2015年08月24日

老後に備える

「老後に備える」その老後とは、一体いつを言うのか。



(老後の明確な基準はあるのか)

人間誰しも必ず老いて行く。体はみすぼらしくなり、体力は衰え、若い頃の様に言うことを聞かなくなる。だがそれも自然の摂理として、受け止めるしかない。誰一人として抵抗できない自然の摂理である。人は誰でも必ず老い、やがて死を迎える。


ただ疑問に思うのが、老後、老後と人は言うが、それを年齢という数字だけで表せるのだろうか。


老化のスピードは人それぞれにあり、個々に違う。50歳代で老人に見え、生気のない人がいれば、90歳代でも活発で若々しく、未だ成長しているのではないかと思えるほど、元気な人もいる。そういった風に、老化現象は個人差がある。だから、その時期がいつなのか第三者に決められるモノではない。いや決めて欲しくない。


「老後のプランは」「定年後に備えて」など、余計なお世話だと言いたくなる。その背景には、老人ビシネスで利益を得ようと、虎視眈々獲物を狙う業者の欲望が垣間見える。



(従順な労働者を生み出す教育)

戦後復興を目指すため、国は資本を一箇所に集中させるべく、従順に働く労働者を作りだし確保してきた。学校教育は、企業のもとで働く労働者を作るためのシステムであり、企業に勤めるのを前提にし、従順な労働者を育てるための方法である。


そして教えられた価値観のもと金太郎飴のように同じ考えを持つ人が育ち、多くの人々が没個性的になる。その教育を受けた人々は企業の中で働きながら、与えられた環境の中で個々に幸せを感じ、明日こそはと今より幸せな未来があると信じ、夢を描きながら働いていた。


しかし、いくら一生懸命に働いても、肉体が滅びる時期が近付くにつれ老化が始まる。老化により生産性が低下した労働者は、企業にとってお荷物でしかない。そこで企業側が設けた定年制度により強制的に第一線から退かされるようになる。


人々は、その定年制度を当然の如く受け入れた。そして、今までの功労に対する企業からの敬意として退職金を受け取り、保証されてもいない老後の幸せな生活を夢見る。


定年を迎えると労働者でなくなる。全く労働せず金融資産や不動産収入もなければ、一消費者でしかない。それでも労働しなくてもいい環境に満足し、夢にまで見た解放感と充実感がしばらく続く。毎日が日曜日である。会社に縛られることはなく、嫌な上司の叱責を受け、ダメな部下の管理や顧客クレームもない。趣味や娯楽に勤しみ、明日は何をしようかと気分が高揚する。


健康でありまだまだ元気であるのに、ある一定の年齢に達すると労働しなくてもよくなるなんて、こんな生き方で本当にいいものだろうか。


しかし今日では、どうやら定年後の人生は安泰でないようだ。右肩上がりの経済成長を続けるていた時代において、企業と個人はそれぞれの相互信頼のもと健全な労使関係が続いていた。終身雇用が続き、定年退職後に一定の金額を受取れると信じていた。互いの明るい未来が約束されたものであるかの如く振舞っていた。


しかし、どうだろう。今の社会はその相互信頼関係は崩れ、欧米の資本主義を是とする社会において幻想と化し、企業と個人の間において互いに牽制し合うようになる。企業は業績が悪くなると、冷酷にも人を解雇する。冷酷な企業の雇用体制によって労働者は企業に対する忠誠心は無くなり、人が育たなくなる。今の社会でこの問題が顕在化し、過去の約束や決め事が嘘のように崩壊した様に思える。



(休日の意味)

私は思うが、毎日が日曜日だと、生きていることのありがたみがなくなり、かえって苦痛になるのではないか。


昼間のスポーツジムは老人達の溜まり場となり、そこでの会話も、やれ登山だ、ゴルフのスコアだ、飲み会の段取りなど、趣味や娯楽の時間を消費するのに事欠かない。時間を持て余しているからだろうが、人間あんなにも、趣味や娯楽だけで時間を潰せるものかと感心する。私には一種の拷問にも似て、絶対に出来ない。


私の義父は典型的なサラリーマンで、65歳で定年を迎えた。最初のうちは趣味や娯楽、奉仕活動などを行い、生き生きとしていた。しかし、途中で様子がおかしくなり病院で受診すると、アルツハイマーと診断された。わずか定年から3年でアルツハイマーを患い、その後2年程で他界した。


現役時代は、ギャンブル、女、酒、娯楽の悠々三昧。今思えば、それも仕事があったからこそ成り立っていたのではないのか。人を木に例えるなら、人生を有意義に生きるための根と幹として仕事が存在し、枝葉は娯楽や趣味と考えたい。しっかりした仕事(根と幹)があってこそ趣味や娯楽(枝葉)があるのだ。


仕事(根と幹)だけで、娯楽の一つもない人生はつまらない。かといって、趣味や娯楽(枝葉)だけで生きていけない。仕事とは人生を生きる上において、根幹となるものに思える。義父の死を思うと、人々における仕事とは人生を充実させながら、人を一日でも元気で長生きさせることの出来る素晴らしい宝物でないのか。


迷惑だ、ストレスだと思っていたことでも、毎日時間を持て余す日々を過ごすうちに懐かしく思える時もある。嫌だ、嫌だと思っていた仕事でも、人生のスパイスになっていたのではないのだろうか。私はそう考える。



(俄かにお金儲けはできない)

最悪なのは、大切な退職金を運用して生活費の足しにしようという考え方や、退職後に起業しようというプラン。無責任なマネー誌や経済誌に当たり前のように書いてあるが、やめておいた方が身のためだ。


いきなりこれらを真に受けている人も多いが、とんでもない発想である。大金を扱うのに慣れていないからだ。いくら大金を扱っていたからといえ、会社の器の中でしか扱っていないなら尚更だ。要するに会社の器に守られていて、その範囲で扱っていた訳だから自身にリスクはない。失敗したからと言え不正を働いていないのであれば、降格や一時金への影響はあるかも知れないが、弁済にまで至ることは殆ど無い。


そのリスクをとってきたことのない人が、いきなり大金を扱うのは危険極まりない。ゴールドラッシュで儲けたのはスコップを売った人間で、株バブルで儲けたのは証券会社である。自身より利益を得るのは誰なのか考えればいい。そう考えると恐ろしくなる。



いろいろ考えると、定年を年齢と言われる数字で表し、誰もが必ずそれを履行しなければならないと思わせる世の中がおかしいのではないか。個々のライフスタイルや考えにより、柔軟に対応すればいい。


老後のプランについて、杓子定規な案内や提案など迷惑な話だ。一生現役、死ぬまで働く。働けるなら働けばいい。老いてなお一層働く。働くことに対する捉え方次第で、人生が愛おしく輝いて見えるのではないか。


仕事上のトラブルやミスなど取るに足らない。なぁに、心配はいらない。これを読んでいるあなたも、やがて死を迎える。そうなれば、苦楽の感覚すらなくなるのだ。



posted by ヨッシー at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる
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