たして、人の命を選別する権利が人にあるのか。

選ばれなかった人は、どうするのか。

選ばれなかった人は、次のチャンスまで待つのか。待てるのか。

どのような基準で選ばれたのかさえ分からない人に、自己責任と言えるのか。 

援助する側は、自分の生活を犠牲にしてまで人々に援助が出来るのか。

援助されたお金が、必要のない物のために消えていないのか。

いっそのこと、何もしないで無関心でいるのか。

全てを分かり切った上で、それでも援助を続けるのか。




どれも正しいとは思えず、考えれば考えるほど自分の無力さを自覚してしまい、果てしない空虚感に苛まれる。



それでも何らかの支援を行いたいと考える自分がいる。自分の良心や本心に反しているのを知りながら・・・。それを自分に対して無理に正当化している自分と知りつつ、己を欺きながら・・・。



最近、どうしたらいいのかさえ分からない。



本当の答えなど、どこにもありはしない。多くの悲しみや不幸が存在し、かくも罪深きこの世について困り果てている。



posted by ヨッシー at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる
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