2015年08月31日

こんな税があったのか!


弊社は、平成21年10月6日から5年間の森林づくりパートナー協定に参加しておりましたが、5年間の契約期間満了を以て契約更新を行わない運びとなりました。本来なら更に5年間の更新を行い、一緒にご参加いただいた2社様と活動を継続すべきでしたが、私なりに思うところがありそういたしました。


その理由はこちらです。


  琵琶湖森林づくり県民税について

   *滋賀県ウェブサイトより


いつの間にか、滋賀県民として税を徴収されていました。腹立たしいのは、この徴税について県民に周知徹底されているとは言い難いことです。ウェブサイトには、税収の使途は書かれておりますが、抽象的な内容です。税がどこへどれだけ使われたのか確認したいのですが、それがどちらで公開されているのか分かりません。


要するに、私の場合個人と法人両方で徴税されているのですから、これ以上支援する必要性がない結論に達したのです。今後は徴収された税を有効に使っていただき、森林整備技術に長けた方々に整備をお任せいたします。この税制は滋賀県のみならず他県にも及んでおります。各自お調べください。



それならば、これまでの支援金を他の支援活動に変更した方がいい。もっと身近でダイレクトに支援できる方法を捜すことにします。


一番厄介なのが、税収をはじめ集められた寄附金や募金が、箱モノや事務管理費などの間接費用に消えてしまうことです。確かに維持管理に必要な費用はあるでしょう。全くゼロにできる訳ではありません。しかし、どうせ支援するなら少しでも多く、本当に支援を受けたい人々の手元に届けられる方法を行うのが本筋でしょう。


そう思うと、どの支援方法が私にとって最適なのかよく考えてみる必要があります。より効果的、直接的な支援ができる方法を模索し、少しでもお役にたてるようにしたいですね。


更に金銭的支援のみならず、物的支援も実施できればいいなと考えています。フードバンクもその活動の一つですね。次回はフードバンクについて考えてみます。



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2015年08月27日

自動車にかかるコストを冷静に考えると・・・


最近大きな設備投資を行いました。いわば、企業当初の目標がいよいよ実現する訳です。投資金額は、高級車1台が購入できる程度です。



高級車で思いだしましたが、若い頃はいつかは高級車に乗りたいと憧れていました。私の中で高級車と言えば、あの真っ赤なスポーツカーで、颯爽と乗りこなす姿を想像していました。しかし、今となっては、もうどうでもよくなりました。



財力のある方なら、尚更欲しくなる気持ちが強くなるでしょが、イタリアのあるスポーツカーを実際に購入した社長にお聞きすると、見た目と実際に乗るとでは大きく印象が違う様です。



聞くところによりますと、車幅が広く後方視界が悪いようで、高速道路ならまだしも一般道では扱い難いと仰っていました。排気音も大きく乗り難い。だからどうしてもガレージにしまいがちになり、乗る回数は年に数回になるそうです。



私にしてみれば「勿体ないな」と思いますが、この手の車は運転するだけでなく、投資目的や所有する喜びが味わえるので、それも一つの楽しみなのでしょう。一部のスポーツカーは、本当の車好きの方が乗る車で、メーカーが持つ歴史やストーリー、官能的排気音、自身が自動車と一体になり、スポーツカーを操っているという、その感覚がいいのでしょう。いずれにしても、私からしてみれば羨ましい限りです。



しかし、最近つくづく思うのですが、車を資産として考えるなら高級車は不合格ですね。一部の高級車や人気車は資産価値の目減りが少ないのでしょうが、その他は全くダメです。車両登録した時点で、資産価値が目減りします。



そして、毎月の支払いや維持費も馬鹿になりません。乗る際のTPOを考え、駐車する場所にも気を使います。妬みによる悪戯の被害を受ける可能性も高まります。こちらのウェブサイトを見れば、自動車にかかるコストがいかに多額なのかを冷静に判断できます。


自動車ランニングコスト



ロバートキヨサト氏の「金持ち父さん貧乏父さん」の中では、とても分かりやすい言葉で「資産」と「負債」の違いについて説明しておられます。この本の中では次のように定義付けられています。



・資産:あなたのポケットにお金を入れてくれるもの。

・負債:あなたのポケットからお金を取っていくもの。



こう考えると、車を一台持っているのは、保険代や重量税、ガソリン代と多くのお金を取っていくものでしかありません。スポーツカーや高級車を所有するのが、疑問に思えてきます。そう毎日乗れるものではありませんし、仕事があると乗る時間が持てず、ガレージにしまい込んだままになります。



まさか取引先に乗って行く訳にもいきません。どうしても乗りたければ所有するのではなく、レンタカーという選択肢もありますね。一年間に乗れる時間を考えると、所有するよりはるかに合理的かつ経済的かも知れません。


グローバルオートレンタカー



かといって、所有していないと乗りたい時に乗れないのでストレスになります。財力のある人にとってスポーツカーや高級車とは、ストレス発散や趣味として楽しむためのものであり、心底から自動車が好きだからこそできるのでしょう。節税するため購入する場合もあります。しかし、自動車の使用頻度が低いなら、「潔く納税した方がいい」と私は思いますが・・・。



最後に断っておきますが、これは私の考えです。スポーツカーや高級車に乗ること自体を否定しているものではありません。乗りたい人は乗ればいいのであり、私の様に必要ないと判断すれば乗らなくていいのです。私は街中で見かけた時「あー、カッコいいな」と思える程度でいいと思っています。人それぞれの考えや生き方があるのですから、是と非で判断できないのです。



確かに我々の世代にとって自動車はステータスシンボルでした。軽自動車に乗っていると、「儲かっていないのか」「大丈夫なのだろうか」など勝手に心配していただけます。でも、人の判断基準ほど、身勝手で無責任なモノはありませんから、放っておけばいいのです。



確かに見た目は大切ですが、私の知る100万ドル以上の資産を持つ方は軽自動車でした。高級品も身につけていません。見た目はごく普通の方です。人は見かけによりません。



それに今の若者達に、「スポーツカーが欲しくないのか」と聞くと、「高額なスポーツカーのどこがいいのか分からない」と言い、「いらない、欲しくない」とさえ言います。価値観の変化でしょうが、それはそれで少し寂しい気がします。いや、これが寂しいと感じている私自身、「自動車はステータスシンボルである」と思うところが、洗脳されている証かも知れません。



私自身の結論として、自動車が動産として資産価値が大きく目減りするならば、投資を違うところへ集中し、資産を活用した仕組みを作った方がいい。そして、それが生き続けることにより、自分がこの世から去った後も、ひとつの形として家族のために財を生み出せれば素敵だと思うのです。




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2015年08月26日

選別ラインお譲りいたします。


廃棄物や有価物の選別を行う、選別ラインをお譲りいたします。

詳細はこちらから 


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国会中継が面白い


国会中継が面白い。

テレビ放送でカットされる部分や、メディアが報道しない所を見ることが出来ます。

     
       *日本防衛保守チャンネルより

くだらないバラエティ番組を見るくらいなら、こちらを見た方が絶対ためになる。

     
       *日本国防保守チャンネルより


ウェブ上では大変興味深い様々な動画がアップされている。コンテンツも多種多様で、視聴者は見たい動画を見たい時に見ることが出来る。テレビの様に放送時間が限られていない。どうりでテレビを見る必要が無くなってきた訳だ。


テレビをよくみるのは高齢者であり、昔から若者はあまり見ていなかった様だ。つまり、テレビ視聴時間は「高高若低」と言える。50代以上から増え、60代、70代はテレビの依存率が高い。反面、インターネットそのものに接触する時間は過去に比べ増えているが、今も高齢者の総接触時間は短く、若い世代ほど総接触時間が長い。


こうなると、番組作りも視聴する年齢層を考慮しながらとなる。そうなれば、偏った番組内容になるのは必然であり、国民が本当に知りたいたい内容が放送されず、国民の知る権利が保障されなくなる。


今後、インターネットが更に普及し若者達の接触する時間が増えると、高齢者から若者へ世代交代が起きた時、テレビの存在自体が危うくなるかも知れない。更に、近年ではスマートフォンが普及しており、若者は使い慣れている。確実に起こる世代交代が進んだ際、今の若者がテレビの視聴にシフトするとは考え難い。


テレビ局の収入は、企業からの広告収入に依存るところが大きいが、「テレビ広告は自社の売り上げ増に、本当に役に立っているのだろうか」という疑問がスポンサー企業に生じている様だ。


インターネットの普及で必ずしもテレビから情報を得る必要が無くなり、かつての黄金時代も終焉を迎えつつある。視聴者本位という本来の的を外すと、負のサイクルが加速されることになる。


また、インターネット放送局は、広いスタジオや放送機材、基地局など必要なく、誰でも低コストで簡単に参入できるのが利点だ。


相も変わらずテレビはつまらない番組ばかり。雛段に並んだお笑い芸人達のどうでもいい会話や、ニュースかバラエティかよく分からない番組が多い。無料で視聴できるからかも知れないが、もう少しコンテンツを見直し充実させ、思い切って有料化にすれば番組作りも変わるのではないだろうか。


いずれにしても私は殆どテレビは見ない。NHKのニュースを30分程度見る程度で、あとは読書かインタ―ネットで情報収集するのみ。最近では、我が家にあの大型受信機が必要なのかとさえ思う。


リビングに大きな画面を晒し出し、部屋のスペースを大きく取っているのもどこ吹く風。不作法に存在を主張している圧力に耐え難くなってきたからだ。




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2015年08月24日

老後に備える

「老後に備える」その老後とは、一体いつを言うのか。



(老後の明確な基準はあるのか)

人間誰しも必ず老いて行く。体はみすぼらしくなり、体力は衰え、若い頃の様に言うことを聞かなくなる。だがそれも自然の摂理として、受け止めるしかない。誰一人として抵抗できない自然の摂理である。人は誰でも必ず老い、やがて死を迎える。


ただ疑問に思うのが、老後、老後と人は言うが、それを年齢という数字だけで表せるのだろうか。


老化のスピードは人それぞれにあり、個々に違う。50歳代で老人に見え、生気のない人がいれば、90歳代でも活発で若々しく、未だ成長しているのではないかと思えるほど、元気な人もいる。そういった風に、老化現象は個人差がある。だから、その時期がいつなのか第三者に決められるモノではない。いや決めて欲しくない。


「老後のプランは」「定年後に備えて」など、余計なお世話だと言いたくなる。その背景には、老人ビシネスで利益を得ようと、虎視眈々獲物を狙う業者の欲望が垣間見える。



(従順な労働者を生み出す教育)

戦後復興を目指すため、国は資本を一箇所に集中させるべく、従順に働く労働者を作りだし確保してきた。学校教育は、企業のもとで働く労働者を作るためのシステムであり、企業に勤めるのを前提にし、従順な労働者を育てるための方法である。


そして教えられた価値観のもと金太郎飴のように同じ考えを持つ人が育ち、多くの人々が没個性的になる。その教育を受けた人々は企業の中で働きながら、与えられた環境の中で個々に幸せを感じ、明日こそはと今より幸せな未来があると信じ、夢を描きながら働いていた。


しかし、いくら一生懸命に働いても、肉体が滅びる時期が近付くにつれ老化が始まる。老化により生産性が低下した労働者は、企業にとってお荷物でしかない。そこで企業側が設けた定年制度により強制的に第一線から退かされるようになる。


人々は、その定年制度を当然の如く受け入れた。そして、今までの功労に対する企業からの敬意として退職金を受け取り、保証されてもいない老後の幸せな生活を夢見る。


定年を迎えると労働者でなくなる。全く労働せず金融資産や不動産収入もなければ、一消費者でしかない。それでも労働しなくてもいい環境に満足し、夢にまで見た解放感と充実感がしばらく続く。毎日が日曜日である。会社に縛られることはなく、嫌な上司の叱責を受け、ダメな部下の管理や顧客クレームもない。趣味や娯楽に勤しみ、明日は何をしようかと気分が高揚する。


健康でありまだまだ元気であるのに、ある一定の年齢に達すると労働しなくてもよくなるなんて、こんな生き方で本当にいいものだろうか。


しかし今日では、どうやら定年後の人生は安泰でないようだ。右肩上がりの経済成長を続けるていた時代において、企業と個人はそれぞれの相互信頼のもと健全な労使関係が続いていた。終身雇用が続き、定年退職後に一定の金額を受取れると信じていた。互いの明るい未来が約束されたものであるかの如く振舞っていた。


しかし、どうだろう。今の社会はその相互信頼関係は崩れ、欧米の資本主義を是とする社会において幻想と化し、企業と個人の間において互いに牽制し合うようになる。企業は業績が悪くなると、冷酷にも人を解雇する。冷酷な企業の雇用体制によって労働者は企業に対する忠誠心は無くなり、人が育たなくなる。今の社会でこの問題が顕在化し、過去の約束や決め事が嘘のように崩壊した様に思える。



(休日の意味)

私は思うが、毎日が日曜日だと、生きていることのありがたみがなくなり、かえって苦痛になるのではないか。


昼間のスポーツジムは老人達の溜まり場となり、そこでの会話も、やれ登山だ、ゴルフのスコアだ、飲み会の段取りなど、趣味や娯楽の時間を消費するのに事欠かない。時間を持て余しているからだろうが、人間あんなにも、趣味や娯楽だけで時間を潰せるものかと感心する。私には一種の拷問にも似て、絶対に出来ない。


私の義父は典型的なサラリーマンで、65歳で定年を迎えた。最初のうちは趣味や娯楽、奉仕活動などを行い、生き生きとしていた。しかし、途中で様子がおかしくなり病院で受診すると、アルツハイマーと診断された。わずか定年から3年でアルツハイマーを患い、その後2年程で他界した。


現役時代は、ギャンブル、女、酒、娯楽の悠々三昧。今思えば、それも仕事があったからこそ成り立っていたのではないのか。人を木に例えるなら、人生を有意義に生きるための根と幹として仕事が存在し、枝葉は娯楽や趣味と考えたい。しっかりした仕事(根と幹)があってこそ趣味や娯楽(枝葉)があるのだ。


仕事(根と幹)だけで、娯楽の一つもない人生はつまらない。かといって、趣味や娯楽(枝葉)だけで生きていけない。仕事とは人生を生きる上において、根幹となるものに思える。義父の死を思うと、人々における仕事とは人生を充実させながら、人を一日でも元気で長生きさせることの出来る素晴らしい宝物でないのか。


迷惑だ、ストレスだと思っていたことでも、毎日時間を持て余す日々を過ごすうちに懐かしく思える時もある。嫌だ、嫌だと思っていた仕事でも、人生のスパイスになっていたのではないのだろうか。私はそう考える。



(俄かにお金儲けはできない)

最悪なのは、大切な退職金を運用して生活費の足しにしようという考え方や、退職後に起業しようというプラン。無責任なマネー誌や経済誌に当たり前のように書いてあるが、やめておいた方が身のためだ。


いきなりこれらを真に受けている人も多いが、とんでもない発想である。大金を扱うのに慣れていないからだ。いくら大金を扱っていたからといえ、会社の器の中でしか扱っていないなら尚更だ。要するに会社の器に守られていて、その範囲で扱っていた訳だから自身にリスクはない。失敗したからと言え不正を働いていないのであれば、降格や一時金への影響はあるかも知れないが、弁済にまで至ることは殆ど無い。


そのリスクをとってきたことのない人が、いきなり大金を扱うのは危険極まりない。ゴールドラッシュで儲けたのはスコップを売った人間で、株バブルで儲けたのは証券会社である。自身より利益を得るのは誰なのか考えればいい。そう考えると恐ろしくなる。



いろいろ考えると、定年を年齢と言われる数字で表し、誰もが必ずそれを履行しなければならないと思わせる世の中がおかしいのではないか。個々のライフスタイルや考えにより、柔軟に対応すればいい。


老後のプランについて、杓子定規な案内や提案など迷惑な話だ。一生現役、死ぬまで働く。働けるなら働けばいい。老いてなお一層働く。働くことに対する捉え方次第で、人生が愛おしく輝いて見えるのではないか。


仕事上のトラブルやミスなど取るに足らない。なぁに、心配はいらない。これを読んでいるあなたも、やがて死を迎える。そうなれば、苦楽の感覚すらなくなるのだ。



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2015年08月20日

アメリカの大変化

(アメリカの厳しい財政)

現在、オバマ大統領が行っている政策は、外向きから内向きの政策に変更されています。過去のアメリカが経済を拡大してきたのは、借金を増やしながら国内の産業構造を大きくしてきました。しかし、オバマ大統領は内向きに政策により、生活保護費と社会保障費を増やし、生産に関りの無い莫大な赤字を作りだしてします。


オバマ大統領は、大きな政府を目指し、社会保障を充実するとしました、その代わりに、毎年1兆ドルの支出が増え累積赤字は膨らむ一方となります。過去の政策は、経済成長を図ることにより社会保障を充実させるものだったのですが、税収は二兆ドルとほぼ頭打ちになっています。


GDPの伸び率もこれまでのスピードで伸びておらず、湾岸戦争、イラク戦争などにより、過去のアメリカ国内の財政におけるダメージは大きく、累積赤字は増え続ける一方です。そこでアメリカは、強制的予算削減を実施しました。これにより各省無差別に、毎年10%ずつ予算が削減され、これが2013年から10年間続く。その強制予算削減により、もはやこれ以上戦費にも国内資本をかけてはならないという方針に切り替わったようです。



(独立国でない日本)

相変わらず、日本の敗戦から70年経っても米軍基地は日本にあり、これが日本はアメリカの属国である証と言われています。いま、国会は「集団的自衛権」の行使を認めるかどうかでもめていますが、この本で著者は「第三章 集団的自衛権は幻である」と題して日米軍事同盟対中国軍のことを詳しく書いています。


著者によれば、集団的自衛権なるものは日本独自の考え方であり、アメリカの安保屋が考案したもので、国際的には通用しないと書いています。資本主義社会では安保屋が存在し、何でもビジネスとして成り立つのです。


そもそも自国で防衛せず、日米同盟で有事の際はアメリカに助けてもらうなど、時代遅れの思考であり、今こそ自国防衛をどうすべきか真剣に考える時が来たようです。


戦争がいけないことは誰しもが認めることです。メディアの多くは、戦争と言うと特攻隊や無差別爆撃、銃剣を持ち敵地に乗り込むことなど、戦争の悲惨さを前面に押し出していますが、果たして現在における近代的戦争は、そのようなことがあるのでしょうか。


答えはNOです。先端兵器が戦略を変えたのです。


兵器はITの発達により、性能は格段に向上し無人で操作できるものが増えています。集団的自衛権により徴兵制を心配する声も聞きますが、それも取るに足らない。今更、銃剣や竹槍をもち、多くの兵力を投入した人海戦術で戦うのは考えにくいのです。それには、以下の理由が考えられます。


先のアメリカが行った戦争で投入された兵力は、湾岸戦争の66万人に対して、イラク戦争では26万人にとどまりました。兵力が減ったのは、カーナビで利用されているGPSを使った誘導爆撃が実戦で使用可能になり、空爆とミサイルの命中精度が飛躍的に向上したことによります。


レーザー砲も開発され、火薬を用いないため使用する側にとって安全性も高い。電磁波を利用したADS、ロボット技術も格段に向上しています。いずれ、ホワイトカラーの連中が指令室に居ながらにして、半ばゲーム感覚で戦闘ができるかもしれません。


技術革新に伴い、アメリカは国内の財政赤字を解消するため、陸軍の省人化を進めているようです。なにせ時代は人件費削減の流れです。企業がロボットやITを駆使し、それらを積極的に導入し省人化を図っています。世界各国もそれと同じく、戦争も省人化が行われるのは至極当然の流れです。


どの国も国防費をなるべくかけたくないのに、兵器や兵力増強のためにコストをかけるのは避けたいはずです。アメリカ軍同様、人件費である地上戦闘員を減らすため、日本で徴兵制が現実的に起きる可能性は低いと思われます。我々は、軍隊と聞けば戦場で直接敵と戦う陸上戦闘員をイメージし易いですが、指令や補給など補助要員の方が多いのです。


しかし、ある政党の政治家たちは戦争法案などと言っています。日本は政治、軍事、外交の主権を持っていなかったために、政治家を必要としてこなかった。著者は、日本の政治家のほとんどを入れ替えなければならないと思うと書いていますが、全くその通りだと思います。


自分の国を自分で守る体制を持たないのに持とうとしない。尖閣諸島の国有化や靖国神社への参拝など、自国を守る体制を持たないにも関らず、平気で隣国を刺激しています。話せばわかると言うが、その話し合いが済まないうちに、対岸の国から核ミサイルが発射されるかも知れません。


憲法9条の制約の中で、長く平和な状態が続いた日本。街頭インタヴューを聞くと、「今まで何も起こらなかったから大丈夫」「話し合いで解決できる」「アメリカがいるから」など、相変わらず平和ボケした日本人の発言が目立ちます。


今まで何事も無かったから、これから何も起こらない保障などありません。自国の安全は自国民が守るのは当然なのです。集団的自衛権はすべての国が持っており、それを行使しています。戦争法案と言うのが本当なら、世界中の国が戦争法案を持っていることになります。


相変わらずメディアでは、恐ろしい戦争体験の映像や語り部の映像を流しています。これらにはレッテル貼りを始め、プロパガンダ技術が多く採用されています。特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する際に用いられます。皆が働いている時間にテレビを見ている人々や、新聞からの情報しか受け取ることのできない人々は、これでいとも簡単に洗脳されてしまいます。


更にこの本によると、アメリカはアジアから米軍を撤退させようとしています。その一方で、中国がアジア全域を独占することを恐れていると分析しています。同時に、アメリカ経済的にはと大変に近く、アメリカと中国の首脳が密かに話し合い、莫大な財政赤字で安くなり続けるアメリカドルの崩壊を防ぐために、通貨同盟を結んだことは明らかだとも書いてあります。この同盟のもと、中国は、目減りを続けるアメリカのドル資産を買い続けることを約束したのです。


中国の人民元とアメリカのドルは、実質的に同盟体制に入っていると言っても言い過ぎではない。人民元の基軸価値はドルに結びついている。専門用語で言えばペッグしている。」アメリカはこうした通貨同盟に基づいて、中国東南アジアやアフリカで経済活動を展開するのを認めています。オバマ大統領と習近平主席が「新しい時代が始まった」と言っているのは、まさにこの状況を指しているのです。


アメリカ日米安保条約という軍事同盟を結び、日本の安全を保障しています。しかし同時に、通貨の面ではドルが人民元の基軸通貨となり、財政面で中国と同盟体制を確立している。


古今の世界経済はグローバル化し、自国の利益を追求するには、他国経済の連携と発展が必要不可欠となりました。この見方をすると、アメリカと中国の通貨同盟にあるように、中国と戦争を行えば他国同様に、自国経済にとっても大きなダメージを受ける可能性があり、戦争に発展する可能性は低いと思います。しかし、可能性はゼロではありません。もしそのようなことになれば、核の使用により確実に地球は滅亡です。一体、アメリカは何がしたいのか、凡人の私にはよく分かりません。



(日本の未来に向けて) 

最後に「今後の日米関係において日本のとるべき道について」が書いてあります。


「日本はまず何はともあれ、これまでの同盟国であるアメリカに、日本の考えを伝えなければならない。つまり日本に何ができるか、できないかを伝え、アメリカが日本に何を求めるかを率直に尋ね、話し合う必要がある。それが主権国家の義務であり、国際的な独立国家の信義である。」


本当の意味で、日本は独立国家として早く立ち上がらなければいけません。世界では、西大西洋におけるアメリカの軍事力が消滅しつつある予想されています。日本は、近隣国の顔色ばかり伺っていた過去の外交政策を改め、他国並みに自国を防衛する抑止力を備える時が来ています。そもそも集団的自衛権の枠組みでは、アメリカが戦争に行くから日本も派兵というのは国際法上できないようです。


戦争や紛争は無い方がいいに決まっています。全世界の人々が幸せに生きる権利、すなわち人間の自由と平等を保障する権利が存在し、それを侵害しないのが理想的な社会です。しかし、世の中は理想論を100%現実化するのは困難であり、多くの問題が生じます。


なかなか理想と現実のギャップを埋めるのが難しい。だがここで行ってならないのが、問題解決に向けての糸口を見出そうともせず、YESかNOかだけで判断する行為です。これでは解決に至る過程において行われる議論でさえままなりません。


国会議員に求められる能力は、現実的議論の中で信任を得た国民の意見をいかに理想に近づけられるかです。健全な民主主義社会において反対意見が在るのは当然であり、多数決による決議により少数派の意見は採用されませんが、少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題は、議論の過程で合意に達することができます。


もし、少数派集団を多数派集団にしたいなら、もっと政治に無関を持ち、国民の権利である参政権を行使し、投票行動を起こせばいい。そして「自国は自国民が守る」の概念を持ち、少しずつ国を変えて行けばいい。


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2015年08月18日

成功本


「成功本はムチャを言う!?


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本を読んで知識を仕入れることに対し、私は否定はしません。多くの人の文書を読みながら、自身に一番合った方法や解決策が見つかるかも知れないからです。また、成功や夢を実現した自分を想像するのは楽しいです。そして、費用もかかりません。想像の範囲ならリスクもありません。



しかし、読んでいるだけで何もしなければ、今以上変化しません。念じれば叶う。思いが強ければ実現する。それは思い過ごしです。どんなにたくさん成功や夢の実現に関する本を読んでも、読んで知識を吸収するだけでは駄目です。そこには、目標に向かい行動する勇気が必要だからです。



行動すると、お金を使います。時間も使います。嫌な人に出会います。しんどいし疲れます。予想しない自体に遭遇します。やめておいた方がいいと、ご親切なアドバイスを言う方もいます。



それでも逆風に向かい、前に進む勇気が必要です。そういう勇気が、起業には不可欠なのです。



さらにネット社会になって、情報を仕入れることが容易になりました。キーワードを入力すれば、膨大な量の情報が入手できます。とても魅力的で興味をそそるタイトルが満載です。でもそれだけです。何もしなければ何も変わりません。当たり前です。




時として、知識のある方は素晴らしい発言をします。私など足元にも及びません。その時の姿はとても立派です。でも残念ながら、その方は起業していません。収入も平凡です。



何故そうなのか考えると、知識は豊富にあるのに、それを生かす知恵と行動がないからです。



今の自分は過去に思い描いた自分自身です。



以前にも書きましたが、人には過去、現在、未来の観念があります。しかし、それは人の記憶や想像により生み出されるものであり、人には今しか在りません。



今を一生懸命に生きてこそ、過去や未来が自分自身で思い描いたとおりになるのです。先に書いた知識ばかりの人は、知識を得るだけが目標だったのではないでしょうか。



勿論、目標がなければ、前に進めません。



試しに一本の線を書くのをイメージしてください。線を書く時は、どこまで書くのか決めてから書きますよね。どこまで書くのか決めるから書けるのです。それをどこまで書くのかを決めずに書こうとすると、どうなるでしょう。手と腕が動かず、線は書けませんね。



「そんなはずはない」「書けるはずだ」と言うあなた。そんなあなたも、どこまで書くのか決めてから書いているから書けるのです。



目標を決めてから行動するのは、この動作と同じです。



難しく考えるからいけないのです。ああでもない、こうでもないと言う前に、とりあえず行動する。そうしないと、自分自身が持つ人生と言われる真っ白で大きなキャンバスに線が書けません。とにかく自分自身で線を書くための目標を決めてから行動する。



自分以外の誰かに線を書いてもらうはもっての外。無数に存在する線(選択肢)があるのに自分で書かない。そんな人生が楽しくないでしょう。自分の人生は自分しか生きられません。



何も偉業を成し遂げろと言っている訳ではありません。小さく、当たり前で、格好悪くていいのです。世間体を気にするあまり、行動が萎縮してはいけないのです。そんなものが絶対的価値だとすれば、格好悪い生き様をしてきた私など、とうてい生きていられません。



人生は予測できない未来があるから楽しい。だからこそ人は生きられるのです。



勇気の先にあるモノは、何でしょうか。答えは、勇気を出してからでないと分かりません。



ひょっとして、勇気を出せない人は、勇気の先にある分からない何かに怯え、自分から見たくない、経験したくない心が表れているのではないでしょうか。



この世は勇気を出し闘ってきた人々のみ、利益を得られます。勇気を持たずに利益を得ることは在り得ないのです。



とは言え、100%の成功する保証はどこにもありません。行動したから全員に望むべくモノがもれなく手に入る訳ではないのです。



勇気を持ってやるかやらないか。全ては自分次第なのです。




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2015年08月12日

シェアリングエコノミーは、新たなビジネスチャンス


現代人の消費スタイルは、これまでの個人で所有から共同購入や利用へと変化しています。行き過ぎた資本主義の影響でしょうか、過剰生産と過剰消費が見直され、サスティナブル(sustainable)なライフフスタイルに価値を見出す人々は少なくありません。


その様な時代において、「シェアリングエコノミー」というビジネスが生まれ、ビジネスチャンスとしても大きな市場が見込まれています。


 THE NEW SHARING ECONOMY


「シェアリングエコノミー」と呼ばれる非所有型の経済活動が急速に拡大し、今後巨大市場になると予想されています。日本は、まだまだ馴染みが薄く、活動の浸透が遅れ気味ですが、シェアリングエコノミーが日常化し、シェア文化が市民社会に浸透し定着し始める

と、人々の価値観やライフスタイル、そしてビジネス形態は大きく変化していくと考えられます。 



家や世の中で使われずに眠ってしまっている部屋、自動車、自転車、工具、洋服、おもちゃ、パソコン。空いたまま長年活用されていない空き地、倉庫、田畑、駐車場など。また無形資産として、専門的知識や技術を持ちながら時間を持て余している主婦、学生、医者、弁護士、税理士など。有形無形に関らず、シェア可能なモノは世の中に沢山あります。



モノを無駄にせず、人と共有することで生まれるシェアリングエコノミーは、さまざまな価値も提供します。



@経済的メリット

シェアリングエコノミーは、通常より安くサービスを利用出来ます。高価で購入をためらう商品でも利用でき、また、特殊なスキルを持った人々のサービスも受けられます。


利用が拡大すると、提供する側はその所有するモノやスキルを利用して副収入を得ることも出来ます。働くスタイルは雇用されるだけが全てではありません。使われなくなったモノと空いた時間を有効活用することで、互いの喜びが増えます。


費用負担の問題で独立開業したくてもできない人々にとって、大きな初期投資を必要とせず起業可能です。これで新規事業参入がし易くなり、新たな雇用創出も期待できます。


A環境負荷低減

シェアすることでモノの数を減らせるため、製品ライフサイクルで消費される資源、エネルギー並びにCO2の排出を低減できると考えられます。また、その効果によるライフスタイルの変化で、環境負荷低減に貢献します。


カーシェアリングがまさしくそうですね。特に都市部で言えることかも知れませんが、公共交通機関が発達していれば車は必要ありません。車を所有すると維持管理に要する費用負担も馬鹿にならず、必要な時に借りればその負担はありません。地方に住む人々にとってもこれは可能で、鉄道で最寄り駅まで移動し、そこからカーシェアリングを利用することも出来ます。


B新しい人や文化との交流

シェアリングエコノミーでは、物や部屋の貸し借りを通じて、さまざまなジャンルの人達や、新しい文化との出会いを生まれます。また、ソーシャルメディアの発達により、地シェアリングサービスを提供している所の情報入手も容易です。


子供からお年寄りまで、幅広い年齢層の付き合いが増え、地域コミュニティ活性化が促進されます。そして、学生にとっても勉強するいい機会になります。学生達は、いずれ社会に進出します。その前に、働くためのスキルや人脈作りが出来るからです。仕事に対する姿勢、接客、経営ノウハウなど、社会に進出してからでないと出来ない多くの経験を得ることが可能になります。


C技術とスキルの活用

眠っている資産やスキル、専門的知識や技術、余剰時間をニーズに合わせ掘り起こし、それらを有効活用することにより経済発展や地域社会に貢献することができます。更に、独立開業希望者にとって高いハードルとなる、起業時の初期投資が低く抑えられ、心理的負担が軽減でき簡単気軽に開業できます。


眠っている資産やスキルを有効活用することで、個人と事業者はもとより社会全体にとって大きな経済メリットが期待できます。



ソーシャルメディアの広がりにより、個人が情報、モノ、そして他人ともに、より効果的・合理的に繋がるようになりました。ソーシャルメディアの発達で、広告宣伝や情報告知に発生するコストも少なく済むようになり、起業活動を行うのが容易です。



誰でも、何時でも、何処でも、専門業者に依頼しなくても個人で情報発信できるのはありがたいことです。これだけ事業参加のハードルが低くなると、ますます個人事業者として活躍できる場が広がると思います。社会に眠っている人々の専門的知識や技術、それぞれに持つ余剰時間を活用することが、今後の日本社会に求められている生き方の様な気がします。



そこでやり甲斐が生まれ、働き甲斐のある仕事の在り方。この生き方が社会に浸透すれば、生きて行く上において精神的負担も少なくなるのではないでしょうか。



最後に活動を支援するプラットフォーム作りも大切になります。透明性の確保と信頼性の担保が要求されます。折角のサービスもプラットフォームが杜撰だと、供給者と受給者共に困惑することになります。合わせて、ソーシャルメディア上だけでなく、地域コミュニティを広げるための場所作りを行わなければなりませんね。



これを、既に起業した者の責任において行うのも一つの方法です。誰かがやらなくてはならないことは、本当にやりたい人がやればいいですが、そのやる人に自分がなれると尚更いいですね。第三者にやって欲しいと依頼するより、自分でやる方が手っ取り早いからです。



そんな物好きが、どの地域にも一人くらいはいるでしょう。社会を良くするために富を分散し、労力を惜しまない人々が地域に増えれば、シェアリングエコノミーは社会で認知され、当たり前の世の中になるでしょう。



posted by ヨッシー at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月10日

私に墓はいらない


今の時期、お墓参りに行かれる方も多いですね。しかし、近年死者を弔う事情も社会情勢により大きく変化しています。



(信じることで全て成立する)

年々、少子高齢化の進行により、生前より永代供養を希望する中高年が増えているようです。墓や信仰を継承する子孫がおらず、お墓を立てても死者の供養をして貰うのが期待できない人のために、永代供養の道を選択すします。


先祖を敬う心は大切です。今の自分がこの世に生を受け生きていられるのも、我々の先祖がいたからです。先祖を敬う心を大切にするのを疑う余地はありません。しかし長年経つと、その気持ちも薄れてきます。特に全く出会ったことのない先祖の墓にお参りしても、今一つピンときません。


やがて子孫が途絶え親族関係が希薄になると、墓参りをする人すらいなくなります。そうなると墓は手入れされず、見るも無残な姿に変わって行きます。そこで困り果てた遠い親戚の者が、墓を取り壊したいと相談しますが、離檀家料や撤去後の整地など、高額な費用が発生する場合があり、なかなか思うようになりません。費用面で折り合いがつかず、放置されたままとなり、更にお墓の劣化が進み悪循環に陥ります。


ひとたび墓を建ててしまうと、維持管理や撤去が大変なようです。根本的な部分になりますが、そもそもお墓が必要なのでしょうか。確かに墓前で祖先を敬いますが、そこには死んだ人の骨が納骨されているだけで誰も居ません。存命者のための、信仰するシンボルに過ぎないのです。


仮に存命者の信仰心を満たすだけのシンボルだけの存在であるなら、こんなに手間のかかるお墓を立てる必要はない。後々の管理を考えると一層のこと、水葬や風葬にしてしまえばいいと思う気持ちも頷けます。


信仰心は、常に存命者自身の心中にあればいいのであって、いつ、どこで、どんな形で信仰しても構わないのではないか。何の本に書いてあったか記憶はないが、こんな教祖と信者の話が書いてあったと記憶しております。


信者A「神への信仰はタバコを吸いながらしてもいいのでしょうか」

教祖「そればだめだ。信仰は神聖なるもの。タバコを吸いながらなどもっての外だ」。

一方信者B「神への信仰はタバコを吸っている時に信仰したくなりました。タバコを吸っていても信仰していいのでしょうか」

教祖「信仰はいつ、どこで、どんな形でやっても構わない。思い立った時に信仰する心が大切だ」と。


この違いがわかるでしょうか。物事の捉え方で不純にもなり純粋にもなり得る。いずれにしても信じる心が大切な様です。


認識と信じるは違います。認識は現実的に在り、それを人は在ると意識し認識ます。そこに在るから認識出来るのです。一方信じるの「信」は、漢字で人の言葉と書きます。何かが在ると言っているのは人です。それを信じているのも人です。ここで言っているのは人の言葉であり、聞いた人自身がそこに在ると認識したものでありません。


在るかもしれない、無いかもしれない。在ると思い一所懸命見ようとするが、全く自分の目には映らない。在るのか無いのか、どちらか分からないから、人の言葉を信じるしかないのです。信じる。それはその言葉が嘘でないとし、決して疑わず、人を信頼する行為です。


宗教団体の信者が良く「信じなさい」と言う。これはこの世に在るモノではないということを自らが自覚し、存在しないのを露呈しているようなものです。そして、無いモノを在るように見せなければならないため、信仰にはその対象となるシンボルが必要になります。どの様なモノがあるかは、これは言うまでも無いでしょう。


極端な話、本人が心中で信じているなら、その対象となるシンボルなど無くてもいい。しかし、無いモノを在るように説明するのにお墓やお札などのシンボルが必要となる。そこでその信仰となる対象物を作り、さも在るかの如く振る舞い、まるで、それがそこに在るモノとして認識させるようにしています。


信仰する側も、そこに何も無いと分かっていますが、その現実を受けとめようとしません。真実は目に映らず、ただ目に映っているのは、信仰の対象となるシンボルだけ。しかしそこに何かがあると信じ、目に映るシンボルを認識することにより、現実に存在するモノだと誤解している人々がいます。



(お墓の管理者は減少している)

毎年私は、母親と一緒に祖父母の墓参りに行きます。しかし、今年はとうとう母親から「止めておこう」と言われました。どうやら足腰が弱くなってきており、墓参りに行くことが億劫になってきたようです。だから私も母に付き合い、今年から墓参りは取り止めて行かない。


祖父母からすると、祖父母の直系である私は孫です。そして私の子供は曾孫、曾孫の子供は玄孫と続く。実際のところ祖父母の墓に、私の子供達(曾孫)は参らない。まさか、お墓がどうなってもいいと思っている訳ではないが、それだけ親族関係が気薄になっているのだろう。私も別に子供達にお墓へ参って欲しいとは思いません。


名前や顔すら分からない。ましてや、出会ったことも無いそんな親族に対し、わざわざお墓参りをしたいと思わないだろう。いくら直系でも、関係が希薄になれば皆そうなります。身近にいる母親が、墓参りが出来なった姿を目の当たりにすると、同じ様なことが世間で起こっているのではないかと想像します。


一般的にお墓は親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅により無縁仏化するお墓も増えていると聞きます。また、墓地不足や費用面の問題と核家族化や少子化により、今後お墓を持っていても供養して貰える可能も少なくなります。


子孫が生まれ育った場所から遠く離れ、生家に住んでいた父母も亡くなり、後継ぎがいないためとうとう家が取り壊されるようになると疎遠になり、余計にお墓の管理ができなくなってしまう。


最近は、結婚しない人々も増えてきており子孫を残せないので、自分達が死んでもお墓参りをしてくれる人すらいない。こんな人々は無縁仏化するのは必至で、運よく子孫がいてもいずれ無縁仏化するのは目に見えています。子孫がいる人は、墓参り代行業者に依頼すればお墓の管理できますが、それなら先に書いたように、お墓はシンボルとしての存在でしかなく、それを自らが認めてしまうことになる。


信仰は心理構造によって制約される。そしてそれは、状態によってではなく対象に依存しています。こうなると、お墓の存在自体すら疑問となり得ます。存在自体がとても煩わしいモノとなり、一層のこと、お墓が無くてもいいのではないかと思えてしまう。



  社会実情データ図録より

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(信仰の変化)

こうしたことを考えると、お墓を立てることが絶対で無くなり、永代供養や自然葬、散骨などで弔う方法が促進されるのも頷けます。どんなに綺麗ごとを言っても、所詮人は糞袋です。口から物を食べ消化し、やがて排泄物として排泄するだけです。この行為自体を捉えるなら、人は動物と変わりません。動物より考える力が優れているだけで、人の死は人々が思う程神聖で高貴でないのです。


ならば、供養の仕方は人それぞれに在っていい。宗教や他人の価値観により左右されるべきでなく、こちらから他人にお節介を焼くものでもない。


私の父はお陰様で存命ですが、私はいつも父にこう話しています。「お墓は立てない」「葬儀は家族のみで行う」「父の死を私の親族や父母及び私の知人に知らせない」「永代供養する」と。これが私のスタイルなので、誰にもとやかく言われたくない。父も納得しています。要するに、なるべく費用をかけない方法を選択したのです。


父親は人生の反面教師でしたが、今の私がこうして生きていられるのも両親のお陰です。当然、私は両親に感謝しています。


でもいくら綺麗ごと言っても死んだら人は終わりです。死んだ人に対し、豪華絢爛に葬儀を行っても無駄に過ぎません。私は立派な葬儀を、存命者達の見栄やプライドを満足させるものでしかないと考えています。死んだ人の死を受け止め、両親から自身が受けた行為に感謝し、心の中で生き続けていてくれればいいのではないでしょうか。


私は、感謝と信仰は違うモノだと思っています。ここに在ったモノ、在るモノにするのが感謝です。感謝する対象は、天や地の恵みや人々の親切などいくらでもあります。私達は、そこに在るモノだからこそ感謝出来るのです。ですから、目にも映らず無いモノに対して感謝できません。


感謝はするが、私には信仰心がありません。そこに無いモノだからです。信仰とは、信仰するうちにやがてそれが感謝へとすり替えられて行く行動なのではないか。信仰は、最初から無いモノを在ると人々に信じさせる世界へ誘い、それを信じた人々はやがて自己欺瞞の世界へ陥る。


フロイトは「幻想の未来」という作品の中で、宗教を痛烈に批判しており、宗教的な教えを信じるべき根拠が何処にあるかと問うています。


@私たちの祖先が信じてきたのだから、信じる価値があるというもの。

A先祖代々、それを信じるべき証明が与えられてきたというもの。

Bこうした教えを信じる根拠を問うことは、そもそも禁じられているとういもの。


宗教は先祖か信じてきたものであり、それを何ら疑う余地も無く無抵抗に信じる人がいます。科学や文明が発達していない過去において、先祖たちは無知でした。無知なる教えの礎となる聖典そのものも改竄されています。その無知なる教えを信じていいものだろうか。


聖典に書いてあるから信じる。聖典に書いてあるからと言って、証明になっていないにも関らず信じる。過去から伝えられてきたものであると言うだけで、無防備に信じない方がいいのではないだろうか。


また、宗教それ自体に疑念を抱くことすら許されません。もし疑念を抱こうものなら、「罰が当たる」「未生に影響する」「信じる者は救われる」などの言葉を用いながら、人の心を恐怖に陥れ操作しようとします。心の中で信じることが大切であり、そこに理性の入り込む余地はないとさえ言う。


ある宗教は、人が罪を犯しても神に犠牲を捧げたり贖罪したりすることにより、再び自由に罪を犯せるようになります。不道徳にも手を貸し、戦争を勃発させ、こうまでして人類を支配する宗教とは一体何なのだろうか。


無いモノを在るように振る舞う、信仰のシンボルとしてのお墓は無くてもいいとさえ思える。わざわざシンボルを作り供養しなくても、祖先への感謝の気持ちが常に人々の心の中にあり、その心を持ち続けることが大切ではないだろうか。




posted by ヨッシー at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年08月06日

努力が報われない世の中


努力が報われない世の中になったのでしょうか。管理職のポジションも減ってきています。「日刊SPA!」より引用いたします。



30代で係長、40代で課長に昇進。入社当時は、そんな出世コースを思い描いていたはずなのに、自分の役職が追いついていない現実。会社員人生に焦りを覚える人も少なくないだろう。これに対して、「40歳までに課長に昇進できなかった人は、それ以上のポストはほぼ無理」と断言するのは人事コンサルタントの城繁幸氏だ。


5年前、『7割は課長にさえなれません』という著書を出したのですが、その当時に比べて、現在の事態は深刻化しています。このままいけば、40代の8割以上が役職に就くことができず、ヒラのままで終わると断言できますね」

しかし、景気は上向きになりつつあるなか、なぜ多くの人が課長にすらなれないのか。

「昔から日本企業は年功序列が強く、大手企業は管理職が無駄に多い傾向にありました。たとえば、昔のソニーは正社員の4割が管理職でした。現在は管理職を半分降格させるという対策をとっていますが、こうした風潮は日本中で起こっています。つまり、管理職のポスト自体が急速に減っているため、以前のように誰もが役職に就けなくなった。課長というポストすらなくす企業もあるほどです」

第一生命経済研究所・主席エコノミストの永濱利廣氏も続ける。

「現在、アベノミクスなどの余波で賃上げ傾向にあると言われていますが、実は40代前半男性はその恩恵を受けていない。厚生労働省の昨年度の『賃金構造基本統計調査』で年代別の男性の賃金格差(調査1)を見てみると、その他の年代は年収がプラス傾向なのに、『4045歳男性』の年収だけ、前年比マイナス0.6%になっています。一方、役職者の平均年齢と年収の比較(調査2)を見るとプラスであるのです。一部の役職者は稼いでいます。つまり、これらの結果を見ると、4045歳の層のほとんどが、管理職になれていないということが推測できます」

<調査140代の給与が目減りしている事実

3034歳 賃金(賞与含まず)276万円 対前年増減比:0.4
3539歳 賃金(賞与含まず)316万円 対前年増減比:0.7
4044歳 賃金(賞与含まず)355万円 対前年増減比:−0.6
4549歳 賃金(賞与含まず)400万円 対前年増減比:0.7
5054歳 賃金(賞与含まず)422万円 対前年増減比:1.2

※厚生労働省発表の平成26年賃金構造基本統計調査における「性、年齢階級別賃金、対前年増減率及び年齢階級賃金格差」(一部)。管理職になりやすい4045歳層の賃金のみマイナスという結果に

<調査2>役職者の平均年齢は上がるばかり

・部長級 52.4歳 賃金(賞与含まず)657万円 対前年増減比:0.8% 役職・非役職間の賃金格差:3.16

・課長級 48.0歳 賃金(賞与含まず)522万円 対前年増減比:1.8% 役職・非役職間の賃金格差:2.51

・係長級 44.0歳 賃金(賞与含まず)392万円 対前年増減比:1.7% 役職・非役職間の賃金格差:1.88

・非役職者    賃金(賞与含まず)208万円 対前年増減比:1.0% 役職・非役職間の賃金格差:1として

※平成26年の「役職、性別賃金、対前年増減率及び役職・非役職間賃金格差」。非役職者は2024歳とする。役職者の平均年齢が上がっていることにも注目だが、やはり、役職者の給与自体は下がっているわけではない

引き続き調査2の管理職の平均年齢にも注目してみよう。

「係長で44歳、課長で48歳。そして、部長職の平均年齢にいたっては52.4歳。もちろんあくまで『平均』なので、昔の年功序列制度で役職に就いたまま、出世もできずにそのまま居座っている年配管理職たちが平均年齢を引き上げている可能性も高いのですが……。いずれにせよ、上の年代が詰まっている以上、40代になっても役職に就けない人が大量発生する事態は全然おかしくない。係長クラスまで上れたとしても、40代から課長クラスになる見込みは1割くらいなのではないでしょうか」

 役職自体の数が減っているうえ、上の世代がいまだポストを独占しているため、大企業社員の9割が課長になれないとも言える。本誌アンケートでも課長未満が9割近くを占めたほど。城氏はさらに厳しい現状を突きつける。

「もはや『大企業で出世』なんて考えは捨てたほうがいいかもしれない。さらに、『役職者=リスクをとって責任を背負う人』でもあり、昔でいう安泰で高収入の象徴ではありません。むしろ『管理職になりたがらない』人も増えているほどです。今後、ポジションを築きたいならその覚悟も必要だということも、覚えておいてください」 <取材・文/藤村はるな>

日刊SPA



(厳しくドライな社会になった)

経済発展していた過去の様に、現在ではそう簡単に役職者になれないと書いています。私が勤めていた当時は、まだ経済発展が見込め、一生懸命に働いていればそれなりの役職がつき、給料もそれに伴い少しずつではありますが確実に昇給していきました。また、その流れを望むことが明日への希望となり、家族を養うための原動力にもなっていました。


以前は、日々改善努力し滅私奉公していれば結果が伴いましたが、今ではそれも叶わぬ夢に変わりつつあります。物を作れば作る程売れ、新しいサービスも生まれました。が、それらは作られた物を買う人がいて、新しいサービスを受けようとする人々が大勢いたからです。物を作れば作るほど売れる訳ですから、そこで企業は更なら設備投資や機械化を進め、科学技術発達させ高効率化を図ります。


生産性が向上し大量生産出来る様になると、皆が安価で使い勝手のいい物を手に入れ、人々の暮らしは便利になり楽になって行きます。しかし技術革新が行われた結果、人々の仕事を奪い人々の収入が減り、かえって需要が減り物やサービスが売れなくなり、人々の生活が困窮する結果を招きます。


そして企業はもっと沢山利益を上げようと、更に生産性を上げようと努力しますが、人口の減少も影響し、物やサービスが溢れかえることになります。市場が飽和状態となり物を作っても売れず、サービスを提供しようとしても受ける人が少なくなっています。


企業は更なる発展をとフロンティアを求めますが、もうすでに開拓してしまったところばかりです。これでは過去の様に大きな経済成長は見込めません。それでも企業は利益を上げ生き残りを図ろうします。今までのシステムでは成長が見込めないため、とうとう企業は人件費削減に目を向け始めました。


正社員に対する退職勧告や希望退職を募り、更に派遣労働者やアルバイトなどの低賃金で雇用できる非正規雇用者の採用を加速させます。必要な時に、必要なだけ、必要な期間のみ雇用するスタイルです。企業の業績により左右される非常に不安定な雇用状態です。


それでも若者が少ない収入で働いてくれるうちはいいのですが、若者は正社員と同じくらいの働き(それ以上かも知れない)なのに、収入は正社員より少なく、生活も不安定なため矛盾を感じ、嫌になって辞めて行きます。


これでは経験により培われた才能や技術の伝承すらできません。今はいいかも知れませんが、将来的に物を作りたくても作れない、貴重な技術やノウハウの蓄積すら出来ず、優秀な人材を育てるため社員教育をしたくても叶わないなど、企業にとって大きなダメージを受ける可能性は否めません。極端な話をすると、日本の国力が低下し某国の植民地になる可能性も否めません。勿論、日本人としてそうなって欲しくはありません。



(管理職ポストの減少)

辛うじて雇用が守られた正社員の管理職達。ここでもっと努力すればいいのですが、社内営業に長け、長年身についた保守的な思考が邪魔をします。失敗を恐れる臆病者のため、新しい取り組みをやろうとせずマネジメントすら出来ません。ただ長く会社にいた(年功序列)ので管理者になっただけの、偉そうにふんぞり返っている人々。


その人々の雇用を確保するため、多くの若者が犠牲になります。今後、マネジメント出来ない高コスト体質の管理職はいらなくなります。いてもいなくても同じ結果なら尚更です。管理職のポストが減れば、自分もプレーヤーになるか、違う道に進むしか選択肢はありません。そうなれば収入源となるのは必至です。


起業も一つの選択肢です。しかし、起業するにも起業し事業を継続するのは容易ではありません。必死にもがき苦しみ、やっと人様に認められ生きて行けるのです。上手く事が運ばないと、自分と家族を養うことすらままなりません。


私は起業することそのものについて否定はしません。寧ろ肯定派です。起業するには、今までの自分を大きく変化させる意思と力、そしてタイミングや社会環境の援助が必要です。起業を支援するコンサルタントが存在しますが、起業を勧めるなら最後まで責任を持って貰いたいものです。それも無償で支援してやって欲しいと思います。


コンサルタントは、参加者からセミナーと称する費用を徴収し、とりあえず自分の収入を確保しています。自分にかかるコストは、しっかり確保しています。そして、支援する際はコンサルタント料として、依頼者から定額若しくは一定額を徴収します。


自分のノウハウと経験を公開するのは確かにいいと思います。しかし、依頼者の事業が軌道に乗り利益が確保できるまで面倒を見て欲しいです。それも、最初からコンサルタント料を徴収するのではなく、成功報酬型にしてです。


参加費用を徴収しセミナーを実施するくらいの方ですから、起業支援について自信がおありだとお見受けします。依頼者を「確実に起業させたい」「儲けさせたい」「社会に貢献して欲しい」と真剣に願うなら、結果が出てからしっかりとコンサルタント費用を徴収すればいいのです。そうすれば、支援する側もされる側も、起業に対し真剣に取り組めます。


コンサルタント自身が安全地帯にいると思えるような方法で支援しますと言われても、責任の所在が明らかでないため信用できません。起業に失敗した責任は起業した本人が背負うのです。起業に失敗して借金まみれになり、人生を棒に振る人々が世に増えることになれば、その責任の所在は何処にあるのでしょうか。起業を思い立った本人だけの責任でしょうか。


起業に成功の法則はありませんし、数式で表せません。不確定な要素に左右されます。コンサルタント自身は確かに起業して成功していますが、コンサルタント自身のノウハウや経験がそのまま使えるとは思えません。唯一見習うとすれば、自分の成功体験が第三者にも通用すると喧伝する、厚顔無恥なところでしょうか。


私は過去に起業セミナーや独立開業支援に参加しています。それらに感化され、よしやるぞと奮起しましたが、全て失敗しました。事業計画で数字を並べるのは簡単です。しかしそう簡単に事は運びません。全て私の責任です。セミナーの講師からフォローは無く、責任もとってくれませんでした。参加するのが無駄とまで言いませんが、バラ色の未来を夢見るのは止めた方がいいでしょう。


話が横道にそれました。


進むも地獄、退くのも地獄。どうにもならない状況まで追い込まれると、最後には自分の命を絶ってしまう人もいます。時代は大きく変化しました。過去の栄光や成功体験にすがりついていてはいけないのです。


定年退職した人々の話を耳にすると、過去の栄光や成功体験をいつまでも引きずった会話が目立ちます。肩書や勤めていた会社の自慢です。私から言わせれば、「それがどうしたの?」です。当時は経済も右肩上がりに成長し、同じ会社で真面目に働いていれば自分の収入も増えました。「我々の時代は」に始まり、「今の若者は・・・」や、「大企業に就職すればいい」など、本当に無責任なことを言っています。


当時は経済と会社の成長と共に人々の生活も潤いましたが、当時のことを若者に言っても無駄です。過去の経験則が通用しない時代なのです。時代遅れの自慢話を聞くくらいなら、多くの中小企業経営者と出会い、彼らの経験談を聞く方が余程ためになります。



日本の自殺者数の推移 自殺者数の推移 内閣府より

  自殺者数.jpg

主要国の自殺率長期推移 社会実情データ図録より

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相変わらず年間自殺者数は多いですね。多くの命が自殺によって失われています。OECD加盟国の中でも上位の自殺率です。貴重な人材が失われて行く世の中。これは日本にとって大きな損失です。


世間では、収入の多寡が影響しているとも言われています。しかし、近年の自殺者がこれだけ多いのは、本当に収入が影響しているのでしょうか。ウェブサイトでは、定説はないと書かれています。


もしかしたら、経済動向と自殺者に相関関係が無いのかも知れません。自殺者が増えている我が国日本。これで暮らし易い国、経済大国だと胸を張って言えるのでしょうか。



(収入と少子化の関係)

少子化が叫ばれていますが、子供が増えない原因の一つが収入の減少にあると言われています。年収200万円〜300万円では自分達の生活すらままなりません。私の子供もこのレンジにおります。


身近に存在している彼の暮らしぶりを目の当たりにしているので良く分かりますが、収入が手取り20万円では子育てなど出来るはずがありません。「共働きなら妻の収入が得られるからいいのではないか」と思われますが、妊娠し出産準備に入ると仕事を辞めなければならず、そこで収入が途絶えます。一度退職をしてしまえば、元に戻ることも現実として厳しくなります。


これでは少子化が解決できません。現代では、家族という最小のコミュニティ集団が破壊され、核家族化はもとより、一世帯あたりの人員が減ってきています。世帯数は増加しているのに、一世帯あたりの人員は減っている。生活コストが余計にかかる大変非効率な生活です。家族を解体してしまえば商品やサービスを提供するパイは増えます。しかしこれでは、エネルギーや資源の無駄遣いを助長する生き方です。


そう考えれば、大家族で生活するのは理にかなっています。生活コストが一世帯に集中し分散して暮らすより有効に使えます。以前は家族が同居するのが当たり前でしたから、おじいちゃんやおばあちゃんが子供の面倒をみてくれるので、安心して仕事に出られました。世帯収入に対して必要経費が少なく済む暮らしです。個人主義が蔓延した結果かもしれません。我々が選択したこの生き方は本当に正しいのでしょうか。



変化する世帯の姿 総務省統計局より

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(大企業で働くことだけが全てはない)

世間にはまだまだ学歴崇拝主義の幻想があります。これに感化され、何のために学ぶのか目的も無く進学しようとする人も中にはいます。折角大学を卒業して高学歴になっても、フリーターや人材派遣会社で働いている人も少なくありません。学歴を重視する進学が本当に必要不可欠なのでしょうか。


そして高学歴を持った他人々は、大企業に就職を希望します。会社に勤めるだけが選択肢でないのに、それでもしつこく大企業に採用して貰おうと努力します。他に生きる道はいくらでもあるのに、何故か他を選択するのは消極的です。そんな心を見透かしてか、企業もおいそれと採用せず、何社受けても不採用。こうなると自身の人間性まで否定された気持ちになります。


これが本当に自分のやりたいことなのでしょうか。


本当にやりたいことを見つけたいなら、大企業でなくても見つけられます。それも仕事をしながらにして。もし会社勤めをしたいなら、私は中小企業をお勧めします。


大企業を目指すのは何故でしょう。ブランド力、収入面、安定した雇用、将来性など、様々な判断基準により選択するのでしょう。しかし、一生雇用が安定し、未来永劫繁栄する会社はありません。あってもほんの一握りです。パナソニックやシャープなどの事例が物語ります。


こんなはずではなかったと後悔する前に、これからは選択肢を多く持つ必要があると思うのです。勿論、選択肢を多く持てるようにするために、自分のスキルを磨いておく必要はあります。私が中小企業をお勧する理由は、中小企業は大企業より身近に経営者に接することができるからです。これでより実践的な経営感覚が養えます。


中には反面教師も存在しますが、その気になってみれば沢山勉強になる面があります。中小企業ほど自分が直接社会に接する線や面が多く存在するのです。中小企業ですからブランド力はありません。その反面、雑用も含めやる仕事は多く、結果として自分力が高まります。生き甲斐や新たな道が見つけ易いです。


その場合、何処に視点を置くかも大切です。同じ目に映るものでも、視点や考え方によって見え方は違ってきます。要するに自分がどうありたいかです。私も独立する前は、中小企業で様々な業務を行っておりました。今はその時の経験が大変役立っています。


大企業ほど組織で仕事が細分化され、自分のやっている仕事が何に役立っているのか見え難くなります。


日本では横並び精神が蔓延し、人と同じであることを是とします。反面、人と同じであることは、その他大勢の仲間入りとなり、人と同じ暮らしになり易くなります。


横並びの中では大きな変化は期待できず、それでも「夢を叶えたい」と願います。大きく変化したいなら、自分を変化させなければならないのに、人目を気にしてそれもやりません。世間体を気にしていては一向に変わらないことが分かっているのだけれど、世間体を気にしてそれをやらない。自動車に例えるなら、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのと同じです。これでは前に進むはずがありません。



いずれにせよ、我々が住む日本を含め、世界の経済システムの限界が来ているように思えます。「努力すれば報われる」「努力すれば必ず結果は出る」「頑張れば見返りはある」等々、無責任な言葉が虚しく聞こえてくる今日この頃です。



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2015年08月04日

酷暑です。


夏真っ盛りです。それにしても暑い。いや、今の夏は「熱い」と言った方が正しいですね。


先日の日曜日、弊社の土地があまりにも荒れ放題なので、除草作業を行いました。


こいつらの戦いに挑みます。それにしても、忌々しい雑草です。


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早朝より始めて最初は調子良かったのですが、午前中を待たずにダウン。本当に熱い。炎天下の作業で軽い熱中症になってしまいました。これだけ暑いと身体がどうかなります。暑さ厳しい折、くれぐれもご自愛ください。


    
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