2015年10月02日

当たり前だけど考える


哲学者は当たり前だと思うことに深く悩み問い続ける。この本の著者である中島義道氏も同様で、「人は死ぬ」という当たり前のことを問い続け、「どうせ死んでしまう」ことを直視している。


本書は、「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのでしょうか」のタイトルとおり、自殺についての話から始まる。



「なぜ自殺してはいけないのか?」。その答えは唖然とするほどない。



人が自殺しない理由として二つの理由があり、一つ目は、親兄弟、配偶者、友人、知人が悲しむからであり、二つ目は、自分が死ぬ時に苦痛を伴うかもしれないとう恐怖があるからだ。


穿った見方をすれば、この二つの問題が解決されさえすれば、人は自殺ができることになる。


今を生きている人々に対し、「あなたは、なぜ自殺しないで今日も生きているのか?」の問いかけに、まともに答えられる人がいるのだろうか。



そんなことはない、「生きていれば楽しいこともある」「努力すれば報われる」「死んでどうする」などと、まともでない答えで説得されても、全ては虚しく嘘くさく聞こえてくる。人生は理不尽であり、いいことばかりでなく、多くの不幸も待ち受けている。それは原理的にいかなる解決方法も持ち得ないのだ。



美辞麗句を並べ立てた講義や、向上心の高い人々による言葉のような誤魔化しは全く通用しない。どんな不幸にあえぎながら生き抜いても、その後の人生に待ち受けているのは「死」だけだ。ならば、なぜ今死んで悪いのだろうか。自殺を考えている人がいたら、どうして死ぬなと言えるのだろうか。果たして、この本当の問いに向き合い正しい答えを持ち合せているのだろうか。



今生きている我々は、明日死ぬかもしれない。これは、死刑判決を受けた死刑囚となんら変わらないと書かれている。「著者は、死刑囚は確実に死ぬことが決まっているが、我々はそうではない」理論もまやかしだと断言している。



死刑囚は数年のうちに殺される(なかなか殺されない人も中にはいるが)。我々も数十年のうちに殺される。死を迎える形は、病気、怪我、不慮の事故、あるいは寿命をまっとうし息絶えるなど様々あり、違いは処刑までの不定期の長さだけであると。



誰でも真顔でこう問われたら、言葉を失ってしまうだろう。



著者の本を何冊か読んだが、読み続けると中毒になる可能性がある。世間に毒を吐きちらすとも取られかねない内容に、拒絶反応を示す人も少なくないだろう。だが、内容当たり前のことだからと深く考えず、思考停止してしまうことに危険を感じなければならない。



当たり前だからこそ、そこで考える勇気が必要となる。人は「死」について考えないようにしているだけで、真に向き合っていない。必ずや来る「死」に関して向き合い、人生の全てが無価値、偽り、仮象だと前向きに捉え、積極的に生きる態度(積極的・能動的ニヒリズム)を教えてくれる一冊だった。



蛇足だが、トーベ・ヤンソンの小説の登場人物であるジャコウネズミは、いつもセリフが「無駄じゃ無駄じゃ」だった。彼がいつも読んでいる本は『すべてがむだである事について』であった。



今思えば、彼は消極的に生きる消極的・受動的ニヒリズムの態度だったようだ。彼のように生きるのも一つの生き方であるが、私には真似できない。



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posted by ヨッシー at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる
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