2015年09月29日

人生に刺激は必要だ


私は、現状を維持するのがどうも苦手なようです。


人生波風を立てず、平凡な状態で過ごすのも一つの生き方でしょうが、私にはどうも退屈でいけません。


熱しやすく冷めやすい、新しい物好きの性格が災いし、時には失敗することもあり、過去においても幾度か痛い目に遭っております。


それでも懲りずに何か新しいことをやろうとするのは、恐らく私の脳内快感物質が不足しているからでしょう。それと同時に、このままではいけないという自分がいるからかもしれません。


どうせ同じ人生なら、思いっきり刺激的に生きてみるのもいいでしょう。今までの人生を思い起こせば、沢山の失敗がありました。しかし、その失敗があったからこそ、人生に深みが出るのだと思っています。


現状維持もいいですが、いずれ死を迎える時に後悔だけはしたくないのです。


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性懲りもなく、こんなものを建てています。


未完成のためぼかしを入れてあります。完成した暁にはご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。




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2015年09月25日

自由論を読んで


本書より引用

文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にならない。


相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやりかただからという理由で、相手にものごとを強調したり、我慢させたりするのは決して正当なものではない。


これらの理由は、人に忠告とか説得とか懇願するときには、立派な理由となるが、人に何かを強制したり、人が逆らえば何らかの罰をくわえたりする理由にはならない。そうした干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、他の人に危害が及ぶとの予測が必要である。


個人の行為において、他の人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければならない。しかし、本人のみかかわる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者である。


いうまでもないことだと思うが、この原則は、成熟した大人のみに適用される。子どもや法的に未成年の若者は対象にならない。まだ世話が必要な未熟者には、外部からの危害にたいしても、本人自身の行動にたいしても保護が必要なはずだ。


人は行動することによっても、行動しないことによっても、他人に害を与えることがある。そして、いずれの場合であれ、他者を害したことについては責任を負うのが当然である。とはいえ、行動しなかった場合については、強制的に責任を負わせることには、やや慎重でなければならない。引用終り



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人には自由があると本書の中で書かれているが、これについて考えてみたい。



第一に、内面にあるものを考える自由、感じる自由。

思想・良心の自由の権利は憲法で保障されている。意義として、人がいかなる思想・信条を持とうとも、それが内心のものにとどまる限りは処罰などを受けない。いかなる身分、国籍であっても、公務員、裁判官であっても、あるいは罪を犯したものであっても内心の自由は人類普遍の権利として保護される。


何を考えていようが個人に内包されている限り、だれにも干渉を受けない。「あなたの考えは間違っている」「それは私の考え方と違う」など、この類の意見の衝突は、事実の知・不知を除き、それぞれに考えに違いがあるので、尊重しなければならない。


正しいと思われる意見や考え方が、間違っているかも知れなからだ。しばし議論をする場において、相手の意見をねじ伏せ感情をあらわにすることは、恥ずかしい行為として戒めるべきだろう。



第二に、好き嫌いの自由。

自分の性格に合った人生を設計する自由。目的追求の自由として、その人の性格に合った人生を設計する自由である。だれになんと言われようと、自分の人生は自分自身でしか設計できない。人から「あの人は変わっている」「みなと違う」などと、揶揄されても気にも留めず、自分自身の人生をデザインできる。


それにたいし、意見を述べる人は放っておけばいい。個人の自由をとおして社会に迷惑がかかっていなければ、行動すると決めた道を進むことができる。



第三に、個人同士の団結の自由。

こうした個人が集まり、団結する自由がある。憲法でも表現の自由として規定されており、集会や結社の自由も保障されている。社会的に迷惑をかけない限り、どのような目的であれ団結する自由がある。


私が、ある団体をつくり、賛同者を集め届出し、集会を行うのも自由である。成人であり、だれにも強要されたり、騙されたりしないのが前提となる。ただし、公務員は全体の奉仕者であるため、特定の結社への関与については法律で厳しく制限されており、また、暴力主義的破壊活動を行う団体にたいしては、十分な理由があれば解散指定をおこなえるので例外となる。



人の持つ自由について考えると、他人の持つ価値観や意見が受け入れられなくなる。自由であるが故、社会を通じて影響を及ぼさない限り、自由は保障されている。別に誰に迷惑をかけるものでなければ、他人から薄汚れた価値観を押し付けられるのは迷惑なだけだ。内面に自由を持つ自分自身が、その自由を奪われることになりかねない他人の意見に同調し、それを素直に認める訳にはいかない。


仮にそれを認めるということは、自由によってもたらされる自分自身の幸せの道を放棄することに等しい。


成功者達はいう。自分の歩んできた道は険しかったが正しかったと。しかし、この成功者達も、社会システムに保障されながら、自由が認められてきたから成功できたのだ。成功できたからこそ、今までの経験が生かされてきたと思えるのである。


これで結論を得られたため、その結論に基づき今までやってきたことを紐付けしているのだと思われる。成功者達がいうことは、彼らの経験が、彼ら自身に何を与えたかを示してくれる証拠だ。


勿論それは、そういった推定を可能にする根拠であり尊重に値する。しかし、それは狭義であるかもしれない。本人には適切であっても、他人には不適かもしれない。法則だから従うのでは、自分で育成し発展させることはできない。


人々は、実体験により鍛えられるものであり、従うだけでは鍛えられない。容姿、生い立ち、生きるための条件は人それぞれに違う。それを一つの型に合わせようとする行為が危険だといえる。多くの成功法則に普遍性はなく、決して万人に当てはまるものでもないといえる。



他人から言われることを素直に受け止めない人は、頑固者だと言われそうだが、別に言われてもいいではないか。絶対的確信のない、間違っているのかもしれない意見を素直に受け止める方が危険である。


私も今後は、正しいという確信が無い限り(なかなか100%の確信を持てる人はいないだろう)、人に自分の意見や考えを押し付けないようにしよう。もし間違っていれば、人に害を与えることがあるからだ。


他人への干渉は、本人が望まない結果を招きそうだと目撃した時のみ発揮される。相手の歩く先の橋が崩落しそうで、生命の危険が迫っていることが明らかなら干渉してもいい。この判断は大変困難だと思われるが、本人が望まない結果を招きそうでないのに、私が他人の権利を侵害し被害を与えた場合、それ以上の責任が生じてしまうかも知れない。


ただし、他人に被害を与える反社会的行為を起こす人の性格として、嫉妬心、偽善と不誠実、怒りっぽい性格、支配欲、独占欲、優越心、エゴイズムなどがあり、他人を貶め被害を与えるなど、これらの性格に起因した他人に危害を与える行為は、社会的な罰則や制裁の対象となる。


エゴイズムによる行為も、その責任が持てないのであれば、自分の意見や考えを他人に押し付けるのは非難されるべき行為である。他人に自分自身の経験は伝えられるが、他人を自分の思い通りにしようとしてはいけない。他人は、それぞれの個人が持つ三つの自由を尊重し、自身はその権利を守り、好きな生き方をすればいいのだ。


人はプログラミングされたロボットではない。自由意思があり、それに従い行動する生き物である。相手に対して起きた問題に責任が持てないのなら、誰にも相手の自由を侵害する権利はない。



だが、自由意思を尊重し、社会において正当な理由で目的を追求しても、不当とはいえない内容で他人を傷つけてしまうことがある。これをミルは社会制度の欠陥のせいであり、これはどんな社会システムのもとでも避けられない問題であるとしている。


従って自分の自由を尊重し、目的を追求し続け起きてしまった結果に怯むことはない。その目的を追求することが、一般的、社会的に人類全体の利益になると認められているからだ。不当な手段を用いた場合のみ、社会な処罰や制裁を受ける対象となるのである。



個人の自由を侵害する人々は確かに存在しており、人々は自分が正しいと思われる意見を述べる。押しつけがましいこの行為に辟易する。しかしその行為にたいし、都度反駁すれば角が立つ。そこでどうするのかといえば、聞いたふりをしてその場を切り抜ければいい。相手は人が内面で考えることが分からないから、どうにでも取り繕える。


そうやって聞いたふりをしているうち、相手の思い通りにならないと思われれば、やがて相手にされなくなるだろう。


ただし、相手の反感を買い誹謗されるかもしれないので、それに耐える精神力は必要となる。時には変人扱いされることもある。どうやらミルが言うように、ここが本人にとって一番厄介な問題であるようだ。



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2015年09月21日

食の選択の自由


運動会の昼食で、コンビニ弁当を子供に食べさせている親がいると聞いた。俄かに信じがたいが、どうやら事実のようである。

コンビニ弁当などの「健康な食事」認証制度の導入も検討されている様だが、都合よく作られた基準によるこの制度は、私にはブラックジョークとしか思えない。


私が子供の頃は、運動会のお昼に食べるお弁当は大変楽しみだった。巻き寿司にいなり寿司やサンドイッチにおにぎり。それに鳥の唐揚げや赤いウィンナーとたまご焼きがあり、おまけにりんごとバナナがついており、中には加工食品もあったが、子供心にとても幸せだった。

それらは、現代の様に加工食品も多くなく、母が朝早くから作ってくれた。それが今では業者に任せとなり、手作りの味には程遠いものを子供に与えている。

ライフスタイルの変化により、時間をお金で買うことができるのだが、それと引き替えに大切なものを失っているようだ。母の手作りのお弁当は、私の様に大切な思い出作りになると言うのに、その思い出がコンビニ弁当では残念である。

利便性の高さと同時に、健康を犠牲にしているのかも知れない。基本、事業者は家庭と違って「儲け」を出す必要があり、できるだけ食材にかかる費用を切り詰め、儲けを大きくしなければならない。やはりどうしても家庭料理と比べて味の質が落ちしてしまう。

事業者は「白砂糖」や「サラダ油」そして「化学調味料」などの精製食品で食材の悪さをカバーしようとする。

健康面は二の次で、とにかく利潤の追求を優先する。消費者のブランド嗜好をくすぐり、快楽を与えるための食事を提供し続ける。しかし、人は外食が多くなると、人間の舌は普段の食事では満足できない「外食舌」になってしまうとも言われている。

事業者は、添加物や化学物質の道具を手に入れた。道具は原材料と労働の間にあり、原材料の価値を商品に転化する働きを持つ。食を提供する本質に違いはないが、商品の価値や価格に影響を与える。

生産費用より高い価値で販売したい事業者は、手軽に少しでも安いものを手に入れたい消費者のための商品を提供する。そして、消費者はその味に飼い慣らされ、事業者が行う呪縛から解放されなくなる。

顧客の囲い込みは、事業者が利潤を追求する目的を果たすため存在するのだから、事業者にとって当然である。彼らは彼らにとって当たり前のことを行っているのだから否定はできない。彼らが存在することにより、利益を得ている人々がいるから尚更だ。


そうなると自己防衛するしかない。自身の体は大切な資本である。日々最大限のパフォーマンスを発揮するため、健康管理は大切である。

仕事が忙しくてお料理をする時間がないというのなら、それほどにまで余裕が持てない働き方にこそ疑問を持つべきで、お料理をしたことがないのであれば、習いにいくべきだろう。

まず正しい食事について勉強し、いかに加工食品や外食を提供する事業者がいい加減な材料で作っているのか理解したほうがい。正しい食事をないがしろにするということは、自分や家族について価値がないと思っているからだろう。

確かに現代では、お金さえ出せば食事に困らない。コンビニは24時間営業しているし、スーパーに行けば調理済みのものが手に入る。だかその行為で失うものは決して小さくなく、将来的に大きな代償を支払うことになるかも知れない。

だが、それでもいいと言う人がいるなら構わない。

食事の大切さに気付いた人、あるいは気付いている人々がやればいい。

自分で食事を作る最大のメリットは、材料を購入する際、自分の基準に見合うものを取捨選択できるところだ。100%化学物質無添加のものを選択するのは困難であるが、摂取する量を少なくすることはできる。

それともこのまま人任せで、自分の生殺与奪権を他人に委ねるのか。

大袈裟な言い回しだと思われるだろうが、これをどれほどの人が理解しているのだろうか。事業者に黙って盲目的に従うことの危険性に気付いて欲しい。

先に書いた、「白砂糖」や「サラダ油」そして「化学調味料」を使わずに作られたものは美味しい。舌先に嫌な甘さが残らない。胃もたれも皆無だ。

だが一つ弊害がある。これに慣れてしまうと、外食をしたくなくなる。外食をするとしても、行く店が決まってしまう。外食産業の方々には申し訳ないが、体が受け付けてくれないからやむを得ない。

最近、家庭料理を作る料理教室が盛況と聞くが、これは事業者任せにしない賢者が増えた証だと、私は勝手に解釈している。

それにしても心配なのが、コンビニ弁当を食べさせられた子供達の将来である。なぜかと言うと、子供達に食事の大切さを教えることのできる家庭内で、教わる機会を失っているからだ。

将来その子供達が大人になった時、一体どの様な食事をしているのだろうか。十分なパフォーマンスを発揮できず、病気になりやすい体になっているのだろうか。


医療費の削減をしたいなら、国は食事の大切さををもっと周知するべきだ。病気になったから薬品や外科手術に頼るのではなく、病気にならない体作りを行うため、どうするべきかを教えて欲しい。

しかしながら、国にそれを望むのは無理だ。市場経済において、病気になった人々から利潤を追求する仕組みがあるからだ。残念ながら、市場には多くのマッチポンプ方式が存在する。


化学合成された食品添加物の影響は計り知れない。使用の歴史も浅く、安全性が疑問視されている。

天然に存在しない化学合成添加物の毒性や、またまだリスク評価されていない蓄積性や環境ホルモン作用についても疑問視されている。
また、複合的な汚染が懸念されており、厚生労働省が食品添加物認可前に行う各種安全性試験は、食品添加物を単品でのみ供試動物に投与するものであり、一般消費者が日々、複数の食品添加物を摂取している複合作用は試験されていない。*ウィキペディアより

だが一方で、豆腐やコンニャクの様に添加物がないと製造できないものもあり、また、無添加食品が無添加でない食品よりも健康にいいという科学的証拠は全くゼロである。

日本では、短い期間で食事の内容を大きく変化させてきた。結果がどうなるのか、いわば、世界的に壮大なる人体実験を実施中というところか。

色々と考えてみたが、一つの考え方を他人に強制することはできないので、個々において自己防衛するしかないところに帰結してしまう。個々に考えればいいだけ。人によっては、余計なお節介だと揶揄されても仕方ない。


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2015年09月19日

稚拙な野党


ショーとして、なかなか見ごたえのある議会だった。


どうやら国会には、羞恥心のない人が大勢いるようだ。

あなたも羞恥心を捨て、議会運営に参加してみないか。まずは、市会議員からスタートだ。

現在、彦根市の有権者数は86,000人あまり。前回の市議選は、1,000ほどで当選している。

いかがだろう?

ある程度、地元地域に貢献していれば簡単になれそうはである。中小企業のオーナー社長なら従業員とその家族、そしてその友人達に支持して貰えればいい。

誰でも当選できるとまでは言わないが、某市の市会議員と面識があるが、あの人でも当選できたのかと、驚きを隠せない。

それは、議員になる人がいないことの証かもしれず、後継者と人出不足は、議会にも波及しているようだ。

私の知り合いが市会議員になれたことを考えると、的外れではないようだ。だから、日本の政治が劣化するのだろう。

芸能人や過去に罪を犯した人が代表者に選ばれるのは否定しないが、政治運営能力については未知数である。未知数であるからこそ、我々有権者は賢くならなければいけない。


今日も、安保法案に反対する声がスピーカーから聞こえてくる。政党名を連呼している。おまけに次期選挙に向け、事務所前で演説までやり始めた。

しかし、残念ながらあなたの声は国民に届いていない。少なくとも私には、雑音でしかない。

それにしても騒々しい。たのむから、騒音で環境破壊しないでくれ。静粛に願いたい。


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2015年09月17日

合意形成


民意は選挙で問うもの。

それ以外は暴力行為。一方向に向かう思想のデモはテロ行為。

本日の国会での野党の姿は、政治を担う器にあらず。


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民主主義の悪い面を、明らかに露呈している。

合意を形成しないと、決められないシステム。

少数意見を無視している訳ではないが、今のところ、これ以上の合意形成システムはないとされている。

だったらそれに従うしか無い。

それなら、共産主義でいいのか。

いや、共産主義は悪いことばかりではない。

共産主義は民意の合意形成を伴わないので、国家存続の危機に陥った場合、結論を出すまでの時間は短く済む。

例えば、大きな災害が起きた場合に言える。立て直しにかかる時間は短くて済む。


民主主義国家でリータシップをとりたいのなら、選挙による民意を問い信任を得るべきだ。

デモや暴力で国家運営ができるのか。

民主主義が暴力だと言うなら、今よりもっと良いシステム作るしかない。

それを行うには、長い時間をかけて合意形成する必要性がある。

しかし、100%の人が納得できるシステムなどあり得ない。

あり得ないからこそ、合意形成システムが必要となる。

今の私には、何が最善策であるのか分からない。

分からないからこそ、長い時間が必要なのだろう。

とは言え、我々の寿命には限りがある。

今の段階で行うべき行動は、選挙の際に投票行動を起こすことだろう。


最後に

野党は憲法9条違反だと言うが、徴兵制などあり得ない18条について、どう説明するのか。

第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。


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2015年09月07日

新年の誓いが守られない理由


(コスト負担の先送り)

毎年新年になると、「今年こそはダイエットに挑戦する」「仕事に役立つ資格を取得する」「今より収入を増やす」など、目標を立て今年こそはと、立てた目標を達成しようとします。しかし、時が経つにつれその目標も色あせてしまい、念頭に立てた目標が無かったかのように振る舞い、そして以前の何も変わっていない自分のままとなる。


こうなる原因の根とは何だろう。今やることを決め、決めたことを継続することにより、将来的に現状を打開し不満を回避できるのにやらないのは何故なのだろう。


これは時間的不適合性で説明できるようだ。

*時間的不整合性 (Time Inconsistency Problem)とは、長期的に見て利益になるルールを作るが、それが短期的利益と相反してしまう為、長期的利益の為のルールを破ってしまうことである。


人は現在と未来では、全く違った考え方をすることが明らかになっている。現在だと、人は衝動的に行動し、感情と目先の欲望に大きく左右される。未来だと、今やらなければならない、今耐えなければならい必要のある、少しばかりの時間損失や精神的不快感、肉体的負担は、特に緊急性がないと考えてしまう。時間的不整合性は、そういった場合に起こる。


人は小さな行動(コスト)を先送りにし、将来の自分にコスト負担させようとしてしまう。将来のメリットが生ずるのは、今のコスト負担によるものであり、未来を見据えて今日を生きるなら、明日まで待つのが理にかなっている。


残念なことに、今コストを負担しない人は、今日が明日になれば、また同じ意思で支配されてしまう。世の中には、もっと有意義に使えると思われるお金の使い道の誘惑が多いのも影響している。


ダイエットを決意し目標を立てるが、食欲に負けた自分は、高カロリー食品や甘いものに手を出してしまう。長期的には、健康にもよく、見た目も良くなり、活動的になることで経済的効果も期待できる。「今年こそは起業する」も、新たな行動のための時間や労力の負担が生じる。今まで、趣味や娯楽に使っていた時間を減らし、今まで以上に労力を用いなければならない。場合によって、睡眠時間を犠牲にしなければならい。「そんな時間はない」というのなら、それほどにまで余裕が持てない働き方にこそ疑問を持つべきだろう。


それすらままならず、今まで通りに過ごしていると、今日が明日となり、「明日から明日から」と、問題を先送りした結果、何も変わっていない自分のまま新年を迎えることになる。


また、ここでは他人に価値観の基準を委ねないことも大切である。他人から、褒められたり認めてもらえたりすると、頑張ってよかったと達成感で苦労は吹き飛ぶという人がいる。これは第三者に認めて貰いたい強い承認欲求があるためで、価値観や達成感の基準が他人任せになり、そこに自己基準はなくなり、他人のために生きることになりかねない。それは止めた方がいい。



あるウェブサイトに書いてあったが、目標を達成出来ない人は、現状にポジティブで未来にネガティブであるという。達成出来る人は、その反対となる。将来の楽しみに重要を置いていないからそうなる。


人の目標を未達にする誘惑は世間に溢れている。そこでの誘惑に負けたひとは、将来の誘惑の可能性に対し、どうせ明日も誘惑に負けるのだから、今日も誘惑に負けるのも同じだと考えてしまう。自分には実現できないから、今が楽しければいいと脳に命令してしまい、その結果、負のスパイラルに陥ってしまう。


目標は果てしなく遠く不確実性が高いため、強い自制心が働かないと達成は難しい。自制心は使うと疲れる。筋トレや運動習慣と同じく、慣れてしまえばいいが、疲れに勝てず諦めてしまうから続かない。見方を変えれば、筋トレが続いている人は自制心が強い人だと言える。



(どうすればいいのか)

では、どうすればいいのか。それは、目標は果てしなく遠く不確実性が高いなら、そのハードルを下げればいい。今耐えなければならい必要のある、少しばかりの時間損失や精神的不快感、肉体的負担を少なくすればいいのだ。


ダイエットなら、間食を1回だけ止める。5分だけ歩く。駅まで歩く。起業なら、30分だけ起業のための勉強をする。毎月1,000円ずつでいいから起業資金を貯蓄する。とにかく、負担となるハードルを下げ、毎日これだけを続ける。そうすることにより、自制を用い小さな達成感が得られた結果、行動が習慣化し身体が慣れてくる。何かやらなければ、不安感が生じてしまうようになれば、行動が習慣化した証である。


今の犠牲なしに、将来の目標が実現するなんて100%有り得ない。リビングに寝転びながらポテトチップをつまみ、毎日酒場でビールを飲んで愚痴をこぼしているようでは、目標を達成できない。自分に対し、何らかの犠牲が伴わないと実現は無理なようである。



(無責任な成功者たち)

長々と書きましたが、巷にある成功本によく書いてある内容です。努力して実践した後、成功者になった人は確かにいる。彼等からすれば、成功していない人々は貧乏人である。しかし、これらの議論は印象をもとに持論を展開しているに過ぎず、これを実践したからといえ、万人に結果が出る訳ではない。


成功者たちに、「努力が足りない」「やる気がない」「もっと自分に厳しく生きろ」と精神論に終始する連中は多い。そう言った人達は、今自分が生きている安住な立場があるからこそ言えるのであり、そこで厳しいことを言うのは簡単だ。


厳しいことを言う先進国の人達は、過保護なくらい各種の社会保障制度に保護されており、それに甘えている。それらがシステムとして組み込まれているから気付いていないだけなのである。


飲み水で病気になる確率は低く、下水道は完備しており汚物を水で流すだけですむ。明日の食料の心配もいらない。そのおかげで、生活以外のこと専念する心のゆとりが生まれる。自分達の自制心や決断力をあてにする必要は殆どないからだ。


社会保障制度の受益者である甘ったれた人達が、貧乏人や失業者に厳しいことを言うのは、お気楽過ぎて滑稽なことだ。普遍的な成功法則など、この世には無い。たとえあるとしても、それは自分自身で歩んできた道筋の中でしか当てはまらない。


更にここで残念なのが、貧乏人たちは、安直で楽に成功できる方法を求めようとする。成功法則などないのに、そればあるように見せかけるだけのビジネスに騙されているのも知らずに求めようとするのである。


成功法則は何処かにあるはずだと、求めようとするその気持ちがあるからこそ、更に彼等を裕福にさせてしまうのである。私も無責任なアドバイスに気を付けたい。



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2015年09月05日

食事はバランスよく


私は、栄養素は食事からバランスよく摂取するのが一番いいと思っている。食事は、器、盛り付け、匂い、食感など、多くの満足感と幸福感を提供してくれる。健康を保つため食は全ての基本となるから、食事は健康管理に大切な要素である。なるべくなら食事から栄養を摂取したいものだ。


しかし、どうしても栄養が不足しがちになり、バランス良く摂取することができないのであれば、健康食品の世話になることもあるだろう。なにかと忙しい現代人にとって、必要な人も中にはいるからだ。個々のライフスタイルに合わせて用いればいいだけであり、健康食品を否定しない。


だがここで、健康食品を販売している人に問題がある時がある。医薬品のように、効果効能をうたってはいけないのに、「高血圧が改善する」「若さが保てる」「血液がサラサラになる」など、効果効能をうたうセールストークは沢山ある。


実際に私も直接聞いた。「私はこれ飲んでいるからお昼ごはんを食べなくても大丈夫」「元気で長生きの秘訣はこれ」「アレルギーが治った」などという。今になって思えば、よくもあんな出鱈目を真顔でいえたものだ。


明らかに薬事法違反である。健康食品を摂取することで病気が治り、明らかな改善効果が認められるのであれば、それはもはや健康食品ではなく医薬品だ。医薬品なら、「薬剤師」、あるいは最低でも「登録販売者」の資格を持った人間が監督する下で販売しなければならない。


健康食品を無資格の人が販売できるのは、薬効の証明ができない健康食品だからである。医薬品ではない。従って、いくら症状が改善されたからといっても、因果関係が証明できない以上、効果効能はうたえない。


勿論、大多数の販売員の方は、会社側のガイドラインに沿って営業マニュアルとおり営業していると思うが、明らかなオーバートークを聞くと、それがどの程度会社管理のもと適正に運用されているのか疑問である。



健康食品だからといって、全てが安全ではない。中には、有害物質が含まれている製品が存在しているという。また、医薬品と併用すると、医薬品の効果が減弱したり、医薬品の副作用が増強される場合もある。さらに、自然由来成分だから安心との誤解もあるようだが、そうではない。アレルギー反応を起こすものや、最悪の場合人を死に至らしめるものもある。栄養バランスを度外視し、過剰摂取すれば過剰症の起こす危険性も高くなる。



私は最近、ミネラルウォーターを商材にした、あるビジネスのお誘いをいただいた。折角だが、お誘いはお断りした。効果効能がうたえる訳もない水に対し、決して安くない金額を毎月支払いたくなからだ。世界でも有数で安全で安い水が、水道の蛇口をひねるだけでいくらでも飲める日本。世界ではこれは当たり前でなく、我々は日本の素晴らしいインフラ整備にもっと感謝すべきだ。



商材に惚れ込むあまり盲目になって何も見えなくなり、いつの間にか誰のためにその商材を広めたいのか、自分自身も分からなくなっているのではないか。「あなたのためだ」といいながらも、その心の奥底には自分自身の利益が見え隠れしているように思える。一部強引な販売方法が存在していると聞くが、それがその証だろう。


健康食品の販売は、大きく解釈すれば人の命をあずかることである。購入した人がそれを摂取することにより、健康被害を受けるかもしれない。そのリスクを考えると、私にはこの仕事は恐ろしくてできない。果たして、この仕事の従事している人々は、その覚悟が出来ているのだろうか。



最近の野菜に含まれている栄養素は少ないと、危機感を煽るばかりではいけない。日本には、昔ながらの農法により栄養素が多く含まれている野菜は沢山ある。トマトが甘い。ホウレン草やレタスも土の香りがする。


健康食品に頼るばかりでなく、そういう食材がどこに行けば手に入るのか、その食材を使った簡単な調理法はどう行うのか、それを紹介する方が、より人と市場にとって健全ではないのか。


  健康食品による健康被害の未然防止と拡大防止に向けて

  *厚生労働省ウェブサイトより




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2015年09月03日

善と偽善の違い


(考える勇気をもて)

*「自分で考える勇気より」引用

カントが生きた18世紀は、啓蒙運動の世紀だった。啓蒙運動とは、日本語で「蒙を啓く」と表現されているとおり、物事を見極めること無く宗教や習俗に従うままの人間のあり方(蒙)に対して、光をもたらすことです。そして、ものごとを明るみで見定めることによって、人間を迷走から解き放ち、人間社会を理の通ったものにしようとする思想運動です。


彼は1784年に書いた論文「啓蒙とはなにか」で、啓蒙運動のモットーは「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」だと記しています。「悟性」とうい見慣れない用語が出てきますが、これは人間ひとり一人が持っている「理解する能力」を意味します。私たちが何かを理解するには「考える」ことが必要ですから、このモットーはひろく「自分で考える勇気をもて」と言い変えることができるでしょう。


カントがみなさんに「自分で考える勇気をもて」と呼びかけたとしましょう。みなさんはこの言葉をどう受け止めるでしょうか。はいはい、自分で考えればいいのでしょ、かんたんなことです。こんな簡単なことに「勇気」とか、大げさじゃないですか。そう思うでしょうか。


(ベーコンのイドラ論)

まず、自分で考えるのは、簡単なことでしょうか。この問題を考えるには、カントが生まれるまえより、およそ100年前に亡くなった哲学者、フランシス・ベーコンの有名なイドラ論を参照することが有効でしょう。彼は、学問や技術に大きな革新をもたらそうと企てましたが、そうした革新の出発点を確保するために、私たちの精神が抱いてしまっている先入観(イドラ)を拭い去ることが必要だと考えました。


精神が先入観でゆがんでしまっているとき、わたしたちはものごとを正しく理解できないからです。ベーコンは四種類のイドラがあることを指摘します。


第一に「種族のイドラ」で、これは人間のくせのようなものです。実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、衝撃的なできごとや自分の思いに引きずられたりして、人間は多くのものごとを見落としてしまいがちです。


第二に「洞窟のイドラ」で、これは個人がそれぞれもっている傾向に由来するものです。個人がなにかに関心をもち、なにを愛好するかは、ひとそれぞれですが、そうした傾向によって私たちの視野が狭められてしまいます。


第三に「市場のイドラ」で、これは人間たちが交わす言葉が適切に定義されていないことに由来するものです。ベーコンは、これをもっともやっかいなものだとしています。私たち人間が言葉なしには考えられないことを踏まえるなら、不適正な言葉の使用が私たちの思考に生む弊害の大きさが予想できるでしょう。


第四に「劇場のイドラ」で、これは「学説のイドラ」とも言いかえられます。劇場で上演される演劇にまとまりがあるように、哲学上の学説を上手にまとめてしまうと、ときに人を欺く議論が生み出されてしまいます。


ベーコンの指摘するイドラは、私たちの知性に影響を与え、それを支配しています。それを拭い去らなければ、新しい学問は出発できません。しかし、私たちがなにかを考え始めるとき、人間や自分のくせを理解して、それをあらかじめ矯正することなどできるでしょうか。新たに言葉の定義から問い直すことなどできるでしょうか。


世間で有力な学説に寄りかかることなく深く考えられるでしょうか。まとめて言えば、先入観なしで私たちは考えられるのでしょうか。いや、それがいくらかもできなければ、〈自分で〉考えることはできません。だからこそ、自分で考えることは容易ではないのです。*引用終り


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(自分で考える難しさ)

自分で考えるのは勇気が必要であり容易ではないと言っています。世間において、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」など、人々は考えることをせず、何ら疑うこともせず言われるがまま従い、安易に権力や権威に跪きます。自分で考えようともせず没個性的になり、他人に従うことで楽な生き方をしてしまう。


人は歳を重ね、やがて大人になり外見は立派に見える。しかし、世論に惑わされ自分の考えをもたない人々が、果たして立派な大人と言えるのだろうか。


認識論において、「人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという」これが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、「人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた」こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。


平たく言えば、発想法を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることをいう。発想法を変えると、物事の見方が180度変わってしまうような場合さえあるのだ。


人生における経験は仮説の繰り返しだ。仮説を繰り返すことにより、真実に近づくと思えるかもしれないが、目に映るもの全てが真実かどうかは分からない。私たちの考えは、先のベーコンによる「四つのイドラ論」に支配されているからだ。


時間、空間、因果関係などのように、経験に先立ついくつかの前提が必ず備わっているというものだ。こうした前提がなければ何物をも知りえない。しかし、それがあるために、あるがままの世界を認識することはない。私達は知り得る世界は〈先入観〉という眼鏡を通して見たものにすぎず、ただ、私たちにとってのモノとして世界を知るのみだ。


カントは「物自体」と「我々にとっての物」を区別し、目に映る物が対象物の真の姿に似ている保証など微塵もないという。カントは自分で考えることができるのに、人ひとりにつきまとう先入観による考えの未熟さを指摘している。


四つのイドラ全と向き合い、そこから自分を開放し考えるのだという。世間には多くの情報がある。まるで洪水のように押し寄せてくる。その世間の常識や一般論、インターネットやメディアから流される多くの情報、無責任な人々からの伝聞などを用いれば、自分の考えを持たない人にとって楽に過ごせる。


だが、それは「知識」といわれているものであり、知識は考えでない。知識は考えるための要素に過ぎず、考える上で大切なのは、自分を四つのイドラから解放し、先入観という眼鏡をかけず、経験というフィルターを通して考えないことである。さもないと、それらに支配され、真実がどこにあるのかさえ分からなくなってしまう。



(善と悪の判断)

「善く生きる」といわれるのは、大変に立派で行為である。困っている人や友人を助けるはよいことかもしれない。人を欺き利己主義に陥るのは悪になるのかもしれない。人が日々生きる上において、善悪の判断に関っている部分は大きい。


ここで疑問となるのが、「善を行え、悪を行うな」という、我々が小さい頃から教えられたこの言葉だ。私たちは、「道徳的な善悪に普遍性があるのだろうか」。あるいは、「道徳的な善が普遍的なら、どうして悪いことをする人がいるのだろうか」という問いに巻き込まれる。


道徳とは、人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している正邪・善悪の規範であり、個人の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。


しかし、どうして嘘をついてはいけないのか、悪いことをしてはなぜいけないのか。人は悪いモノは悪いというが、それは何ら答えになっていない。この問いに、明確に答えられる人は少ないと思う。


ここでカントは、一番善いことを「最上善」と呼んだ。これは、いつでもそれとして望ましく、他の何ごとかのかのために望ましいものでないこそが究極の「善い」ことだとしている。それは誠実であり、嘘をつかないこと、困っている人を助けることであり、総じて道徳的に行為することである。


困っている人を助けるのは、それ自体が「善い」のであり、助けられた人から感謝され、自己満足を満たすべくものでもない。道徳的に行為するのが「善い」のである。


そしてこの本の中で、「善いこと」と「偽善」について言及している。例えば、ボランティア活動それ自体の見た目は「善」と捉えられるが、それは本当に「善」なのだろうか。ボランティアは、各自の意思に基づき自己犠牲を伴いながら、他人の幸福実現のための行いである。しかし、ここで、「善」と「偽善」の分かれ目となるのが、これを行うことで「有名になれる」「就職活動に有利になる」「会社や個人のコマーシャルになる」など、どのような意思に基づいて行為が行われるかである。


人の行動や結果ではなく、その人がなぜその行為を行うのか、その行為自体を引き起こした本人の意思のあり方が問題になる。無制限に「善い」ものがあるとしたら、それは「善い意思」だけであり、「善い意思」は悪い意思に変えるものがなにもない。それは「善意」ではなく、それ自体が「善い」ものとして扱われるから悪いものに変わらない。


「何もしない、やらないより、やる方がいい」と活動自体を肯定する人がいるが、それは「善い」意思があればこそであって、そこに「善い」意思がなければ、「善」ではないということになる。これでやっと偽善の意味が理解できた。


企業個人を問わず、多くの社会貢献やボランティア活動があるが、活動を行う人は意思を自分自身に問うてもらいたい。そこにもし、会社や個人の利益や広報活動並びに自己実現の意思があるとするなら、それは「善い」ことではない。私だってそうだ。会社で環境貢献や寄附活動を行っているが、よく考えるとこれらも「善い」ことでなく、世間体を取り繕い、自己の欲望の実現の手段に過ぎなかったようだ。


世間で行われている貧困者の救済、アマゾンの熱帯雨林の保護、街のゴミ拾いなど、様々なボランティア活動があるが、全てにおいて意思のあり方が問われるのだ。もし仮に、それらが偽善的活動だとすれば甚だ迷惑な話で、善意の押し売りとなる。人が行う活動が、経験と先入観によって左右され、最後にはその人が持つ欲求を満たす道具に成り下がってしまうからだ。


始末に悪いのは、それは活動している本人にしか分からないことである。だが、「善い」「偽善」は自問自答し確認することができる。唯一欺けない存在は、自分自身だからである。ボランティア活動を行うなら、世間から認められたい、他人によく思われたいなどと考えていないか、それ自体が「善い」ものであるのか、自分の意思に問いかけてから実施した方がよさそうである。



蛇足ですが、先日行われた安全保障関連法案に反対する市民団体が行ったデモの参加人数は、12万人と報道されています。でも、ここで考える人は、本当だろうかと疑います。報道にも書いてありますが、「主催者側が12万人参加したと発表」とあります。


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一体、真実はどこにあるのでしょうか。




posted by ヨッシー at 12:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年09月01日

寄附金で貧困問題は解決するのか?


(日本国内の現状)
現代の日本では、食品が豊富にある。しかし、その食品も様々な事情により、全ての国民に有効に届けられているのではないようだ。規格外、欠品対策のための余剰生産、消費期限の問題、材料ロスなど、多くの問題を孕んでいる。


一番排出量が多いのが食品製造業で、農林水産省から発表されている資料で知ることが出来る。そこで大量に廃棄される食品に対して、食品リサイクル法を施行し、食品廃棄物についてリサイクル目標が業種ごとに定め、食品資源の有効利用を促進させるべく制度が構築されている。


 食品廃棄物の発生量等について

 *農林水産省ウェブサイトより


 食品廃棄物等の発生量及び再生利用の内訳

 *農林水産省ウェブサイトより


業種毎にリサイクル目標が設定され、この中で飼料化(動物のえさ)の利用が一番多い様だが、食品の持つカロリーを有効利用するためには、今のところこの方法が一番有効なようだ。


日本国内において、食品が満ち溢れているように見えるが、しかし、その影には、生活苦のため、十分な食品を手に入れることが出来ない、人々も存在している。そもそも食品は、人々の生存するために製造されるものだ。食品の本来の姿として、リサイクルや有効利用する以前に、人々の口に届けらなければならない。これは正論だろう。


そこで一つの方法として「フードバンク」活動がある。この活動は、低所得者やホームレスのシェルター、児童福祉施設、母子緊急生活支援施設などに対し、配布する仕組みを行う団体である。日本に数十社あり、こちらから団体を確認することが出来る。


 各フードバンクの紹介

 *農林水産省ウェブサイトより


日本において生活困窮者に対するセーフティネットが充実しているとは言い難く、また寄附する行為自体も欧米諸国を比べ少ないと聞く。そこで貧困者対策の一つの方法として、フードバンクが推進されている。フードバンクとは、売り物にならない食品を食品業者から譲り受け、必要とする施設に無料で配るという活動を行うことである。


もちろん、食品の安全性は担保せねばならず、消費・賞味期限内のまだ食べられる食品しか受け取らず、期限が切れているもの、残りの期間が極端に短いものは提供されない。素晴らしい取り組みのようであるが、私なりに考えてみたい。



(活動の問題点として)
フードバンクの仕組みをより強固に確立したものとするためには、以下の要素をどうクリアするかにかかっている。


■食品を提供する企業

フードバンク活動の発展のためには、活動に関する認知度と品質管理や安定供給を始め、食品関連企業の協力・支援が不可欠である。活動の趣旨を理解してもらう企業への働き掛けや、品質保持の方法、転売の防止、提供数量など、企業側の意向に配慮した活動を展開することが重要である。


品質保持や転売されないこと等が、支援の条件として多く指摘されている。事故が発生した時や輸送コストをどちらが負担するのか、また、安定供給をどの様にして行うのかが課題となっている。相互の信頼関係において実施されている場合もあると聞くが、責任の所在を明らかにしておかないと、企業側にリスクが発生することになる。


安定した提供を行っていくためには、責任の所在や費用の分担について明確化した文書により合意できるが、一度事故は発生すると、団体のみならず企業イメージも失墜する恐れがあり、その後の活動が困難になりかねない。その対策として、賠償金の支払制度を設けるが、損害保険に加入すると費用負担が生ずることになる。


配布した商品で事故が発生し、企業イメージを損ねる結果にならないよう、責任の明確化と企業に対し、どのようにしてインセンティブを与えられるか、そこが課題となる。企業にとって食品ロスが全くないのは理想であるが、製造工程やサプライヤーとバイヤーの関係や市場の仕組みにおいて、ロスをゼロにすることは困難である。


勿論、企業としては、消費者に正規品を正規の値段で購入して貰うのが一番いいはずだ。いくら無償とは言え、非正規品(廃棄製品)が配布されれば、正規品が購入されなくなる。そこで企業は市場のバランスを保つため、あえて食品を廃棄している場合もある。企業側の諸事情を考えると、参加に後ろ向きなのも頷ける。



■活動組織の透明性と公平性

提供された食品を適切に分配する「フードバンク」だが、運営主体を立ち上げようと考えた場合には、@組織理念・目的の設定と共有、A準備委員会の設置、B既存フードバンク運営主体からのノウハウ取得を行うことが重要である。


同時にフードバンク活動を始めるため基本的には、事務所、食品を保管する場所、食品を運搬する車両等が必要となり、不定期に発生し数量が安定しない品目が多岐に渡る場合、食品を保管する必要性が出てくる。それらの設備には、当然維持管理コストもかかる。また、品質管理は重要課題で、支援を受けた食品によって事故が発生した場合、支援団体のみならず提供者にも被害が及ぶ可能性は否めない。


更に多岐に渡る品目を、いつ、何を、どれだけ、誰に配るのかに配慮しなければならない。食品の提供先に関する明確な基準や優先順位を儲け、その基準を公表し公平性を担保しなければならず、これが適正に実施出来ないと、より人件費や時間のかからないところが優先され、供給のミスマッチが起こるかもしれない。受益者のニーズを把握し、全員が納得出来る基準を示す必要性がある。



■受益者とのバランス

最後に、需給バランスの問題がある。受益者が供給者より支援を受け食品を受取る際、消費しきれない量や、よく知らない所で製造された食品、受益者の嗜好、食品アレルギーの有無、栄養のバランスなどの問題である。


受益者側と供給者側において、同じものを大量に貰っても、全てが一度に消費出来るわけでなく、栄養のバランスも考えなければならない。満腹感を得るためにだけ同じ栄養素や、カロリーの高いものばかり食べていては、受給者の健康に影響する。より文化的で人間的な生活を営むためには、やはり食品の持つ栄養バランスについても考慮したい。


あってはならないことであるが、受給者のニーズに合わない結果、配布された食品が廃棄されるとなると、食品ロスをなくすための活動の意味を無さなくなる。受益者側のニーズについては、出来る限り正確に把握し、お互いの認識の相違により新たな食品ロスが発生しないよう配慮する必要がある。


人の欲望の中で食欲は、人それ自体の生存に直結する問題である。だからこそ食に対する欲求は強く表れる。しかし、人は生物学的には動物だが、思考と理性を持っているので動物と違う。だから人は、食欲を満たすためだけに食べ物を食すのではない。


日本国憲法において、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。必要最低限度の生活とある中で、需給者が「適切な栄養を得ているか」「自尊心を保つことができるか」の問題点を指摘したい。生存するためのだけの支援活動に留まらず、健康で文化的な生活を営めるように支援されたい。量の確保も大切だが、同時に質も大切である。人は美味しい物を少しだけいただくことにより、幸福感を味わえるのだと思うが如何だろうか。



(活動の盲点)
何故この様なことを書くのかと言うと、実は最近私はフードバンクを立ち上げようかと考えたのだ。しかし、現状ではこれらの問題点を解決できないので見送ることにした。ある団体の案内では、食費の節約、廃棄コスト・環境負荷の低減、食品ロスの削減などが解決できるとある。しかし、ここでは書けないが、私なりに考えると多くの疑問符がついた。


運営自体も第三者の資金援助が必要となり、独立した活動であるが人々の寄付に頼る部分が多く、自己完結型にならない様だ。確かにフードバンクにより、救われている人々は確かに一定数いるだろう。活動そのものを否定している訳でもない。救うことが出来る命を救えるのなら、それに越したことはない。


もしや、日本の社会保障システムに欠陥があるのかもしれない。日本では社会保険料負担は相対的に低く、所得水準や経済状況から日本の寄附水準が低い理由を見出すことはできないにも関らず、寄附文化が根付いていない背景がある。


 諸外国における寄附の状況と税制の役割

 *東京都主税局ウェブサイトより


こちらのデータが示す様に、日本は社会保険料負担も寄附金額水準も低い。社会システムや寄附文化の違いがある。寄附文化を根付かせ、貧困者対策として活用すればいいと思われる。だが、そう言っても寄附が万全の対策では無い様だ。


マルサスが「人口論」の中で書いている。


金持ちから貧困者へ寄付→貧困者の稼ぎが増える→貧困者の購買力が増す→食料品の絶対量は簡単に増えていない→金持ちも食する→食を得るため金持ちが買い漁る→食料品価格が高騰する→貧困層が買い負ける→結局貧困のまま。


それぞれに食糧の購買力が上がれば、買い手の間で競争が起こる。その結果、食料品の価格が高騰するが、貨幣を多く持ち購買力のある金持ちは購入することが出来る。しかし、貧困者は貨幣を多く持たないため、結局犠牲となってしまう。


寄附金を原資にして活動を行うことは、日本国内の誰かが、その活動費用を負担するのであり、必要コストが第三者に転嫁されただけとしか思えない。ボランティアの部分でカバーしている部分もあるだろうが、費用負担がゼロとはいかない。


それならばマルサスが言うように、放置された耕作地で作物を作り、それを貧しい人に与えることや、自分の家で消費される食糧を減らし、それを貧しい人に与えられるなら社会のストックとなり、自分、家族、社会全体の全てに利益を与えられる。


個々の活動のケースでは全く感知されない程、小さな問題かもしれないが、私の考え方の違いもあり、自分自身が納得出来ないからやらないことにする。様々な問題点を解決できれば、フードバンクは素晴らしい活動になるだろう。しかし、プラットフォームばかりに着目せず、私なりに出来ることを考えたい。



posted by ヨッシー at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる