2015年05月27日

市場で試す


神の見えざる手で有名なアダムスミスは労働価値節で、労働者は賃金、資本家は利潤、地主は地代を得るという価値構成説を唱えました。私はこの中で一番強い立場なのが、地主だと思っています。


現在の資本主義社会はピラミッド型と言われています。つまりこのシステムでいうと、富は世界に一定の量で存在しており、誰かが富を得たらその分だけ、誰かが貧しくなるということです。現在の我々は、紛れもなくこの世界の中で暮らしています。


賃金を貰う労働者は、資本家の取り分を搾取された後、賃金を受取ります。従って、労働者は資本家より弱い立場にあります。福利厚生が充実し従業員に優しい会社だと宣伝し、表向きは労働者側の立場に立っている様に思えますが、資本家に搾取されているのは事実です。昔の奴隷階級のように、直接的に見えてこないだけなのです。


ここでもし労働者が大きな資産得たいと思うなら、労働者層から外れるしかありません。コツコツ資金を貯め、それを元手に事業を行うなり、投資するなりして資産を増やす方法を選択することはできます。資本家になる道が完全に閉ざされている訳ではありませんので、万人にチャンスはあるのです。


しかし、100%成功できるものでもありませんから、リスクについて対策をとる必要はあります。後は、好結果がもたらされる様に創意工夫し、努力あるのみです。


次に資本家ですが、労働者という経営資源を用い、その他の資本を投入し利潤を追求していきます。賃金労働者からの搾取によって価値を増殖してゆきます。労働者はその対価として賃金を受け取りますが、資本家から支払われる賃金は、労働力商品の価値としてその再生産のために必要な費用分だけ支払われます。


これは、労働者の生活レベルによって決められます。労働者の生活レベルが高いから給料を多く支払えと言っても支払えません。なぜなら、労働力商品の使用価値は、労働して価値を生み出すことであり、しかも資本家にとっての使用価値は、賃金を超える価値を生み出すことであるからです。


賃金を超えて労働者が生み出した価値が剰余価値であり、資本家がこれを取得します。剰余価値を生まない労働者や、自分の賃金以上の価値を生み出さない様な労働者は、資本にとっては購入する必要も動機もないのです。労働者側の立場にある某政党は、この部分について一生懸命訴えていますが・・・。


最後は地主です。ここでもし、資本家が経済活動行うための土地や建物が賃借物件なら、毎月家賃や地代が発生します。資本家が購入や契約を解除しない限り支払は延々と続きます。また、地主自身が持ち主である限り、土地は無くなりません。親族や第三者への相続や第三者に転売されても土地という現物は残ります。


更に、地主との関係なら労働者も同じ立場にあり、労働者は資本家と地主から搾取され続けられます。これでは、労働者の生活レベルが向上する可能性は低くなります。


ですから一番強い立場なのが、現物を持つ地主だと思うのです。資本家が現金をいくら持っていても、インフレの時代には時間とともに価値が下がり目減りしてしまいます。世間では、現金はインフレには弱い資産だと言われています。この紙切れに商品価値はありません。商品と交換できる、交換価値のあるモノでしかないのです。


商品として活用するにも、鼻をかむにはサイズは小さく、お尻を拭くにもゴワゴワして固くて、とても役に立ちそうにありませんね。現金によって貯えられた資産が、インフレによって価値が下がることは、誰もが避けたい所です。その回避の方法として、物価の上昇率を上回る価格上昇が見込める商品を購入する方法があります。


国が信用破綻すれば紙切れより現物を持っている方が強いのです。収益を生み出す不動産投資はインフレに強い対策だと言われています。


そこで私も「不動産を持つことが本当にインフレに強いのか?」。これについて市場を通して試してみます。かなり回りくどい説明になりましたが、投資が資産価値になる方法を見つけたのでトライします。


posted by ヨッシー at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | お金

2015年05月21日

女性の社会進出


国は「女性の継続就業〜全員参加型の社会を目指して」と題し、急速な少子高齢化が進む中、全員参加型社会を目指す上で、女性の就業継続に影響を与える要因や仕事と家庭の両立支援の状況などについて分析・検討しています。ここでは、働く女性に関する厚生労働省の施策がまとめられています。



女性達の才能を活用すべきなのは確かで、素晴らしいスキルや才能が埋没している社会では、生産性の向上や経済成長のブレーキとなる可能性もあります。



しかし、埋もれている社会女性の社会進出の方法として、何も会社へ勤めるだけが対策ではありません。女性自身が起業するのも一つの方法です。



平成18年度版 働く女性の実情」によりますと、起業の目的別起業者割合は、


・自分の能力、技術、経験などを十分に発揮したい

・自分の裁量で仕事するため

・年齢や性別に関係なく仕事をするため

・より多くの収入を得るため

・社会に役立つ仕事・働きに応じた成果を得るため


などが目立ちます。



女性も男性同じく、何らかの形で社会に貢献し、自己実現を果たしたいと願う思いは同じだと言うことです。当然ですね。



そして、努力が実りめでたく起業した女性達のデータ「起業時・起業後の問題別起業者割合」もありました。こちらでは、


・開業後の資金繰りが上手くいかない

・仕入れ先や顧客の確保が進まない

・起業や経営の知識・ノウハウが不足

・人材の確保・育成ができない


切実な悩みです。


中には、


・相談相手や相談機関がない

・一人で活動する時間が長く、孤独を感じる


などもあります。



起業しても、資金面や運営において多くの問題や様々な悩みが生じてきます。一人で悶々としていても、いい知恵が浮かばない時もあります。同じ境遇にない人に相談しても、相談相手が経験不足で感情移入ができない人であれば、解決策を見出すことが出来ず相談する時間が無駄になる場合もあります。



でも、解決策は必ずあります。



「現在必要とするサービスや支援別起業者割合」のデータが示すとおり、ここにある問題について具体的解決策が提言できればいいのです。



女性の社会進出を加速させるためにどうするのか?起業後の問題解決について何を行うべきなのか?を考えてみた時に、このデータを読むことにより、何をすればいいのか見えてきます。



平成18年度版 働く女性の実情





posted by ヨッシー at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年05月15日

人口減少


私の実家は米原市(旧米原町)です。


実家に帰るといつも思うのですが、周りに空き家が増えてきています。若い人たちがどんどん便利な都市部へ移転し、かつて人が住んでいた家の周りも、今では住人のいない空き家ばかり。付近は、かつて私が幼少だった頃と大きく様変わりしております。


実家付近は、自然豊かな土地ですが、冬は雪が多く交通の便も悪く、車が無いと生活が困難な所です。


人はやがて歳を重ね高齢になります。高齢により体力が衰えると、病院の世話になる可能性が高くなります。そうなると、病院が自宅近にある方が便利ですから、交通の便がよい都市部に転居するのは合理的な考え方です。


そうした考え方の中、子育ても終了した老夫婦は、自己居住していた戸建ての物件を売りに出すことが多くなると聞きます。それでも首尾良く住居が売却できればいいのですが、売却できなければ放置されたままとなります。その間にも、外観や設備が時代遅れとなり、老朽化が加速され更に売り難くなっていきます。


高齢化の波は、住宅の無人化を加速させるのです。


ニュースを読むと、全国的にこの傾向が拡大している様子で、各エリアの都市部への集中が進む理由にも頷けます。どうやら、都市部への流入による地方人口の減少と高齢化は、避けて通ることはできないようです。


先日書きましたが、税金を投入した地域おこしで、この流れを押しとどめようという動きが見られますが、残念ながらほとんど効果は期待できないでしょうね。高度成長期ならこれでよかったのでしょうが、残念ながら今の日本は諸外国と比べ経済が成長しておりません。


分散した人口の集約化が進むことを前提に、インフラの再整備や少子化対策を行わないと手遅れになります。


一例ですが、滋賀県の人口動態を見れば明らかです。地方の人口が確実に減少していることが読み取れます。住めば都と良く言ったものですが、それは昔の話です。人間は一度便利さを覚えてしまうと後に戻れない生き物です。若者は勿論ですが、年を重ねれば重ねる程、利便性の悪い地域で居住するのが苦痛になります。


先日書いた、民間企業に対する税金投入による地域おこしの効果についても、滋賀県の人口と世帯数を見れば、効果が限定されるように思えてくるのは私だけでしょうか。




税金で徴収された富の再分配装置が非効率になってしまえば、再分配装置が存在する方が、国民全体として不利益をこうむる場合もあります。国も地方も財政が厳しいことに変わりはなく、支出の効率化が必要なのは言うまでもありません。


野放図に地方創生事業を拡大したツケが、将来世代に回ってこなければいいと願うばかりです。とても悲しい日本の現状がこちらからも読み取れます。





posted by ヨッシー at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年05月12日

公金は本来どこに使うべきなのか


税金は公共のお金ですから、その使途については、常に厳しく監視し、議論していく必要があります。公金を無意味なものに使うということは、民主主義の世界ではあってはならないことです。そのために、議会というものがあり、予算を審議するシステムになっているわけです。



選挙制度は、私たちの大切な税金の使い道を決める人を選ぶためにあるものです。だから真剣考えて当然ですなのですが投票に行かない人が多いようですね。また、投票に行かない人に限って文句が多い様に思えるのは私だけでしょうか。投票を棄権する行為は、税金の使い道について放任している訳ですから、どんな使い方をされても文句は言えないはずなのですが・・・。



最近、税金を用いた地域おこし事業に疑問を感じています。



税金というものは、本来、市場メカニズムではどうしてもカバーできない部分に使うというのが原理原則です。民間でできることを税金で実施することに本質的な意味はありません。



社会の維持に必要であるにも関わらず、民間ではなかなか実施できないところにお金を使うからこそ、強制的な税金の徴収が許容されるわけです。自衛隊、警察、消防などがそうですね。



そうであるにもかかわらず、不公平な使われ方は存在し、中には税金が大きなウェイトを占める仕事を請け負っている事業者も存在します。



地域おこしについて私は、「人がいない商店街などを以前のような姿に戻したい」「地域を活性勝ちたい」と、いう気持ちには賛成です。しかし、それに税金を投入し果たして結果が出ているのでしょうか。



高いだけで何のこだわりもない商品や代わり映えのしない品揃えばかりの商店や、古い商慣習が残ったままの取引。これでは、市場メカニズムに基づき淘汰されるのも頷けます。税金を投入しても効果は限定されるでしょう。



そこに巣食う人々にとっては有難いことかもしれませんが、特定の業者だけに便益があるのは不公平に思えます。市場原理に基づき淘汰されるべきものは淘汰し、市場を変化させる必要があり、これ以上安易な考え方で歳出拡大は許されるべきでないのです。



人口減少という時代の流れにより、かつての社会制度は崩壊しています。最近のニュースを読むと、いよいよ日本も歳出削減に向け本腰を入れ始めてきたようです。いつまでも人口増加に期待する施策を行っている場合でないのです。



posted by ヨッシー at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年05月09日

人は誰のために努力するのだろう?


「人から褒められたい」「人から認められたい」という気持ちは、人々が持つ欲望の一つです。それについて書かれた、私の備忘録にあった以下の文章は、どなたが書いたものか失念しましたが、引用させていただきます。



「引用開始」 

「あいつかよくやっているな」「あの人はすごい人だ」「とても素敵な人だ」、と思われることを常に目指し、それを自分の原動力とする向きもあるようです。人々に認められることにより、頑張ることができるのでしょう。しかし、他人の受け止め方により、自分が頑張っていても人に認められないこともあります。


例えば、自分で目標としていた仕事が達成でき、自分ではよくやったという思いで三人の方に結果を伝えるとします。Aさんは、「よくやった、凄いね」と言います。Bさんは、「もう少しこうした方がよかったのでは?」言います。Cさんからは、「う〜ん、これではいけないね」と、三人三様の意見です。Aさんに認めて貰えましたが、Bさん、Cさんには認めてもらえなかったのです。


そこで今度はBさん,Cさんに認めて貰えるよう、更に努力します。やっとの思いで結果を残し、また同じ三人に報告します。しかし今度はBさんに認めて貰えましたが、Aさん、Cさんには認めて貰えなかったのです。そして、どうしていいのか分からなくなってしまいます。これではいつまで経っても自分で納得できず、苦労や苦しみが増えるばかりです。


第三者の承認を求め、その結果に一喜一憂していると、自分を見失います。一体、誰のために自分は努力するのでしょう。これでは、自分の人生が他人の評価を気にする、他人のために生きる人生になってしまいます。 「引用終了」



幸せの定義

人の意見ばかり気にしていると、いつまでも幸せは訪れません。幸せな自分でいるためには、他人と自分を比べるのをやめて、絶対的価値観の中で自分自身と闘う様にすればいいのです。


前記したように、他人と比べてばかりいると価値観を他人の承認や外的物資に求めてしまいがちです。その価値観を、自分自身の中に持つのです。そうすることにより、他人の意見や外的物資による基準はなくなり、比べる基準は自分の中にあるものだけになります。


自身と闘うのですから、自分の心に問いかけるため、自分の基準で判断できます。その結果、思い描いていた夢やモノが手に入ればそれでよしとするのです。幸せは人から頂戴し、人に求めるものでもありません。自分の中にあるのです。「自分自身で足ることを知る」。この言葉がぴったりです。


自分の基準で考えていれば、人は十分幸せになれます。これほど確実で信頼できる方法は、他にはないと思います。私は決して頑張るなとは言いません。努力している人に水を差すつもりもありません。しかし、努力すれば人は必ず報われるのでしょうか。いいえ、決して報われません。


様々な外的容易が複雑に絡み合い、どうしても抗うことのできないものは世の中に多く存在するのです。目標設定を誤っていれば尚更です。それでも頑張りたい人は頑張ればいいのです。目指している方向へ向かえばいいのです。しかし、どんなに頑張ってもフォーブスにでてくる大富豪になれる確率は低いと思うのです。


では、どこまで頑張るのか?どこを目標にするのか?その基準が曖昧だからこそ迷うのです。だから迷わないために、自分の中の基準を決めた方がいいのです。全て二元論で考えるのではなく、考えを調和させ自分で決めればいいのです。自分の内にあるものと対峙し、その結果として他人が認める形が一番理想的だと思います。


池田晶子さんの本の中(記憶は曖昧ですが)にも書いてありましたが、「あまり不幸でない」「我慢できる程度に生きている」、この考えはいいですね。悲しみと苦痛が少ない人生が、幸福だと言えるのです。


著書の中で運命という言葉が出てきますが、私は運命などないと思っています。生ある時に起こる出来事は、原因と条件による結果であり、最初から決まっているものではないと考えているからです。ですから、運命の言葉だけで片付けてしまうのは好きではないのです。でも、唯一運命と言えるものがありました。人が絶対に抗えない死こそ、人に与えられた運命だと言えるでしょう。どんなに嘆いていても、いずれ自分の死を迎えれば全て意味をなさなくなります。


誰のモノでもない自分だけの人生です。幸せの青い鳥はどこにもいません。自分が気付かないだけで身近にいます。どんなに自分探しをしても、自分はどこにもいません。いつも自分はここにいるからです。人に意見を求めても、最後に決めるのは自分です。他人は責任をもってくれません。より一番身近にいる自分に語りかけ、対話し決めるのが幸せの近道になるのでしょう。



必要以上に人と群れない生き方も素敵だ

人は同じような行動や考え方をする人々と群れようとする生き物です。同じ気持ちや生き方をしている人達の中にいると、とても安心するようです。


仲間がいると、自身にトラブルがあった時に心配してくれます。特別な日にお祝をしてくれます。寂しい時に一緒にいてくれます。仲間と同じ行動をし、同じ様な考え方を持つ人の中にいられるのは、とても気が楽で心が落ち着きます。


でもそれは、同調圧力に屈した生き方を選択しているのではないでしょうか。もし、反対意見や違う行動をしたいと思っても、仲間から嫌われたくないため、どうしても遠慮がちに接しなければならない時があります。何かを決める時も多数決により決定され、自身の意見がやりたいことが制約される可能性もあります。人は群れると自由がなくなり、窮屈な生き方をしなければならないのです。


人間は一人でいるときが一番自由です。鼻をほじろうが悪口を言おうが、「私は何て素晴らしく素敵な人だ」と、自身を褒めていても、誰にも咎められません。とても気が楽です。他人は自身と考え方が違うのは当たり前です。群れるのが苦しいと思うのなら、自分を犠牲にしてまで同調しなくてもいいのです。


ただし、この方法には反作用があります。それは非社交的になります。自分以外の人間に重きを置かないので、他人はどうでもよくなるからです。それぞれの人生です。他人の思考に強制されず、人と群れる生き方が好きな人は群れればいいです。嫌いな人は必要以上に群れなければいいのです。どちらを選択するかは、個々の考え方に委ねるしかありません。


いずれにせよたった一度きりの人生です。生きたいように生きましょう。


As life is short, we should live the way we want to. Whether we can succeed depend on what you do and what you think . Don’t complain and give it a try.  




posted by ヨッシー at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる

2015年05月08日

勝ち組と負け組の定義


そもそも、勝ち組と負け組とは何でしょうか?



世間では年収、学歴、勤務先、生活レベルなどで、その基準を決めていますね。その中でも年収が最たるものです。しかし、誰が決めるのか知りませんが、勝ち組と負け組なんて比べる基準により変わります。



フォーブスの2013年度版世界長者番付によると、1位のカルロス・スリムが日本円で6.79兆円、2位のビル・ゲイツは6.23兆円となっています。彼らに比べれば、私は完全な負け組ですね。彼らの前で、「私は年収○○万円です」とは、恥ずかしくてとても言えませんね。



かたや年収の少ない人々にとって、年収が1,000万円ある人はとても魅力的に見えます。彼にとっては勝ち組に思えます。(言っておきますが、年収1,000万円はバラ色の人生ではありません。税金がありますから、可処分所得はそれ以下になります。少し余裕のある生活ができる程度に考えておいた方が無難です。)



相対的に判断すると、判断基準は社会情勢や人々の心の在り方によって変化するのです。こんな基準で物事を判断する訳ですから、ある日勝ち組だった人が突然負け組になり、その逆にもなり得ます。そして、自身がどこかで満足しない限り、この生き方に終わりはありません。



もちろん、お金のある方が自由な暮らしができます。競争が成長の原動力になることも否定しません。しかし、夢見たモノを手に入れ、夢が実現出来ても、どこかで満足出来ない自分がいて、更に苦しみは増すばかり。金銭、資産、地位、名誉、物資などを基準に自身と人を比べていると、その結果のみに縛られて、人生の無間地獄へと陥ります。




でも、この無限地獄から脱出する方法があります。それは比べる対象の全てを自身の中に置き変えればいいのです。十分に足りているのに、比べる対象を間違えているから不足しているとだと感じるのです。



思考フレームは大切です。



遠い昔、某メーカー製ウィスキーのCMであったと記憶しておりますが、ボトルに半分残ったウィスキーを「まだ半分」と思うのか、「もう半分」と思うのかの違いです。招かれた客は「まだ半分」と思い、振る舞う主人は、「もう半分」と思います。同じ量のウィスキーでも、見る人の立場や考え方によって大きく違って見えるのです。



思考とは、人生を大きく左右させるものに間違いありません。他人と比べてばかりいる人は、今から変えてみましょう。きっと楽になれるはずです。




posted by ヨッシー at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年05月07日

評論家は必要か?


起きてしまった結果に対し、「こうあるべきだ」「いやこうした方よかった」「こうしなければいけない」ああでもない、こうでもないと他人を批評し、もっともらしいことを言うのが評論家達。



そして時には、世論を特定の団体や企業の利益になるように誘導しようとさえします。更に卑怯だと思えるのが、自分で手を汚さず安全な場所から、無責任で抽象的な発言を繰り返すことです。



メディアに出演しているコメンテーターもその類で、コメントする問題の専門家でもない写真家や元スポーツ選手が、偉そうな顔をして他人を批判・批評しています。何の関係も無い連中のその様な姿や言葉を、私は見たくも聞きたくもありません。



どうしてもコメンテーターが必要ならば、その道で活躍している人々を呼べばいいのです。そうでないならば、私見だと断ってから話して欲しいですね。



ある経済評論家はこう言っていました。「企業が生き残るためには、イノベーションを起こせばいい」「それまでのモノや仕組みなどに対し、全く新しい技術や考え方を取り入れ新たな価値を創造し、そしてそれを生み出し、社会的に大きな変化を起こすことだ」と。



この言葉の中には、具体策がないため、私にはどうしていいのかさえ分かりません。これでは何も言っていないのと同じです。それに、こんなことができたら誰も苦労しません。本当にできるのならお金を支払ってもいから、是非とも経済評論家の先生に教えていただきたいものです。



美辞麗句を並べる前に、自分で実践して見ればいいのです。自分でやってみれば、口で言う程容易くはないのが、良く分かるはずです。全知全能の神であるまいし、貴方達の知らない世界もあるでしょうに。一つの意見に反対を唱えるなら具体案を示し、そしてそれを実行して欲しいのです。



もし会社内に評論家の様な人がいたら、きっと会社にとって大きな不幸になると思います。そんな人は解雇すればいいのでしょうが、今の日本は解雇するのも容易ではないのが事実です。



「文句ばかり言っていないで、さっさと行動しろ!」と言いたくなります。と、文句を言いつつも、嫌な人から離れたくても離れられない会社経営者は、まるで悪妻を持ったと言われるソクラテスの心境に似ています。そんな人々を抱えた企業経営者達は、哲学者になれるのかも知れませんね。



ソクラテスが考えたように、「知っているものが何も無い」という状態ではなく、「知らない(不知)ということを知っている」人が、本当の賢者ではないでしょうか。



posted by ヨッシー at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きる