2015年09月03日

善と偽善の違い


(考える勇気をもて)

*「自分で考える勇気より」引用

カントが生きた18世紀は、啓蒙運動の世紀だった。啓蒙運動とは、日本語で「蒙を啓く」と表現されているとおり、物事を見極めること無く宗教や習俗に従うままの人間のあり方(蒙)に対して、光をもたらすことです。そして、ものごとを明るみで見定めることによって、人間を迷走から解き放ち、人間社会を理の通ったものにしようとする思想運動です。


彼は1784年に書いた論文「啓蒙とはなにか」で、啓蒙運動のモットーは「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」だと記しています。「悟性」とうい見慣れない用語が出てきますが、これは人間ひとり一人が持っている「理解する能力」を意味します。私たちが何かを理解するには「考える」ことが必要ですから、このモットーはひろく「自分で考える勇気をもて」と言い変えることができるでしょう。


カントがみなさんに「自分で考える勇気をもて」と呼びかけたとしましょう。みなさんはこの言葉をどう受け止めるでしょうか。はいはい、自分で考えればいいのでしょ、かんたんなことです。こんな簡単なことに「勇気」とか、大げさじゃないですか。そう思うでしょうか。


(ベーコンのイドラ論)

まず、自分で考えるのは、簡単なことでしょうか。この問題を考えるには、カントが生まれるまえより、およそ100年前に亡くなった哲学者、フランシス・ベーコンの有名なイドラ論を参照することが有効でしょう。彼は、学問や技術に大きな革新をもたらそうと企てましたが、そうした革新の出発点を確保するために、私たちの精神が抱いてしまっている先入観(イドラ)を拭い去ることが必要だと考えました。


精神が先入観でゆがんでしまっているとき、わたしたちはものごとを正しく理解できないからです。ベーコンは四種類のイドラがあることを指摘します。


第一に「種族のイドラ」で、これは人間のくせのようなものです。実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、衝撃的なできごとや自分の思いに引きずられたりして、人間は多くのものごとを見落としてしまいがちです。


第二に「洞窟のイドラ」で、これは個人がそれぞれもっている傾向に由来するものです。個人がなにかに関心をもち、なにを愛好するかは、ひとそれぞれですが、そうした傾向によって私たちの視野が狭められてしまいます。


第三に「市場のイドラ」で、これは人間たちが交わす言葉が適切に定義されていないことに由来するものです。ベーコンは、これをもっともやっかいなものだとしています。私たち人間が言葉なしには考えられないことを踏まえるなら、不適正な言葉の使用が私たちの思考に生む弊害の大きさが予想できるでしょう。


第四に「劇場のイドラ」で、これは「学説のイドラ」とも言いかえられます。劇場で上演される演劇にまとまりがあるように、哲学上の学説を上手にまとめてしまうと、ときに人を欺く議論が生み出されてしまいます。


ベーコンの指摘するイドラは、私たちの知性に影響を与え、それを支配しています。それを拭い去らなければ、新しい学問は出発できません。しかし、私たちがなにかを考え始めるとき、人間や自分のくせを理解して、それをあらかじめ矯正することなどできるでしょうか。新たに言葉の定義から問い直すことなどできるでしょうか。


世間で有力な学説に寄りかかることなく深く考えられるでしょうか。まとめて言えば、先入観なしで私たちは考えられるのでしょうか。いや、それがいくらかもできなければ、〈自分で〉考えることはできません。だからこそ、自分で考えることは容易ではないのです。*引用終り


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(自分で考える難しさ)

自分で考えるのは勇気が必要であり容易ではないと言っています。世間において、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」など、人々は考えることをせず、何ら疑うこともせず言われるがまま従い、安易に権力や権威に跪きます。自分で考えようともせず没個性的になり、他人に従うことで楽な生き方をしてしまう。


人は歳を重ね、やがて大人になり外見は立派に見える。しかし、世論に惑わされ自分の考えをもたない人々が、果たして立派な大人と言えるのだろうか。


認識論において、「人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという」これが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、「人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた」こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。


平たく言えば、発想法を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることをいう。発想法を変えると、物事の見方が180度変わってしまうような場合さえあるのだ。


人生における経験は仮説の繰り返しだ。仮説を繰り返すことにより、真実に近づくと思えるかもしれないが、目に映るもの全てが真実かどうかは分からない。私たちの考えは、先のベーコンによる「四つのイドラ論」に支配されているからだ。


時間、空間、因果関係などのように、経験に先立ついくつかの前提が必ず備わっているというものだ。こうした前提がなければ何物をも知りえない。しかし、それがあるために、あるがままの世界を認識することはない。私達は知り得る世界は〈先入観〉という眼鏡を通して見たものにすぎず、ただ、私たちにとってのモノとして世界を知るのみだ。


カントは「物自体」と「我々にとっての物」を区別し、目に映る物が対象物の真の姿に似ている保証など微塵もないという。カントは自分で考えることができるのに、人ひとりにつきまとう先入観による考えの未熟さを指摘している。


四つのイドラ全と向き合い、そこから自分を開放し考えるのだという。世間には多くの情報がある。まるで洪水のように押し寄せてくる。その世間の常識や一般論、インターネットやメディアから流される多くの情報、無責任な人々からの伝聞などを用いれば、自分の考えを持たない人にとって楽に過ごせる。


だが、それは「知識」といわれているものであり、知識は考えでない。知識は考えるための要素に過ぎず、考える上で大切なのは、自分を四つのイドラから解放し、先入観という眼鏡をかけず、経験というフィルターを通して考えないことである。さもないと、それらに支配され、真実がどこにあるのかさえ分からなくなってしまう。



(善と悪の判断)

「善く生きる」といわれるのは、大変に立派で行為である。困っている人や友人を助けるはよいことかもしれない。人を欺き利己主義に陥るのは悪になるのかもしれない。人が日々生きる上において、善悪の判断に関っている部分は大きい。


ここで疑問となるのが、「善を行え、悪を行うな」という、我々が小さい頃から教えられたこの言葉だ。私たちは、「道徳的な善悪に普遍性があるのだろうか」。あるいは、「道徳的な善が普遍的なら、どうして悪いことをする人がいるのだろうか」という問いに巻き込まれる。


道徳とは、人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範であり、個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。


しかし、どうして嘘をついてはいけないのか、悪いことをしてはなぜいけないのか。人は悪いモノは悪いというが、それは何ら答えになっていない。この問いに、明確に答えられる人は少ないと思う。


ここでカントは、一番善いことを「最上善」と呼んだ。これは、いつでもそれとして望ましく、他の何ごとかのかのために望ましいものでないこそが究極の「善い」ことだとしている。それは誠実であり、嘘をつかないこと、困っている人を助けることであり、総じて道徳的に行為することである。


困っている人を助けるのは、それ自体が「善い」のであり、助けられた人から感謝され、自己満足を満たすべくものでもない。道徳的に行為するのが「善い」のである。


そしてこの本の中で、「善いこと」と「偽善」について言及している。例えば、ボランティア活動それ自体の見た目は「善」と捉えられるが、それは本当に「善」なのだろうか。ボランティアは、各自の意思に基づき自己犠牲を伴いながら、他人の幸福実現のための行いである。しかし、ここで、「善」と「偽善」の分かれ目となるのが、これを行うことで「有名になれる」「就職活動に有利になる」「会社や個人のコマーシャルになる」など、どのような意思に基づいて行為が行われるかである。


人の行動や結果ではなく、その人がなぜその行為を行うのか、その行為自体を引き起こした本人の意思のあり方が問題になる。無制限に「善い」ものがあるとしたら、それは「善い意思」だけであり、「善い意思」は悪い意思に変えるものがなにもない。それは「善意」ではなく、それ自体が「善い」ものとして扱われるから悪いものに変わらない。


「何もしない、やらないより、やる方がいい」と活動自体を肯定する人がいるが、それは「善い」意思があればこそであって、そこに「善い」意思がなければ、「善」ではないということになる。これでやっと偽善の意味が理解できた。


企業個人を問わず、多くの社会貢献やボランティア活動があるが、活動を行う人は意思を自分自身に問うてもらいたい。そこにもし、会社や個人の利益や広報活動並びに自己実現の意思があるとするなら、それは「善い」ことではない。私だってそうだ。会社で環境貢献や寄附活動を行っているが、よく考えるとこれらも「善い」ことでなく、世間体を取り繕い、自己の欲望の実現の手段に過ぎなかったようだ。


世間で行われている貧困者の救済、アマゾンの熱帯雨林の保護、街のゴミ拾いなど、様々なボランティア活動があるが、全てにおいて意思のあり方が問われるのだ。もし仮に、それらが偽善的活動だとすれば甚だ迷惑な話で、善意の押し売りとなる。人が行う活動が、経験と先入観によって左右され、最後にはその人が持つ欲求を満たす道具に成り下がってしまうからだ。


始末に悪いのは、それは活動している本人にしか分からないことである。だが、「善い」「偽善」は自問自答し確認することができる。唯一欺けない存在は、自分自身だからである。ボランティア活動を行うなら、世間から認められたい、他人によく思われたいなどと考えていないか、それ自体が「善い」ものであるのか、自分の意思に問いかけてから実施した方がよさそうである。



蛇足ですが、先日行われた安全保障関連法案に反対する市民団体が行ったデモの参加人数は、12万人と報道されています。でも、ここで考える人は、本当だろうかと疑います。報道にも書いてありますが、「主催者側が12万人参加したと発表」とあります。


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一体、真実はどこにあるのでしょうか。




posted by ヨッシー at 12:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる
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