2015年11月25日

夢を語る人の3タイプ

いつも読んでいるメールマガジンに、大変興味深い内容がありましたのでご紹介いたします。


「私の夢は「○○○○○」になることです。どうすれば夢が実現するでしょうか?」コーチングをしていると、かなりの頻度で、このような相談を受けることがあります。こういった相談をされる方の多くが、なんらかの自己啓発書やセミナーに影響されているようです。

私はこのような相談を受けると、質問を1つします。それは、「では、今日、何をしましたか?」です。この質問をして具体的な答えが出てくる人は、間違いなくその夢に向かって進める人です。8割の人が、「え?」という反応をします。「何をすればいいかわからないから、相談しているのです」と。

例えば「ホテルのオーナーになりたい」という夢を持っているなら、少なくとも“ホテル”に関することや“お金”に関することを何かしているはずです。オーナーになるためにはお金が必要ですから、お金の運用や投資に関することを学ばなければなりません。セミナーを探したり、本を読むこともできるはずです。やろうと思えば、どんな小さなことでもできるのです。

しかしそういう人に限って、何もせず、ただ毎日その夢を漠然と妄想しているだけなのです。お金持ちになりたい、起業して成功したい、稼ぐコンサルタントになりたい、世界一の○○になりたい、そのような大きな夢を語る人の多くが、「今日、何もしていない」のです。

夢を語る人を3つのタイプに分類しています。その中で、現実に夢を実現するのは、1つのタイプしかありません。では、その3タイプを順番に説明していきましょう。


(1)逃避タイプ
このタイプは現状から逃げるために「夢」を口実にしようとするタイプです。

「サラリーマンが嫌だから独立したい」と言う人に多いです。現状から逃れるために消極的な選択をしているだけで、積極的に「夢」に向かう姿勢はありません。「なんのビジネスで独立するのですか?」と質問しても、「まだ探しています」としか答えられません。

(2)錯覚タイプ
先ほどの「ホテルのオーナーになりたい」というタイプです。

漠然とした夢を抱き続けているのですが、毎日ほとんど何も行動していません。この夢を実現できればカッコイイ、この夢が実現できたら素敵、という雰囲気だけで設定しているにもかかわらず、「夢をイメージすれば魔法のように実現できる」と錯覚しているのです。このタイプは自己啓発ビジネスの良いお客さんです。

(3)恋愛タイプ
夢を実現するのはこのタイプです。

1つのことで頭がいっぱいで、24時間頭から離れることなく、それに向かって毎日行動せずにはいられない状態の人です。まるで熱烈な恋愛をしているように「夢」に夢中になって、どんな苦労や逆境も乗り越えていきます。このタイプに、「今日、何をしましたか?」と聞けば、とめどもなく“やったこと”が出てきます。

些細なことでも。それはなぜか?好きだからです。好きならば周囲が止めたとしても、その夢に向かって行動するものです。これは恋愛と同じですよね?「夢を語りながら何もしない人は、結局、それが好きでないことを証明しているにすぎません。」


成功する人、夢を実現できる人は、目標を実現するために常に一つのことばかりを考えています。それも漠然と考えるのではなく、行動を伴いながらです。


世間では、「流れ星に願い事をすれば叶う」と言われていますが、ずっと空を眺めていたとしても、流れ星はいつ流れるか分かりません。たとえ見つけられたとしても、短い時間で消えて行きます。見た瞬間に願い事を言葉にするのは、なかなか難しい様です。


しかし、その突然の短い時間でも、願い事を言葉にする人も中にはいます。それが出来るのは、「目標を実現するためにはどうするのか」「目標を達成するためには何をすべきか」を常に考えているから出来るのでしょう。常時、強く、深く、長く考えているからこそ言葉を発することができ、それに伴う行動を起こすから現実のものとなる訳です。


突然現れた流れ星。その時に願い事が言葉に出来ない様では、どうやら目標や夢の実現は難しいようですね。


posted by ヨッシー at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月21日

社会的援助活動は、自己欺瞞の世界なのか?己を欺きながら生きる、なんとも薄汚い自分。


困っている人を助けるのは、人として当然のことであるが、全ての人に対して平等に支援するとなると話は別になる。全ての人に援助するのは難しい。というより出来ないだろう。



例えば、社会的援助を行う方法として、募金活動や自然保護活動、難民支援や子供への生活援助など沢山ある。これらは金銭に限らず、労働力の提供も含まれるが、どれをとっても当事者は勿論、携わる人々にとっても重要な活動となる。しかし、これらの全ての活動を、平等に援助することは不可能である。



どうしても、援助する側においてどこかで本人の意思が介入してしまうため、そこで取捨選択の意思が働いてしまうからだ。更に、個々の持つ経済力や労働力は有限だという面も見過ごせない。であるから、「世界中の人々に・・・」「日本中の子供達に・・・」「恵まれない人に・・・」のスローガンは、現実的に考えと言葉だけが上滑りしており、私にはとても虚しく聞こえてしまう。



援助を必要とする人々は、普通の人であることは誰だって承知している。 皆が幸せになる権利はあるし、見捨てることは出来ないのも分かっている。問題は、援助を必要としている人々や団体全てに、まんべんなく平等に支援することなど、とうてい無理だと援助している側も分かりきっているところだ。



援助をした人の寄附や人的な活動で何人救われようと、それは全員に行き渡らない。支援には限界があるため、援助は一部の効果を発揮するが万全ではない。ましてやこれが短期間の支援となると、あっという間に終わってしまう。



これでは、問題は一向に解決できない。たとえ、それで何人かを助けられたとしても、残りの人々はどうなるのだろうか。人に人の命は選別出来ない。しかし、どこかで選別の意思が働いている、そんな自己欺瞞と偽善的予感が濃厚過ぎるのだ。



疑問だらけに思える。



一部の者を助け出して、残された人々から恨まれるなら、一部の者を助け出すための予算を、全員に均等に配ったほうがいいのか。

それとも、一部の者だけを助けて、残りは見殺しにするのか。

果たして、人の命を選別する権利が人にあるのか。

選ばれなかった人は、どうするのか。

選ばれなかった人は、次のチャンスまで待つのか。待てるのか。

どのような基準で選ばれたのかさえ分からない人に、自己責任と言えるのか。 

援助する側は、自分の生活を犠牲にしてまで人々に援助が出来るのか。

援助されたお金が、必要のない物のために消えていないのか。

いっそのこと、何もしないで無関心でいるのか。

全てを分かり切った上で、それでも援助を続けるのか。




どれも正しいとは思えず、考えれば考えるほど自分の無力さを自覚してしまい、果てしない空虚感に苛まれる。



それでも何らかの支援を行いたいと考える自分がいる。自分の良心や本心に反しているのを知りながら・・・。それを自分に対して無理に正当化している自分と知りつつ、己を欺きながら・・・。



最近、どうしたらいいのかさえ分からない。



本当の答えなど、どこにもありはしない。多くの悲しみや不幸が存在し、かくも罪深きこの世について困り果てている。



posted by ヨッシー at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年11月18日

夢を語るだけで、人は生きられない


国、社会、地域に貢献するには、それらに貢献できる事業を行い、その事業で利益を得て、そこで得た利益を社会に還元した後、初めて社会に貢献できたことになる。


社会貢献は、事業活動が継続かつ安定して行われることにより成り立つ。それには言葉だけでなく行動が伴う。夢を語り、夢と勇気と笑顔で社会貢献が出来るはずは無い。夢を語る人々が集い、綺麗ごとを並べて、お互いにたたえ合うのが本来の姿ではない。


「いやそんなことはない、言葉で人を幸せにできる」というなら、生活に困窮しお腹を空かせて死にそうな人の前で、「夢を語り、勇気と笑顔でいっぱいにし、幸せにしますよ」と言えるのか。恐らくできないだろう。これでは、相手から馬鹿にするなと反感を買ってしまう。


言葉ではなく、先ずは一切れのパンを与えるのが先決だ。そして引き続き一切れのパンを与えられるように自分が努力する。これが本来の社会貢献である。願望や夢だけでは食べていけない。


まだ何もしていないのに人前で語り、その自己愛の誇大な願望が映し出された夢想を「自己愛的ファンタジー」という。そして語るだけで行動した気になり、現実に障害が発生すると、現実に向き合うことを妨げる」ようになる。


お花畑で綺麗ごとを言われたって、だれも幸せにできはしない。人前で夢を語る時間があるくらいなら、第三者の評価など気にせず、とにかく一人で行動すればいい。人は夢を抱いているだけでは生きられないのだ。


更に語るだけの人は、やってみなければわからないのに、最初から周囲の同意を得ようとする。なぜ、他人の賛同を得てからでなければいけないのか。他人の基準ほど、あてにならないものはないのに・・・。


そんな不確かなものは放っておいて、自分から先ず一歩を踏み出そう。やがて結果が伴い成功すれば、利益を上げ社会貢献が出来るようになる。そうすれば社会は羨望の眼差しを向けてくれる。


そうすれば、「あの人は凄い」「あの人は素晴らしい」と、勝手に人格者であるとさえ思ってくれる。それほど人々の価値観や判断基準は、曖昧で無責任なものなのである。


例えば、高学歴であることは、学校の勉強ができただけの人と思い、資格を沢山持っていることは、只の資格フェチと考え、お金持ちであることは、下品な成金と判断してしまう。しかし、この三つが揃えば最強の人格者になってしまう。特に最後のお金は重要だ。


何が言いたいのかと言うと、周囲の人がすべての基準になってしまうと、周囲と同じ行動しか取れなくなってしまうことに気を付けたいと言うことだ。それとも、人前で話すだけが目的の人は、自分自身に陶酔しているのか。


もはや、「働く」「給料をもらう」という数年前までは当たり前のこととされていた基本的な社会のルールですら崩壊しつつある。ルールが大きく変化する時代において、他人の評価など気にしてはいられない。人前で話す前に、自分に何ができるのか、自分の内面に向き合いたい。



posted by ヨッシー at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月14日

私の記憶財産


事務所の引っ越し準備のため備品の整理をしていると、懐かしいものに再び出会えた。



3.5インチフロッピーディスク。


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こいつは磁気ディスクの一種なので磁気に弱い。ある程度以上に強力な磁石を近づけると、記録されている情報は破壊されてしまう。ホコリなどの異物の付着や汚れにも弱く、記録面が汚れると情報が読み取れなくなり、破壊に至ることがある。また、高温多湿や紫外線も嫌う。更に、磁気ヘッドと接触した状態で読み書きを行うために少しずつ摩耗し、利用には限度がある。



私がが初めてパソコンを手にしたのが、「NEC98NOTELIGHT」と称した、ノートパソコン。フロッピーディスクドライブを外付けにして小型軽量化したシリーズだった。CDドライブやUSBフラッシュドライブもなく、当時はデータをこいつに記録していた。



耐久性や寿命に問題があり、記録していたファイルが突然読み込めなくなることも多く、現在の環境と比べると雲泥の差で、使い勝手は大変に悪い。



そんなデリケートな付き合いを強いるこいつに久し振りにお目にかかったため、どうしても中身が見たくなり、フロッピーディスクドライブを購入することにした。それが本日到着した。


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ネット上では、リースアップした物が安価で販売されているので助かる。



早速中身を見てみると、あの頃の自分が何を考えていたのかよく分かる。特に懐かしくもあるが苦い思い出は、借金返済についてだった。フロッピーディスクには、多額の借金を抱えていた自分の借金返済計画が記録されていた。これは大変貴重な記憶財産だ。



恥を忍んでどの程度の借金返済額だったかと言うと、住宅ローンが57,624円で、ノンバンクの返済が80,700円あり、これを毎月返済していた。その他必要な支払を含めると34万円が毎月必要であった。当時、私の給料は手取りで25万円弱。これでは、生活が破綻するのは当たり前である。



無謀にも、生活に必要な固定費用を拡大させてしまった大馬鹿野郎。しかし、この大馬鹿野郎だった思考により、人生で貴重な体験をしたことも事実である。こいつは自分への戒めとして、これからの人生を共にすることにしよう。



posted by ヨッシー at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月13日

利潤を追求するために企業は存在する


(企業として当然の措置)

育児休暇や短時間勤務などをいち早く導入してきたのが、大手化粧品メーカーの資生堂で、これは、出産後に職場復帰した女性社員を支援する制度である。ところが、資生堂は去年(2014年)4月、こうした制度について大きな方針転換を打ち出す。これは、子育て中の女性社員にも平等なシフトやノルマを与えるものである。



一つは、導入のマイナス影響により導入時期より、売上が減少している。二つ目は、一番のかきいれ時である土日に、子育てをしていない美容部員に負担が集中していること。これらを改善するためのものである。



既に、インターネット販売に出遅れた感は否めないが、これほどの落ち込みになるとは、経営陣も予想できなかったのだろう。資生堂の販売方法は、マンパワーに頼る販売方法であるため、支援制度を導入した影響は大きい。これは企業として当然の措置であり、私は賛成である。



企業は利潤を追求するために存在する。利潤をあげるからこそ社会貢献できるし、愛する人を幸せにもできる。社会貢献は利潤を確保できた結果として、初めてできるのである。



企業存続の危機を乗り切るための措置であるが、恐らく子育て中の女性の社会進出がスポイルされる結果になるだろう。でもこれは仕方がない。企業が生き残らなければ、子育ても社会保障も語ることはできない。



(核家族の増加)


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         内閣府男女共同参画局より


グラフによると、平成9年以降から共働きの世帯数が男性雇用者と無業の妻からなる片働き世帯数を上まわっている。これは女性の社会進出に対する意識変化や、経済情勢の変化などがあると考えられている。これと同時に、世帯数が増えているが1世帯あたりに人員は減ってきている。



昔は、父親だけが働き生計を立てるのが一般的だった。近年こうして共働きが増えたのも、女性の意識変化だけでなく、以前より父親の収入が下がったため共働きをせざるを得ないからだろう。これは丁度、世帯数が増えてきた時期と重なる。



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        年収ラボより 


グラフのように、日本人サラリーマンの平均年収は年々下降傾向にあり、過去の高い水準と比べると、現在の平均年収は非常に低いことがわかる。これは、現在の日本経済の伸び率が限界に達していることに加え、主にGNP(国民総生産)が低下していることが原因と考えられている。また、IT技術の発達による単純作業の機械化、企業の人件費削減のため、低賃金で有能な外国人労働者に仕事を外注する傾向にあり、こういった時代背景も忘れてはならない。



一世帯あたりの人員が減る核家族化は、都市集中による人口流動により、祖父母の地を離れる人間が増加したことによる。ニュータウンは、こうした大都市核家族の増加に対応するために造成されたのが最初である。



こうして核家族化が加速されたことにより家族単位は細分化され、祖母に子供を任せていた人も多かっただろうが、それができなくなった。資本主義経済においては、家族単位が少なくなれば、それだけエネルギーの消費も増えるし、物も消費されるので大成功したが、女性が子育を安心してできる環境が崩壊してしまった。経済成長を優先した結果、失ったものは大きい。



子育て支援と声高に叫ぶのもいいが、もっと根本的問題を解決しないといけない。核家族化を見直し、昔のような大所帯で生活してみてはどうか。エネルギー効率や子育ての面において好都合だ。子育ての問題は家族内において完結する。



企業ばかりに負担を押し付けるだけでなく、人々の生き方の問題もある。消費を喚起し、何処へ向かうのかさえ分からない経済のほころびが出始めたようだ。




posted by ヨッシー at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月09日

努力しないのは自己責任か?


(学歴は親の収入により決まる)

子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。子どもの運命は親の経済力に帰結することになり、学歴というのは親が用意した道である。本人は努力したつもりでいるが、それすら親が用意したものなのである。



赤木智弘さんブログより「努力という言葉に見る日本の落日」



この赤木智弘さんの指摘には共感を覚える。本人の努力すら親の年収に左右される訳であり、高収入の人を努力した人とし、低収入の人を努力しない人と単純に蔑むという、よく見られる「自己責任論」は客観的事実として間違っている。このイラストは核心をついている。


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                 浅川りかさんTwitterより



の収入の多寡により、子供が将来進みたい道に進むことができない。その結果進みたいと思う道が閉ざされ、将来の収入と生活レベルが決まってしまう。



我々は、「この世に生まれたい」と思って生まれたわけでないのに、偶然のいたずらによりこの世の中に生まれ堕ち、生まれた先の親の生活レベルで望みたくない生活を強いられてしまう。生まれてきた本人に何の罪もないのに、人の世とはあまりにも残酷である。私は常日頃から機会の平等はないとの考えであるが、この現象からみてもこれは明らかである。



(企業側の採用基準の問題)

親から与えられた恵まれた環境に育ち、学校の勉強ができるという基準の学歴だけで差をつける、企業の採用基準も疑問だ。未だに採用基準に大卒者以上の指定があり、高卒の初任給に大きな差をつけているのが現状である。



しかし大卒であっても理系なら専門を直接活かせることもありうるが、文系にはその可能性はゼロに等しい。なのに、何故大卒者以上でなければならないのか理解できない。ましてや直接部門ならこだわる必要はない。見方を変えれば、大卒者であればどんな大学でもいい訳である。



4年間大学に在籍していただけの人もいる中で、本人の能力を測る基準がこれだけでは、才能が発掘できるには程遠い。採用する側も、才能を発掘できる能力のある人がいない。こうなると本人の努力の問題だけではなくなり、働きたくても働けなくなる。雇用のミスマッチも、こうした企業側の採用基準にも責任の一端があるのだと思う。



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                    ある企業の求人広告


近年の企業風土は、利益を最優先するようになった。そこで利益最大化の手段として、なるべく余分なコストを削減しようとするインセンティブが働く。人件費の削減がまさしくそうで、同時に人を育てるコストもかけなくなる。そして企業は即戦力を求めるようになり、早く利益を出せと入社した者を乱暴に扱う。



ろくな教育訓練も行っていないのにも関らず。こんなことも出来ないのかと叱咤する。挙げ句の果て言われた方は、そのプレッシャーからのストレスに耐え兼ね、会社を辞めてしまう。後に職を探すが、なかなか再就職もままならず、やっとの思いで手に入れた職も収入は少ない。これでは生活するのがやっとの始末。自分自身の生活が困窮しているのに、子どもを作れというのはナンセンスな話だ。



(世界が大きく変化しようとしている)

企業は、欧米のまねごとをしているだけなのに、「グローバリズムだ」と声高に叫んでいる。日本に居ながらにしてもグローバリズムに参加できるのにも関らず、単純に海外進出を目指す。そこまでグローバル化しようと言うのなら、求人広告にある正社員というの概念も無くした方がいい。採用基準や解雇基準が旧体化したままなのに、何がグローバリズムだ。



これでは不幸になる人が増えてしまう。もっと今の時代にあった、柔軟性の高い働き方が必要である。働く人々も、古い曖昧な基準で採用し、人を使い潰すことしか考えていない企業に従属するくらいなら、会社で働くこと自体を見直した方がいい。



過去の産業革命(工場で機械を使用した大量生産方式)により世界は大変革を起こし、それが社会の変革にまで繋がった。その結果、中小の農民は、自営農から賃金労組者に転落した。家内制手工業は機械化により工場に集約され、工場労働が一般化した。



しかし、その流れも製造のデジタル化やITの発達により、終焉を迎えつつあるようだ。新通信手段と新エネルギー源の結合により、一箇所の大きな建物内に人々が集中し、そこで物作りを行う分散化資本主義は終わるようになる。世界は大きく変わろうとしているのだ。



過去の産業革命において無くなった物も多いが、新しく生まれた物はそれらを大きく上回った。今後の世界はどうなるのか。恐らく、多くの人々の労働力は必要なくなるだろう。今我々は、世界が大きく変化しようとするその中で生きている。新たな道を捜す時は過去の考え方を捨て、新しい世界が生み出す技術やシステムの中で、生きる道を見出すことが必要である。



posted by ヨッシー at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月05日

恐るべし税金


会社員もそうだが、事業を行っている者も、徴税のシステムから逃れることはできない。利益が上がれば金額に応じた納税金額が決定され、それに従い納税を行うことになる。


いくら国民の義務とはいえ、税金は事業を行う上において、十分に注意しておかなかればならない問題である。特に事業者にとっては、頭の痛い問題である。


その税金について、ネット上で上手く言い当てていたのでご紹介する。



   働いたら罰金       所得税

   買ったら罰金       消費税 

   持ったら罰金       固定資産税

   住んだら罰金       住民税

   飲んだら罰金       酒税

   吸ったら罰金       タバコ税 

   乗ったら罰金       自動車税ガソリン税

   入ったら罰金       入浴税 

   起業したら罰金        法人税   

   死んだら罰金         相続税        

   継いでも罰金         相続税 

   上げたら罰金         贈与税 

   貰っても罰金         贈与税 

   生きてる罰金         住民税 

   壊れたら罰金         復興税 

   若いと罰金          年金 

   老けても罰金       介護保険料

   老いたら罰金       後期高齢者保険料



我々は永遠にこの支配から抜け出せないことは事実である。




posted by ヨッシー at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月02日

美人と話をして美人は得だと思った


美人は得である。偶然に天から恵まれたものでも、美しい風貌を与えられた人には、大きなアドバンテージがある。勿論、日々その美しさを維持するための努力は必要だろうが、それも土台の良さがあってこそ成り立つものである。



買い物に行けば、支払う代金以上のサービスしてもらえる。店舗の主人にすぐ覚えてもらえる。なかなか手に入りにくい果物も、店頭に並ぶ前に安価で提供してもらえる。これが一度や二度なら分かるが、度々続くとなると偶然とは考え難い。



さらには、使っている化粧品は?通っている美容室は?ネイルサロンはどこ?いつも何を食べているの?洋服はどこで買うの?など、特に女性からたくさんの質問攻めにあう。お気に入りの芸能人のマネをするファンの心理に似ている。まるで歩く広告宣伝塔である。



なぜ美人はもてはやされるのか。それは、男としてブスは生殖の対象にしてはいけないからである。これは動物である人間の本能から導かれるから、危機を脱する動物的な勘、本能、身体感覚の心理が働く。



嫌なものは嫌で、見たくないものは見たくない。より良い子孫を残すために、動物である人の本能として、至極まっとうな感覚である。いくら自然のものとはいえ、美人に生まれた人は幸せである。



ここでも、世の中に機会と結果の平等はないということを確信してしまう。努力だけでは報われないことは確かにある。天は偶然の悪戯により、人生まで定めてしまうのだ。



posted by ヨッシー at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記