2015年08月10日

私に墓はいらない


今の時期、お墓参りに行かれる方も多いですね。しかし、近年死者を弔う事情も社会情勢により大きく変化しています。



(信じることで全て成立する)

年々、少子高齢化の進行により、生前より永代供養を希望する中高年が増えているようです。墓や信仰を継承する子孫がおらず、お墓を立てても死者の供養をして貰うのが期待できない人のために、永代供養の道を選択すします。


先祖を敬う心は大切です。今の自分がこの世に生を受け生きていられるのも、我々の先祖がいたからです。先祖を敬う心を大切にするのを疑う余地はありません。しかし長年経つと、その気持ちも薄れてきます。特に全く出会ったことのない先祖の墓にお参りしても、今一つピンときません。


やがて子孫が途絶え親族関係が希薄になると、墓参りをする人すらいなくなります。そうなると墓は手入れされず、見るも無残な姿に変わって行きます。そこで困り果てた遠い親戚の者が、墓を取り壊したいと相談しますが、離檀家料や撤去後の整地など、高額な費用が発生する場合があり、なかなか思うようになりません。費用面で折り合いがつかず、放置されたままとなり、更にお墓の劣化が進み悪循環に陥ります。


ひとたび墓を建ててしまうと、維持管理や撤去が大変なようです。根本的な部分になりますが、そもそもお墓が必要なのでしょうか。確かに墓前で祖先を敬いますが、そこには死んだ人の骨が納骨されているだけで誰も居ません。存命者のための、信仰するシンボルに過ぎないのです。


仮に存命者の信仰心を満たすだけのシンボルだけの存在であるなら、こんなに手間のかかるお墓を立てる必要はない。後々の管理を考えると一層のこと、水葬や風葬にしてしまえばいいと思う気持ちも頷けます。


信仰心は、常に存命者自身の心中にあればいいのであって、いつ、どこで、どんな形で信仰しても構わないのではないか。何の本に書いてあったか記憶はないが、こんな教祖と信者の話が書いてあったと記憶しております。


信者A「神への信仰はタバコを吸いながらしてもいいのでしょうか」

教祖「そればだめだ。信仰は神聖なるもの。タバコを吸いながらなどもっての外だ」。

一方信者B「神への信仰はタバコを吸っている時に信仰したくなりました。タバコを吸っていても信仰していいのでしょうか」

教祖「信仰はいつ、どこで、どんな形でやっても構わない。思い立った時に信仰する心が大切だ」と。


この違いがわかるでしょうか。物事の捉え方で不純にもなり純粋にもなり得る。いずれにしても信じる心が大切な様です。


認識と信じるは違います。認識は現実的に在り、それを人は在ると意識し認識ます。そこに在るから認識出来るのです。一方信じるの「信」は、漢字で人の言葉と書きます。何かが在ると言っているのは人です。それを信じているのも人です。ここで言っているのは人の言葉であり、聞いた人自身がそこに在ると認識したものでありません。


在るかもしれない、無いかもしれない。在ると思い一所懸命見ようとするが、全く自分の目には映らない。在るのか無いのか、どちらか分からないから、人の言葉を信じるしかないのです。信じる。それはその言葉が嘘でないとし、決して疑わず、人を信頼する行為です。


宗教団体の信者が良く「信じなさい」と言う。これはこの世に在るモノではないということを自らが自覚し、存在しないのを露呈しているようなものです。そして、無いモノを在るように見せなければならないため、信仰にはその対象となるシンボルが必要になります。どの様なモノがあるかは、これは言うまでも無いでしょう。


極端な話、本人が心中で信じているなら、その対象となるシンボルなど無くてもいい。しかし、無いモノを在るように説明するのにお墓やお札などのシンボルが必要となる。そこでその信仰となる対象物を作り、さも在るかの如く振る舞い、まるで、それがそこに在るモノとして認識させるようにしています。


信仰する側も、そこに何も無いと分かっていますが、その現実を受けとめようとしません。真実は目に映らず、ただ目に映っているのは、信仰の対象となるシンボルだけ。しかしそこに何かがあると信じ、目に映るシンボルを認識することにより、現実に存在するモノだと誤解している人々がいます。



(お墓の管理者は減少している)

毎年私は、母親と一緒に祖父母の墓参りに行きます。しかし、今年はとうとう母親から「止めておこう」と言われました。どうやら足腰が弱くなってきており、墓参りに行くことが億劫になってきたようです。だから私も母に付き合い、今年から墓参りは取り止めて行かない。


祖父母からすると、祖父母の直系である私は孫です。そして私の子供は曾孫、曾孫の子供は玄孫と続く。実際のところ祖父母の墓に、私の子供達(曾孫)は参らない。まさか、お墓がどうなってもいいと思っている訳ではないが、それだけ親族関係が気薄になっているのだろう。私も別に子供達にお墓へ参って欲しいとは思いません。


名前や顔すら分からない。ましてや、出会ったことも無いそんな親族に対し、わざわざお墓参りをしたいと思わないだろう。いくら直系でも、関係が希薄になれば皆そうなります。身近にいる母親が、墓参りが出来なった姿を目の当たりにすると、同じ様なことが世間で起こっているのではないかと想像します。


一般的にお墓は親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅により無縁仏化するお墓も増えていると聞きます。また、墓地不足や費用面の問題と核家族化や少子化により、今後お墓を持っていても供養して貰える可能も少なくなります。


子孫が生まれ育った場所から遠く離れ、生家に住んでいた父母も亡くなり、後継ぎがいないためとうとう家が取り壊されるようになると疎遠になり、余計にお墓の管理ができなくなってしまう。


最近は、結婚しない人々も増えてきており子孫を残せないので、自分達が死んでもお墓参りをしてくれる人すらいない。こんな人々は無縁仏化するのは必至で、運よく子孫がいてもいずれ無縁仏化するのは目に見えています。子孫がいる人は、墓参り代行業者に依頼すればお墓の管理できますが、それなら先に書いたように、お墓はシンボルとしての存在でしかなく、それを自らが認めてしまうことになる。


信仰は心理構造によって制約される。そしてそれは、状態によってではなく対象に依存しています。こうなると、お墓の存在自体すら疑問となり得ます。存在自体がとても煩わしいモノとなり、一層のこと、お墓が無くてもいいのではないかと思えてしまう。



  社会実情データ図録より

  無題.jpg



(信仰の変化)

こうしたことを考えると、お墓を立てることが絶対で無くなり、永代供養や自然葬、散骨などで弔う方法が促進されるのも頷けます。どんなに綺麗ごとを言っても、所詮人は糞袋です。口から物を食べ消化し、やがて排泄物として排泄するだけです。この行為自体を捉えるなら、人は動物と変わりません。動物より考える力が優れているだけで、人の死は人々が思う程神聖で高貴でないのです。


ならば、供養の仕方は人それぞれに在っていい。宗教や他人の価値観により左右されるべきでなく、こちらから他人にお節介を焼くものでもない。


私の父はお陰様で存命ですが、私はいつも父にこう話しています。「お墓は立てない」「葬儀は家族のみで行う」「父の死を私の親族や父母及び私の知人に知らせない」「永代供養する」と。これが私のスタイルなので、誰にもとやかく言われたくない。父も納得しています。要するに、なるべく費用をかけない方法を選択したのです。


父親は人生の反面教師でしたが、今の私がこうして生きていられるのも両親のお陰です。当然、私は両親に感謝しています。


でもいくら綺麗ごと言っても死んだら人は終わりです。死んだ人に対し、豪華絢爛に葬儀を行っても無駄に過ぎません。私は立派な葬儀を、存命者達の見栄やプライドを満足させるものでしかないと考えています。死んだ人の死を受け止め、両親から自身が受けた行為に感謝し、心の中で生き続けていてくれればいいのではないでしょうか。


私は、感謝と信仰は違うモノだと思っています。ここに在ったモノ、在るモノにするのが感謝です。感謝する対象は、天や地の恵みや人々の親切などいくらでもあります。私達は、そこに在るモノだからこそ感謝出来るのです。ですから、目にも映らず無いモノに対して感謝できません。


感謝はするが、私には信仰心がありません。そこに無いモノだからです。信仰とは、信仰するうちにやがてそれが感謝へとすり替えられて行く行動なのではないか。信仰は、最初から無いモノを在ると人々に信じさせる世界へ誘い、それを信じた人々はやがて自己欺瞞の世界へ陥る。


フロイトは「幻想の未来」という作品の中で、宗教を痛烈に批判しており、宗教的な教えを信じるべき根拠が何処にあるかと問うています。


@私たちの祖先が信じてきたのだから、信じる価値があるというもの。

A先祖代々、それを信じるべき証明が与えられてきたというもの。

Bこうした教えを信じる根拠を問うことは、そもそも禁じられているとういもの。


宗教は先祖か信じてきたものであり、それを何ら疑う余地も無く無抵抗に信じる人がいます。科学や文明が発達していない過去において、先祖たちは無知でした。無知なる教えの礎となる聖典そのものも改竄されています。その無知なる教えを信じていいものだろうか。


聖典に書いてあるから信じる。聖典に書いてあるからと言って、証明になっていないにも関らず信じる。過去から伝えられてきたものであると言うだけで、無防備に信じない方がいいのではないだろうか。


また、宗教それ自体に疑念を抱くことすら許されません。もし疑念を抱こうものなら、「罰が当たる」「未生に影響する」「信じる者は救われる」などの言葉を用いながら、人の心を恐怖に陥れ操作しようとします。心の中で信じることが大切であり、そこに理性の入り込む余地はないとさえ言う。


ある宗教は、人が罪を犯しても神に犠牲を捧げたり贖罪したりすることにより、再び自由に罪を犯せるようになります。不道徳にも手を貸し、戦争を勃発させ、こうまでして人類を支配する宗教とは一体何なのだろうか。


無いモノを在るように振る舞う、信仰のシンボルとしてのお墓は無くてもいいとさえ思える。わざわざシンボルを作り供養しなくても、祖先への感謝の気持ちが常に人々の心の中にあり、その心を持ち続けることが大切ではないだろうか。




posted by ヨッシー at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/160936953
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック