2015年02月27日

新規事業へ参入


今月は小社の決算月です。



お陰様で今年度も良い結果が残せそうです。そして、来期もセールスレップの依頼が盛りだくさんで、バイオマスボイラー用燃料木チップの確保、新設中間処理施設の営業、東南アジア向け再生資源の輸出事業があります。



特に、東南アジア向けの輸出事業は兼ねてより願っていた事業です。



この事業は3年程前から目標としており、今年になり急遽参入出来る運びとなりました。



事業詳細は、改めてウェブ上でご案内いたします。ありがたいことに、来期も忙しくなりそうです。



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2015年02月20日

一生働こう


会社組織に属していれば、経済的負担や法的リスクは会社という人格に責任の所在があり、個人は組織内で保護されます。余程の不正行為や不祥事を起こさない限り、従業員として雇用は守られるはずです。


ただし、あまり失敗ばかりしていると査定に響き、リストラや出向を命じられる場合があります。


一方、自営業においては、済的負担や法的リスクは全て経営者の責任になります。不正行為や不祥事、経営状況の悪化により存続の危機に陥ると、生活に大きく影響します。


反面、事業が軌道に乗れば大きな利益を得られます。


一箇所からの収入だけで生活するのか、コストリスクを分散し複数の箇所から収入を得るのかの違いです。


「どちらが正しいのか」「正しくないのか」と言っている訳ではありません。自身がどちらの生き方を選択するだけの違いです。


私は、より柔軟性を持たせるなら自営業を選択し、自分の事業で生計を立てていくのが望ましいと思っています。


米国では55歳を超した頃から、サラリーマンを続けることが難しくなっており、60歳以降も現役として働ける環境を安定的に確保したいのであれば、できるだけ早い時期に自営業や会社経営の道へと転身するしかありません。


長年会社勤めをしてきた中高年者が、ゼロから自営業をスタートさせると言っても、短期間でビジネスを軌道に乗せることは難しいからです。


日本でも、定年まで本当に働けるのか不確実な時代になっています。今から勉強してチャレンジできる環境を整えておくのも大切です。


定年退職後、その後の人生がバラ色である保証はどこにもありませんから。


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2015年02月17日

撤回はいけないことか


自分が決めた物事を撤回するのはいけないのでしょうか。



自分が一旦口にした言葉を死守しようとする行動は、大衆において確かに素晴らしいことだと考えられ、世間もそんな人にエールを送り賞賛する傾向があります。



しかし、所詮それも他人の話です。どこかで、自分達に関係ない遠くの出来事だと思っているから、簡単に励ましの言葉を送ろうとするのです。



同調圧力の強い限られた環境の中、無責任に励まし、決して誰も間違いを指摘しません。ハッキリと指摘してあげればいいのに、相手に嫌われるのを避けたいがため、努力次第で報われると言う幻想のもと行われます。



彼らは、資本主義社会の不平等さに全く気付いていません。そんな面倒な人が、世の中に一定数存在するようです。



間違いを指摘されないから正しいと信じ、励ましにより誤った方法に気付かず、誤った方法のまま努力する。


その言葉を信じ、当の本人はいつの間にか精神的、金銭的ダメージは大きくなり、取り返しがつかなくなります。



そして、損失回避の罠に陥り、時間とコストをムダにしてからやっと間違いに気付きます。



「信念」「初心貫徹」と言えば聞こえはいいですが、柔軟さがなく「頑固」とも言えるのです。



関西弁言うなら「そりゃあかんやろお前」ですね。



これでは、いつまで経っても成功できません。



「努力すれば誰でも成功出来る」その言葉自体がまやかしです。ダメならダメと、ダメなやり方を指摘するのが本当の思いやりでしょう。



そんな人々が道半ばで「や〜めた」と言った人に対して、どんな言葉を投げかけるのでしょう。



途中で止めるのは、自分の判断に誤りがあり、損失回避の罠に陥る前に気付いたからに他なりません。大きなダメージになる前に、早くに自分の誤りに気付くのは正しい判断であり、少しも非難されるべきものでもありません。



止めるのを選択したのは、自己欺瞞に陥る前に、相手に対し誠実な態度を示したからです。更にそこには考え方の柔軟性もあります。



正しいか正しくないかは当事者が判断します。それは、全く何も知らない関係ないあなた達が判断し、結論を下す問題では無いからです。



そんなことも分からず、方向転換した他人に対して攻撃的な気分になれるというのは、責任の所在を他人に求める被害者意識の強さの表れでしょう。



被害者意識のもと自分だけが正しいと思い、口汚い言葉で人を罵り他人を攻撃する行為は、巡り巡って自分にマイナスの影響を与えます。他人を攻撃するというのは建設的思考でなく、過去に後悔する逃避行為で、何より人望を失う結果をもたらすからです。



試しに、人の悪口ばかり言っている人と一緒に過ごしてみてください。気持ちが暗くなり、疲れませんか。



そんな方に、積極的に会いたいと思う人がいるでしょうか。少なくとも、私なら会いたくありません。もしあなたの身近にいるなら、早めに縁を切るのが懸命です。



また、人を批判するなら、語彙の乏しい子供のような言葉遣いではなく、大人の言葉遣いでお願いしたいものです。それは、母親におねだりした子供が自分の要求を受け入れられず泣き叫び、駄々をこねているようなものだからです。



いくらウェブ上だからと許されません。書いたものは、言葉のように消えず全て記録に残ります。



記録に残された汚い言葉の数々は、その言葉を発した人の本性です。心中にないものを言葉にするのは勿論、書くこともできません。



更に、事実関係を明らかにし、何がどのようにいけないのか、具体的な反論があればいいのですが、それもありません。真実を包み隠し、ただ単純に暴言を吐くだけです。



当事者にしか分からない内々の話は、世の中に沢山あります。



周りの人も、一方的な意見しか聞かないまま「あの人が悪い」と、決めつけるのはおやめになった方が賢明です。後で正しい判断が下された時、どう対処するのでしょうか。既に同調している時点で、同じ穴の狢ですがね。



失敗した責任は自分自身にあります。自身で判断し決定したからです。これは私も同じです。



事実に基づかないものを、恥ずかしげもなく世間に発信するのは、自身の愚かさを晒しているのと同様です。



某国のように国外に敵を作り、国をまとめるナショナリズムに似ています。



世間には情報弱者で、自己批判精神のない人々が一定数いるのだと割り切り、放っておくしかなさそうです。



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2015年02月13日

How much do you earn?


人間長生きするのが本当にいいことなのでしょうか。ふと、そう考えるときがあります。



ただ生きている時間が長いだけで、何もせず生きながらえているのなら余計にそう感じます。なるべくなら、社会に負担をかけない生き方を私は望んでおり、自身が健康であれば尚更です。



様々な事情があり働きたくても働けない社会的弱者であれば、我々現役世代が各々負担し、相互扶助の精神で助け合うのは理解できます。しかし、心身共に健康で、趣味と娯楽に明け暮れ、何不自由なく暮らしている高齢者達に対しては、憤りを覚える時があります。



今日はゴルフ、明日は登山、来月は海外旅行、挙句の果てに日々の健康を維持するためのジム通いなど、数え上げればキリがありません。毎日暇を持て余し、贅沢三昧で悠々自適な生活を送っておられます。



彼らの話を聞いていると、どうやら年金受給者のようです。趣味にいそしむ彼らの生活は、現役世代からの負担により成り立っている訳ですね。



その姿を見ていると、「そんなに心身共に健康なら働いて、現役世代の負担を少しでも軽くしてくれればいいのに」と思います。



若者は毎日一生懸命働いても、年金受給者の受け取る金額に満たない人々も大勢おり、ギリギリの生活をしている人もいます。そんな若者達と比べてしまうと、決して全ての高齢者が弱者でないのが分かります。



若者がフルタイムで働いた手取り金額より遥かに多い金額を貰っている人が大勢います。それが私にはどうしても納得出来ず、ステレオタイプに全ての高齢者が弱者だと考えるのはいけないと思うのです。



できれば、将来現役世代の年金受給開始年齢が遅くなり需給金額も減っていく中、各々働かる人は働き、少しでも現役世代の負担を減らす努力をして欲しいのです。仕事を辞めその後の人生において何もせず、社会に貢献しない生き方は、私には辛い生き方で出来ません。



権利だからと言われればそれまでですが、働ける間は働き自分の生活は自分で成り立たせる選択肢もあるのです。「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」が施行されたのも、時代の流れとして定年後に年金で暮らすと言う定義が、近年変わりつつあるからでしょう。



「死ぬまで働けと言うのか」と、お叱りを受けそうですが、そもそも死ぬまで働くのがいけないと思う考え方がいけないのだと思うのです。これも、それぞれの価値観や見解によりますが、生涯現役で社会に役だっていると思えば、趣味三昧の生活より多くの生き甲斐を見出せるのではないでしょうか。



生まれてきた理由や生きる目的をこの人生の中に見出すとするなら、それは働くことにより見いだせるものだと確信しています。



働くことは、神から与えられた人生と言う時間を過ごすため、人に与えられた最良の方法です。働かないのはもったいないですよ。



最後に気を付けたいのが、現役時代に家庭を顧みず仕事一辺倒で過ごしてきた人達です。定年退職した後、時間を潰せる仕事や趣味があればいいのですが、それが無ければ妻のお荷物になるだけです。



いつでもどこでも妻の尻を追いかける亭主の姿を見て、妻から「靴の裏に貼りついた濡れ落ち葉のようだ」と言われないためにも、一生働ける仕事を持ち、将来の人生設計をしっかりと確立しておきたいですね。



写真は、いつもお尻を追いかる亭主から離れたい妻達のために設置されたお店の看板です。日本にもこんなお店があると素敵ですね。 

        

     IMG_1638.JPG   



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2015年02月10日

成功している会社とは


世間では、従業員の数が多い会社ほど「成功している会社」と評価される傾向にあります。確かに会社の規模が大きいことは、多くの雇用を創出しており小社より納税額も多いでしょう。外見を良く見せる効果もありますね。



でも、実際の内情は火の車になっている会社も少なくないようです。従業員が多くなれば、デスクやパソコンなどの備品も人数分だけ揃えなければなりませんし、広いオフィスや工場を借りるための家賃や設備投資額も大きくなります。



人数が増えれば人件費も大きくなり、気づかない間に毎月の固定費は従業員数の増加に比例してどんどん増えていきます。マンパワーに頼る経営なら尚更です。



突然に、大口の取引先が大口の取引先が離れ、売上が減少しはじめると、人件費を支払うにも困窮してしまうかも知れません。



かといって社員を解雇してしまえば、新しい仕事を請けるためのマンパワーが不足してしまうため、売上はさらに低下を招きます。どう転んでも、経営は辛いことばかりです。。



私はこれが嫌で、自分でできる範囲の小さな規模の会社しました。単純労働を行うマンパワーに頼る経営を行わず、付加価値を付ける仕事を行う発想を持ち、取引先を分散する様に心がけています。



私には多くの方を雇用する能力がありません。それに私の考え方は、毎月一人に30万円支払うより、5人に6万円ずつ支払う方がより効果的だと思っているからです。



少額ながら一人でも多くの方に収入を得ていただいた方が、幸せがシェアできるのとリスクの分散になります。毎月の固定費を苦労しながら確保し、雇用を維持するだけが全てではないとの思いもあります。



成功の定義とは何でしょうか。



会社規模、売上額、利益率、経営年数、従業員数など、定義は人それぞれにあるかと思います。



私は違います。



自身の立てた目標が達成できた時が成功です。そう考えれば、随分と気持ちが楽になります。




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2015年02月07日

判断能力の欠如


事業活動や生活を営む上において、人々の生活環境を守るために最低限守らなければならいモラルやルールがあります。



それすら守られず、ルールやモラルに訴えられないとなると、いよいよ法律で縛られることになります。



廃棄物の集積又は貯蔵等に起因する 周辺の生活環境の保全上の支障の除去等に関する法律案(概要) 



あまり過度に規制されると、言論の自由、宗教の自由など、しばしば制限され、また官僚制による腐敗や非効率が深刻化する社会主義国家を想像してしまいます。



とは言え、社会道徳を無視した形で個人道徳が守られず、個人の行為が他者に対し侵害すると、社会道徳と一致する法で規制されます。



少なくとも立派な?大人に対する過剰な介入が、余計なお節介にならなければいいなと思います。



規制ばかりの、住みにくい世の中になるのは嫌ですが、ゴミ出しのルールすら守れない人々がいる以上、止むを得ないですね。



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2015年02月06日

ワインは人に似ている


私は自宅でよくワインを飲みます。ただ、そんなに強い方でないため、フルボトルを空けるのに3日〜4日かかります。



当然バキュバンを用い保存する訳ですが、数日かけて飲む間空気に触れたワインの味は、日々変化していきます。私はこの変化を、いつも人に例えて表現しています。



例えば、コルクを抜きグラスに注いだ瞬間、グラスの中に綺麗な色と、いい香りが立ち込めますが、飲むとたいしておいしくないワイン → 最初の印象や見た目はいいが、話すと中身が無い人。



その反対に、香りと色は今一だが、飲んでみると以外に美味しい → 一見すると強面で、最初はとっつきにくいが、話してみるととてもいい奴だった。



経時変化もありますね。


1日目は美味しいが、2日目、3日目と味が劣化していく → 最初はいい人だと思ったが、付き合っていくうちに本性が現れ豹変する人。



反対に、

1日目は期待外れだったが、2日目、3日目と、花が開き美味しくなっていく → 最初はイマイチな奴だなと思っていたが、付き合っていくうちに人間性の良さが分かる。



最初から最後まで味が変わらず、美味しくいただける → 最初の印象通りで自分の考えに近く、腹を割って本音で話せる人(親友になれる人)。



最初から最後まで口に合わず、購入した自分に後悔する → 出会ったことさえ後悔する人。



失敗したなと思うワインなら買わなければいいですが、人間関係はそう簡単にはいきません。人は人間関係に悩まされることが多いですね。



この前買ったグルジアのワインは、今までにない個性的な味でした。人に例えるなら私の様な変人です。



これはあくまで、私の主観です。ワインの味の変化は、とても興味深いものがあります。



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2015年02月05日

喫煙者と非喫煙者


私の事務所は禁煙です。事務所にお越しいただくお客様には、禁煙ですとお断りしています。どうしてもタバコを吸いたいお客様には、ベランダに出て吸っていただくことになりますが、未だかつてそこまでして吸いたいと言うお客様はいらっしゃいません。



事務所なら喫煙者の方に、タバコを吸わないで欲しいとお願いできるのですが、外でお会いする時はそうはいきません。



喫茶店でお会いすることもあります。最近は、お店の分煙化も進み、非喫煙者にとってありがたい時代の到来です。



しかし、喫煙者の方とお会いする際、どちらの席にするか判断に迷います。



喫煙者の方はタバコを吸いたいだろうし、非喫煙者の私はタバコの煙を浴びたくないし吸いたくもない。お店に入った途端、お互いの権利と利益がぶつかり合います。



ここで私の権利を主張すればいいのですが、大抵私の方から「喫煙席でよろしいでしょうか?」と、よせばいいのにそう尋ねてしまいます。



「はい、お願いします」と、あっさり言われたら、馬鹿な言葉を吐いた自分に後悔し、「どちらてもいいですよ」と言われれば、この時とばかりに非喫煙者である旨を主張し、非喫煙席にご案内します。



前者になった時は最悪です。お相手の方は、オーダーを通す間も無く席に座るや否や、ポケットかタバコを取り出しタバコに火をつけます。その瞬間、PM2.5より恐ろしい悪魔の煙が私を襲います。鼻腔、髪、洋服の全てに嫌な臭いが付着し、目はチカチカします。



午前中にこうなってしまうと最悪です。身体にまとわりつくこの悪臭に一日中悩まされ、帰宅してから速攻でお風呂に入り、洋服に消臭剤をスプレーしなければならないのかと考えると、憂鬱になります。とても悲しい時間です。



ここで、お互いが望まない席に座った場合を考えてみました。



喫煙者が非喫煙者を気遣い非喫煙席に座った場合、喫煙者が、どうしてもタバコを吸いたくなれば「外でタバコ吸ってきます」で済みますね。席を外している間は、話をする目的が達成出来ませんが、汚染された空気を吸うよりマシです。



非喫煙者が喫煙席に座った場合はどうでしょう。


どうしても新鮮な空気が吸いたいので「外で新鮮な空気を吸ってきます」とでも言えるのでしょうか。これはさすがに、あからさまで露骨な態度だから出来ませんよね。外の空気を吸うため、五分おきに席を外されたら、お会いした時間が無駄になるし、相手も気分が悪いでしょう。



それなら遠慮せず、私が最初から非喫煙席を選べばよかったのですから。喫煙席を選んでしまった私は、どこかで遠慮し、喫煙者に気遣いしているのです。自身の情けなさに憤りを感じる瞬間です。



もう一点気なるのが、喫煙に要する時間です。



お店なら話ながらですからそれで済みますが、会社で勤務中に席を外し喫煙する時間はどうでしょう。休憩時間であれば誰に文句を言われる筋合いではないでしょうが、勤務時間中の喫煙は時間の無駄になります。



喫煙により、非生産的な時間を過ごしているからです。利益を最大化するためには、生産効率の低下を考えなければなりません。喫煙により、生産効率が低下した負担は誰かが背負うのです。大きな組織なら目立たないでしょうが、実感出来ていないだけです。



そう考えれば、星野リゾートの採用条件に、非喫煙者である理由も頷けます。



たかが座る席の問題と思われるでしょうが、私にとっては大きな問題です。タバコの煙を目の当たりにし、その度に、「あ〜あ、 タバコなんて吸うなよ!」「どこが良くて吸うのだ?」「臭いよ」と、心の中で毒付く自分も嫌です。



そもそも、喫煙者はニコチン依存症で、正常な機能が阻害される状態を指します。ニコチンを体内に取り込まないと、平常心でいられないからです。イライラする、落ち着かない、不安になるのがそうです。



そこでタバコ吸うと、それが改善されます。しかし、喫煙によってこれらの症状が改善されていると思うのは誤りです。ニコチンの薬物としての作用が、離脱症状を喫煙によって一時的に緩和されているだけなのです。



受動喫煙者に対する、急性ニコチン中毒のリスクも否定できません。



それならば喫煙者に対抗し、こちらは同じ化学物質を体内に取り込むため、お酒(アルコール)を飲みながらでお話いたしましょう。いっそのこと、「お酒を飲まないと落ち着きません」「イライラするから」と、言いましょうか。



化学物質を摂取する観点から見れば、何故人前で吸うタバコは良くて、お酒はいけないのかと考えたくもなります。お酒は美味しいと感じる嗜好品です。料理やお菓子に用いられますが、残念ながらタバコにはそれが出来ません。



ただ世間において、タバコとお酒が同一線上で比べられないのは、お酒が家族に大きな迷惑をかけたり、様々な事件や事故・問題を引き起こしたりして社会的・人間的信用を失ったりする場合があるからです。



ただ私には、タバコの害の方が大きいように思えますが。



あの狭い毒ガス室と思える喫煙室で吸われるのは一向に構いませんが、喫煙者と同席するのは本当に苦痛です。



これからも、喫煙者と非喫煙者の権利と主義主張は続くでしょう。




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2015年02月03日

教師は人格者で無い


今日は節分です。節分と言えば、各季節の始まりの日の前日に「福は内、鬼は外」と、言いながら豆まきをし、悪い鬼(邪気)を追い払うものですね。



しかし、私が小学生だった頃の担任の先生は違っていました。「鬼は外と言ってはいけない」「君たちは鬼を差別するのか?」「外に追いやらず鬼と仲良くしよう」「おかしいじゃないか、平等に扱おう」と言って、「鬼は内」と、仰っていたのを思い出します。



子供心に「変だな?」と、思っていた記憶があります。でも、その疑問も、その場ですぐ消えてしまいます。子供にとって先生の仰る言葉が全てです。「先生は偉い」「先生は賢い」「先生は人間的に素晴らしい」と、盲信しており、そこに疑う余地などなかったからです。



それに、今になって調べてみると、確かに「鬼は外」がタブーとなっている寺社があるようです。



鬼鎮神社(埼玉県比企郡嵐山町)「福は内、鬼は内、悪魔外」

鎌倉時代の勇将・畠山重忠の館の鬼門除けとして建立したので「悪魔外」。また、金棒を持った鬼が奉納されているので「鬼は内」です。


千蔵寺(神奈川県川崎市)「福は外、鬼は内」

厄神鬼王(やくじんきおう)という神様が鬼を堂内に呼び込み、悪い鬼に説教をして改心させ社会復帰させます。


大須観音(愛知県名古屋市)「福は内」のみ

伊勢神宮の神様から授けられた鬼面を寺宝としているため「鬼は外」は禁句です。*株式会社オールアバウトウェブサイトより


他にも沢山ありますが、これなら「鬼は内」も頷けます。


担任の先生が、これらをご存じだったのか定かではありませんが、今思えば先生は多分違う意味合いで「鬼は内」「全てを平等に扱え」と、仰っていたのだと思います。



先生は、「全てを平等に扱え」と、仰いましたが、世の中全てのモノにおいて平等でいられるはずはありませんよね。動物、植物、勉強、スポーツ、仕事、趣味、生活、持ち物など、皆違います。それを平等にしようとすると、社会が平板化・希薄化した、つまらない世の中になってしまいます。



それと「平等、平等」と仰る先生も、我々を学業成績と言う尺度で差別していましたね。下らない、つまらない尺度の中において、成績優秀な生徒は上とし、劣等性の私は下と分けていませんでしたか?



問題の回答が出来ない私に向かって、「お前の耳は○○○(差別用語なので控えます)か!」と、教壇に立たされ、クラス全員の前で叱りましたね。今でも鮮明に記憶しておりますが、あの時は本当に悔しくて悲しかったです。



確かに勉強も出来ず、悪戯ばかりしていた私です。これは、私が先生の思い通りに教育できなかった意趣返しだったのですか。私の人間性まで否定されていたように思えます。



先生のこの行為は人権侵害であり、先生の仰る平等主義の主要な柱である概念に反していますね。平等なら特定の生徒を、皆の前で叱ってはいけません。教壇に立ち教鞭を執る先生にしても、平等と言いながら差別化を図る自己矛盾が生じています。



それとも教師という職を利用した、平等主義を世間に蔓延させるための多数派工作だったのでしょうか?



大人になり改めて考えると、先生の仰る「平等」など、所詮綺麗ごとに過ぎなかったのです。世の中に出て様々な経験をすると、学業だけが全てで無いことがよく分かりました。



差別が良いと言いませんが、世の中差別に満ち溢れています。先生の仰る世界と価値観の中で生きていれば、今頃私はどうなっていたのでしょうか?確かに学業に優れているのは素晴らしいことです。しかし、それは与えられたものを有効に使えてこそ初めて役立つものなのです。



劣等性であったこの私でも、会社経営ができています。私は、テストの高得点を競うゲームが苦手だっただけなのです。



こんなこと書いていると、「お前は劣等感の塊だ!」「お金儲けだけがすべてではない!」と、先生からお叱りを受けそうですね。劣等感は確かにありますが、先生のお陰で決して平等で無い世の中で、何とか生かせていただいております。



あの時先生から受けた侮辱と屈辱が、今でも心の中にあるからです。それが原動力になっているのも事実です。



今でも働く原動力になっているなら、先生に感謝しなければいけないのですね。先生ありがとうございます。



でもずっと気になっているのです。あの時何故、私だけ集中攻撃したのかを。出来が悪かったからですか?憎しみがあったからですか?それとも愛の鞭?



もし先生がご存命であれば、今のお考えを是非拝聴したいものです。




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