2015年06月27日

ことわざの意味を考える


穿った見方かもしれませんが、お金持ちに対する妬みや僻みで作られたのではないかと思われることわざがあります。



@長者の万灯より貧者の一灯

金持ちが捧げる多くの灯明より、貧しい者が真心を込めて供える一つの灯明の方が、仏は喜ぶという意味から、大事なのは量や金額ではなく、誠意の有無だという教え。


本当にそうだろうか。善いか悪いかの判断は人それぞれに違う。真心を込めた方がいいというが、それは人々の心の中で、勝手にいいと決めたからそうなるだけであり真理ではない。もし神や仏が本当に存在するのなら、真心の有る無しにより人を区別するのだろうか。


真心とは、他人のために尽くそうとする思いやりの心をいうが、それは自分が幸福になってからこそ初めて人のために尽くせる。世の全ての問題が、全てお金で解決できるものではないが、お金で解決できる問題も多い。その時お金の量が多い方が、より多くの人々を救え、その選択肢も多くなる。


実際にお金持ちは、サラリーマンより多額の納税を行っている。その時点で、社会貢献は十分果たせているのではないか。



A悪銭身に付かず

悪銭とは、盗みやギャンブルなどで手に入れた金のこと。あぶく銭。金は汗水垂らして働いて得るものであり、競馬や宝くじなど公営とされている博打でも「悪銭」とみなされることがある。


そもそも、お金は汗水流し働いて得るモノだという考えが今にそぐわない。株式やFXで多額の私益を得ている人は、果てして悪人なのか。


お金に色は無く、いくら悪銭であっても人は救える。その裏付けとして、世の中にはアングラビジネスや商売は存在し、そこで経済活動が行われ雇用が創出されているではないか。いや、経済や雇用が成立しているのなら、それは「悪」ではなく「善」にすらなり得る。


法律で決められているからといえ、何ら説得力を持たない。それは、人の欲望が完全に克服されていないからに他ならない。欲望は人々の中で生きている。水清ければ魚住まず。青臭い正義感を振りかざすより、「善」と「悪」がバランスよくミックスされた世の中の方が生活し易い。



B起きて半畳寝て一畳天下取っても二合半

どんなに大きな家に住んでいようと、人一人が占める場所は、起きているときは半畳、寝るときは一畳あれば充分足り、たとえ出世し天下を取った人間でも、一食に二合半ほどの米が食べるのが限度である。


確かにそうで、私も行き過ぎた贅沢は必要ないと思う。しかし、同じ生きるなら自分の思い描いた目標通り事が運び、自身が必要だと思えるモノを手に入れたい。自身の欲望が充足されていない人だからそういうのであり、得たいモノが得られない自身を納得させるべく発せられた言葉ではないのか。


死んでしまえば元も子もないが、死を意識しつつ自身の幸福を追求する人は、人として幸福を実現したいという本望を遂げたいからではないのだろうか。



C金は天下の回り物

貧富は固定しないということ。金がない者に対し、今貧しいからといって悲観するな、真面目に働いていればいつか自分のところにも回ってくるだろうという励ましの意味を込めて使う。


う〜ん。これも違うと思う。「真面目」の定義とは何だ。自分の感情を殺し、やりたくもない仕事を半ば惰性でやり、人に従っていることが「真面目」なのだろうか。毎日空調の効いた部屋の中に居て、ラフな格好でオンライントレードをしている人は「不真面目」なのか。



今の世は、決して汗水流して働くだけでお金は回ってこない。真面目に働く人がいなければ資本主義社会が成立しないため、このような言葉で資本家に対し滅私奉公させる人々を一定数作りだすのだ。昔と比べて現代では、「真面目」の定義が良く分からなくなってきている。



お金について、悪いイメージを持っている人は多いと思います。これは日本の教育システムが生み出した可能性も否めません。お金を稼ぐ方法と手段は様々です。お金が沢山あれば、少なくとも自由を手に入れられます。でも、ここで一つ注意したいのが、お金を得ることだけが目的化してしまうことです。気を付けたいですね。



Though we will be going in the same direction, how do you think about this photo?  Which do you prefer, the rich or the poor?


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2015年06月24日

読書は体力を消耗する


ロイトによると、どうやら我々人を創造した者は、人に対して過酷に生きるように計画したらしい。自分の意思に係らずこの世に生を受けたこの世界は、とても残酷で過酷な世界であるからだ。



この世界において苦難の原因には三種類のものがあり、「自然」「自分の身体」「他者との関係」にあるという。これらは当然のことの様に存在するが、我々がこの問題の前に鎮座し冷静に見つめていないと思われる。



幸福を受けるのに苦労するが、不幸を経験するのは容易い世界。特に他者との関係は大きな苦難となり、仕事、恋愛、家族間の問題、この全ては人との関係によるものである。この本を読んで、人生の悩みや苦難の多くが、他者との関係によって生み出されていることに改めて気づく。



また、人は少しでもこの過酷で残酷な世界で幸福に生きていける様、3つの対処方法を考えた。それは、「自分達の惨めさを耐えられるものにする強力な気晴らし」「惨めさを軽減してくれる代償的な満足」「惨めさを感じなくさせる麻薬」であるという。学問、芸術、遊興、飲酒、麻薬などが人々の幸福のために生み出された訳だ。



とかく人生が辛く不幸になり易いのは、最初から残酷で過酷な世界に生を受けたからに他ならない。だが、この世に生を受けた人に生きる目的はないのかというとそうでもない様だ。



その目的とは、「幸福になること」。しかし、我々は欲求が満たされ幸福だと感じることが出来ても、すぐそれに慣れてしまう生き物だ。人の欲望には、欲求限度や制限が無いから恐ろしい。



欲望に制限が無いから欲求を満たそうと更に努力する。文化や科学の発展においては是だろうが、人々が生きる上において、これが正しいのか正しくないのか、私には分からない。「殺人は善か悪か?」との命題同様に答えは出せないからだ。



それにしても哲学者の本は、文学的表現が多すぎて私の様な凡人には理解し難いモノが多い。だが、「中山元」氏による翻訳は、とても分かり易い。



しかし、活字だけを目で追い読むのは簡単だが、意味を理解し自分の中で咀嚼しながら読むのでとても疲れる。この本により、読書という行為が多くの体力を消耗する行為だと改めて気付かされた。



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posted by ヨッシー at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年06月22日

流行色ってなに?


流行とは、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態を表します。ここで私が抵抗を感じているのは、何故「今年の流行色はこの色」と季節毎に毎年発表されているのかです。



流行採用の動機としては、以下の動機があるそうです。以下ウィキペディアより引用開始



@自己の価値を高く見せようという動機

社会の中で自己の地位を高めることや、異性による注目や関心を獲得する。


A集団や社会に適応しようという動機

流行を採用することで、自分が適切な行動をとっているという安心感を得、また周囲にも自分が適切な行動を取りうることを証明できる。


B新奇なものを求める動機

自己をとりまく環境から情報を得ようとする欲求や、自分自身に対する刺激を求めようとする欲求。


C個性化と自己実現の動機

自分を他人から区別したいという欲求・感情のはけ口や、意志表示の手段とする。


D自己防衛の動機

様々な社会の束縛によるコンフリクトを解消し、自我を保護するため、抑圧された感情のはけ口とする。引用終了



要するに、大多数と同じ行動を起こすことで安心できる新しいモノ好きの人々が、なるべく目立ちたいと行動し、皆と同じモノを採用した結果、同様のモノが巷に溢れかえる現象を言うのでしょうか。



他人と区別したい、自分だけは違っていたいと思い行動したが、その意思表示が結局として没個性的になってしまう。人々と同じでいることの安心感と横並の精神がそうさせるのかも知れません。悲しい結果ですね。自身の個性を大切にし、流行を追わなければいいのにと思います。



流行色なんてものも、様々な国籍の専門家の人たちが集まって検討する「インターカラー(国際流行色委員会)」で、2年前から決定されているものです。そして、インターカラーで選定した再来年の流行色の方向を元に、具体的な流行を作り出すべく世界的に動きます。つまり人々によって作られた流行なのです。世の中なんてこんなものです。



作られた流行に大衆が踊らされ、作った側が利益を貪る。自分の価値観を持たないと、踊らされる側になります。それでもいいと思うなら構いません。



そもそも専門家の人々によって作られた流行色が、万人に似合うはずがありません。無理して流行に乗せられ自身に似合わない色を身につけるより、自己の価値観で自分に似合った色を身につける方が数段恰好いいと思います。



世の中には、踊る人と踊らせる人がいますが、自分はどちら側にいたいのでしょう。これに気づけば、よく流行に乗せられた人々が「どう、今年流行りの○○よ」と自慢する姿がとても哀れで滑稽に思えてきますね。同じ生きるのなら、踊らない人でいたいですね。




posted by ヨッシー at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年06月19日

Not all information on internet is accurate.


ネット上の情報が全て正しいと言う訳ではありません。ネット上の事件やニュースの拡散を安易に行う行為を見受けますが、以下の問題が考えられると思います。



@発信する情報が正しいのか

これが一番難しい所で、人は活字やニュースになると、どうしても安易に信用してしまう傾向があります。でもここで何の疑いも無く簡単に鵜呑みせず、情報が正確で正しいのか否かを良く考え見極めてから拡散した方がいいと思います。

更に拡散された情報は、コピー&ペーストされ自身の知らない所で拡大していき、そしていつまでも残ります。発信された情報に対し何も知らず何も分からないのなら、黙っているのが賢者です。

昨年私に対し、「○○○詐欺」だと、ネット上で揶揄する人がおりました。そしてそれが、事実関係や中身を全く知らない人達の手によって情報が拡散されてしまいました。一方的な情報を信じた人々の中で、私は悪人扱いです。この経験により、事実確認すらしないまま安易に同調し、何も考えずに誤った情報を信じ、拡散する人々が一定数いるのだと痛感した次第です。



A情報を発信したら当事者になる

もし仮に誤った情報が発信され、当事者が被害に遭い情報発信者を訴えたった場合、自身で責任をとれるのでしょうか。たかがネット上だと侮るなかれ。我々が、いつでも被疑者になる可能性があります。

問題を提議し情報を拡散するなら、自身に責任の所在が求められます。法に抵触すれば、損害賠償請求をされる場合もあります。インターネットが発達し、誰でも簡単に情報発信者できる便利な世の中になりましたが、使い方を誤ると取り返しのつかないことになります。



B拡散するなら解決策を示す

拡散した情報について問題だと思うなら、自身も具体的な解決手段を見つけ、何らかの合法的方法で行動を起こすべきだと思います。確かに事件や事故、社会的問題など、世間に知れ渡ることによって解決策が見出され、法の整備が進められることはあります。

しかし、それで自分が何か事をなに遂げたと思わないことです。これらは“スラックティビズム”に繋がり、同調圧力に屈する自身の価値観を全く持たない愚かな行為だと思います。社会にとっていい影響を与えたつもりになる自己満足的行為だけでは、なんの解決になりません。



C何も出来ないなら批判しない

批判や批評を行うのは簡単なことです。当事者でもない人が外野から様々な雑音意見を発するのは確かに簡単で楽です。自身に経済的、精神的、肉体的損失が及ばないなら尚更です。

しかし、本当に問題意識の高い人は、何らかの具体的行動を起こしています。ボランティア活動、寄附、当事者への働きかけなど、それもひっそりと様々な形で問題解決のため努力し関与しています。それが世間の人々に聞こえてこないのは、目立ちたくないからです。

昨年ブームになり、半ばパフォーマンスの体を成していた「アイスバケツチャレンジ」。一体、その後あの活動はどうなったのでしょう。今年も寄附できない方は、頭から氷水をかぶるのでしょうか。頭から氷水をかぶるのは具体的行動かも知れませんが、あんなパフォーマンスをするくらいなら、黙って見ている方がマシです。

もし自身の正義感や責任感のもと、世間に対し疑問を抱き問題を解決したいのなら、些細なことでもいいから行動を起こすことです。人々が少しでも何かの役に立とうと具体的行動を行った時に、大きな力になるはずです。



偉そうなことを書いてしまいましたが、私の書いてきたブログも人のことは言えませんがね。



posted by ヨッシー at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年06月16日

2冊の本を読んで


アランの幸福論について、それぞれの著者が内容について解説しています。両著者は、「人の幸せとは自身の感情により支配され、心の在り方によって左右されるのだ」と言っています。



確かに、自身の持つ感情により、同じモノや同じ現象が違って見えるのは事実です。



天気に例えるなら、澄み切った青空でも受け止め方によって違って見えます。燦々と日差しが降り注ぎ「なんて素晴らしい日だ」と思う人もいれば、日焼けを気にする人にとっては、強烈な紫外線受けることにより「なんて紫外線の強い嫌な日だ」と思うでしょう。



また、雨が降れば「しっとりとして落ち着いた気持ちなる」と思う人もいれば、「洋服や靴が濡れて嫌だ」と思う人もいるでしょう。



でも、どちらも同じ天気です。同じ場所にいる人にとって太陽は同じ光を放ち、雨も同じ量を降らせています。客観的事実に何ら変化はありません。それでも幸福に感じる人と不幸に感じる人に分かれます。幸福とは、万人において「これが幸福だ!」と定義できるものではないのです。



つまり、幸福とは人々の心の在り方によって、形を変化させるものなのです。ここに気づけば、闇雲に自身と他人を見比べて一喜一憂することもありません。自身が幸福だと思えば、それで幸福なのです。



更に、金銭の多寡や所有するモノの内容や質で決まるものでもありません。しかし、経済学はそれらを尺度に幸福を追求します。



日々テレビコマーシャルでは次々と新商品を発売し、今まであったものの価値観はどこへやら。今までのモノは何だったのかと思える程、あっという間に旧商品を陳腐化させます。一方経済学は、未来を過去の経験と現在置かれている状況から判断し予測します。でも、一体どうやってそれが分かるのでしょうか。明日、経済予想を行っている学者自身の命があるのかさえ分かりもしないのに滑稽ですね。



確かに便利な世の中になりましたが、万人が幸福になっていません。これは、経済学や科学が万能でない証です。



そもそも幸福とは当事者だけが体感できるものあり、幸福とは自身のみぞ知り得ることができるものなのです。幸福は誰にも定義できず、幸福がそれぞれに違う形を持っているのは当たり前のことだったのです。この2冊の本を読んで、私自身にとって「幸福とは何か?」が見えてきました。



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posted by ヨッシー at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年06月12日

法により欲望は制限される


景観法では、良好な景観形成実現のために建築物・工作物の高さや、意匠・色彩について規制が設定されています。わが街彦根も例外でありません。



彦根市景観条例



その規制の基準はそれぞれの景観計画によって異なり、色彩に関する規制は以下のように二つに大別できます。



一つは、具体的に数値や色票を使って色の基準を設定している規制で、マンセル表色系のマンセル値を用い、良好な景観形成のための推奨色の範囲を設定している場合や、「マンセル国際標準色票」や日本塗料工業会「塗料用標準色」で具体的な推奨色を設定している場合があります。



もう一方は、「周辺環境と調和する色」「街並に配慮した色」「けばけばしい色は避ける」というような表現により良好な景観形成の方針は定めていますが、具体的な基準を定めず、設計者などの色を決める立場の人の裁量に任せている場合があります。



この規制の中で彦根市は前者に該当し、マンセル値の指定があります。更に屋根の材質、色、形、外壁の壁、建物のデザインなど、数々のガイドラインにより規制されています。そのため、建築計画の際、届け出た計画が基準にそぐわない場合は、勧告を受けることになります。



さらに、必要な場合には変更命令が出されることもあり、施工業者側と綿密な打ち合わせが必要となります。基準から逸脱していると、元に戻す、あるいは、基準にあった色彩に塗り替えることを求められる可能性もあり注意が必要です。



また、届出が出されてから30日間は工事に着手できず、すなわち、施工30日以上前に色彩が決定していなければならないため、早い段階での計画的な色彩検討が求められます。



結果として、自分が思い描いたデザインや色彩通りに、建物が建てられないという制約が生じます。確かに景観法により奇抜な建物や風俗業の開業が規制されているようですが、自身の思い描いた建造物が建てられないのは釈然としません。



資本主義は人々の欲望を肯定する社会で、欲望を刺激し経済発展、科学技術の発展を促すのを是とします。しかし、法律によって禁止し、倫理によって規制することにより、人々の欲望が制限されているのも事実です。



自由があるようで100%の自由はありません。世の中は、当事者になってから気付くことがまだまだ沢山あります。




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2015年06月09日

ツキがある人と無い人


私たちは誰もが失敗し、間違いを犯したりします。私も昨年、新しい事業において大きな選択ミスを犯してしまいました。



しかし、ここでどんなに後悔しても、投資したお金が戻ってくる訳でありません。投資したモノすべては、サンクコストとして諦めるしかないのです。ここで大切なのは、次から同じ轍を踏まないことです。重要なのは、失敗の経験から原因や間違いを正確に捉え、今後に生かせるかどうかでしょう。



悪口を書いたり言ったり、他人を責めてしまうのは簡単です。この責任を他人に転嫁し正当化する行為は、自身の身を守るための虚栄心より起因しているのではないでしょうか。他人を責める気持ちこそ、他人に全てを委ね期待する気持の表れです。



また、努力していたのに誰にも認めて貰えず悲観的になる気持ちの表現は、他人に自己評価を委ねるしかない自身の絶対軸を持たない考え方です。これでは、失敗した経験を今後に生かせないでしょう。そして、ツキも永遠に訪れません。



これに対し、ツキを引き寄せ成功できる人は「自分が未熟だから失敗した」と考え、成長の糧にしようとします。間違えや失敗に対して「次からやらなければいい」と割り切り気持ちを切り替え、次に同じ失敗をしないようにと考えます。もちろん他人を責め貶めようとしません。ここが大切だと思います。



つまり、起きてしまった現実をどう受け止めるかという自身の心の問題であり、これが上手に処理できれば、どんなことが起こっても腹を立てず上機嫌でいられます。



世の中には、自身の思い通りにならないことは山ほどあります。それにいちいち腹を立て機嫌を損ねていたら、常に誰かに怒りをぶつけている毎日になるでしょう。そんな人を見て周りはどう思うでしょうか。少なくとも「器が大きい人だな」と思わないはずです。



度々悪口や誹謗中傷を聞かされていると、反対に気が滅入いるのではないでしょぅか。そして、それがあまりにも頻繁に続くと、人は距離を置き離れていこうとします。負の影響は付き合う人から受けます。ツキのない人は負の影響を持つ人々の作用を受け、更にツキがなくなります。ネガティヴな言葉を発している本人は、それに気付いていないのです。



ツキのある人はどうでしょう。ツキのある前向きな人々は、負の影響を受けツキを失うのを恐れるため、距離を置こうとします。負の影響は自身にとって好ましくないからです。そうしてネガティヴな人々と距離を置いた結果、ツキのある人はどんどん幸福になってゆきます。



このあたりのことについては、あの斎藤一人さんの著書でもご紹介されていますね。



今は、過去において自分自身で決定してきた結果です。他人に首根っこを掴まれて、半ば強制的に「ああしろ、こうしろ」と、言われ行動させられた訳でないはずです。最後は自分自身で決定してきたのに、その結果責任の全てを他人に押し付ける人は、他人への依存心が高過ぎるのでしょうか。



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2015年06月03日

中島義道氏の著書を読んで


私の好きな哲学者の「中島義道」さんは、作家でもあります。流石、中島氏ですね。この本の中でも、相変わらず衝撃的で歯に衣着せない物言いは健在です。


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この本の、“はじめに”の部分をご紹介いたします。



あとわずかの命 
それは今夜かもしれず。明日かもしれず、明後日かもしれず、一週間後かもしれず、一年後かもしれず、10年後かもしれず、運のいい人は50年後かもしれない。しかし、あなたは確実に死んでしまう。あなたはこの地上ばかりか、この宇宙の果てまで捜してもいなくなる。そして生を受けたこのチャンスはただ一度限り。もう二度とあなたが生きることはない。こうした残酷な状況の中で、ではあなたは何をすべきなのだろうか?生きるかぎり、働かなければならないとすると、どのような仕事をすべきなのだろうか?


あらためて文字にしたものを読むと衝撃的内容です。当たり前のことを書いていますが、多くの人は生きている日々の中で死と向き合いもせず、忘れようとすらしています。



生産性の無い仕事に満足せず偉そうにしている役人も、立法すら出来ない政治家も、スキャンダルまみれの芸能人も、日々不安定な労働条件に置かれている派遣労働者も、従業員をモノ扱いしている会社経営者も、上司に叱られてばかりいる会社員も、社内ルールの下、部下を叱りつけるその上司も、鼻をほじりながら三流週刊誌を読んでいる人も、人の批判や悪口ばかり言っている人も、天才的画家や音楽家も、ノーベル賞を受賞した学者も、バカンスを楽しむ富裕層も、これを書いている私も、皆が確実に死にます。



日々成長するため努力し生きてきた証を残しても、たかが数百年、数千年の間でしか残りません。地球の寿命でさえ永遠のものでない以上、これは当たり前の事実です。



英イースト・アングリア大学で惑星に於ける居住性を研究している、“Andrew Rushby”氏がはじき出した人類が地球上で生きていける時間の答えは、泣いても笑っても長くてあと325千万年、最短では175千万年しか残されていないと言っているそうです。



我々が残してきた、貴重で価値ある素晴らしい(人類がそう思っているだけ)生きてきた証である、文化的財産や遺産だって確実に消えてなくなります。最先端の科学技術をもってしても、決して抗うことのできない事実なのです。



アランは幸福論の中で、「自分の仕事に生きがいや幸せも見出すためには、自分の携わっている仕事が如何にして世間の役に立っているかという視点で物事を捉える考えにより人は幸福でいられる」と、言っていたと記憶しておりますが、それでも地球や宇宙の寿命レベルで考えてみれば、とても小さなものに思えてきます。



とは言え、いくらこの事実を知っても、今の自分の人生や行動に意味を見出すなとも言えません。上述の文章はニヒリズムの考え方ですが、このニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つあります。



一つは、すべてが無価値ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度。もう一つは、何も信じられない事態に絶望し、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度があります。



生を終えれば(死)、全て無になります。人が生きる意味や価値など全く無く、絶対的価値や絶対的真理も無いこの世で、我々にただ一度だけ与えられた人生。



人は人類が創り上げた幻想の中で生きるしかありません。いまのところ積極的ニヒリズムで生きていく方が、私としてはしっくりきます。人生が無意味だっていいじゃないですか。その無意味を肯定して生きるのは、極めて健全的生き方ですね。



人生について最近いろいろと考えさせられます。





posted by ヨッシー at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年06月01日

I’m so happy to see you.


今年も我が家の玄関にツバメが巣をつくりました。彼らの巣作りのスピートは速く、3日ほどで巣作りは完了しました。



そしてその後、写真の様に無事に3羽の雛が孵りました。



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ツバメは縁起のよい鳥、吉をもたらす鳥とされており、「ツバメが巣をかける家は栄える」と言われています。特に、昔から屋内や座敷などに巣を作るのは最高に良いことだとされ、ツバメは「不幸とか火災などが起こる家には入ってこない」と言われているそうです。



そう言えば、最近仕事も忙しくプライベートも充実しており、以前からの計画も順調に進んでいます。これもツバメのお陰でしょうか。



全ての雛が無事に巣立つのを願うばかりです。



posted by ヨッシー at 12:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記